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108.十七番目の月の光のもと

 声が全て消えた。

 音も消えた。

 静まり返った会場に、声の消えたのを確認したように、地震の緊急放送が流れる。

 土岐はゆっくりとその場から立ち上がった。そして絶望的な表情で、自分の乗っているステージを見る。予想は出来た。だが予想は予想で、現実ではない。だが。

 ふらり、と布由もHALもいなくなったステージを見渡す。

 するとそこに一人の、見覚えのある人物が転がっていた。


「朱明さん?」


 慌てて土岐は近寄る。


「動かすな!」


 途端、朱夏の鋭い声が飛ぶ。二人は気を失っているように見える朱明のそばにかがみ込む。


「どうなっているんだ? 朱夏…… 君知っているか?」

「連れ戻しに、行っているのだ、と思う」


 一つ一つの言葉を確かめるかのように朱夏は言った。


「布由は…… 布由は仕方がない。彼が行きたがっていたのだから。だがHALは違う。もしかしたら呼び戻せるかもしれない、と私がたき付けた」

「朱夏……」

「生きてはいる。彼の部下にでも運ばせてくれ。……頼む」


 そう言って朱夏はふらり、と立ち上がる。そしてギターのサスペンダーを外して、朱夏は辺りをゆっくりと見渡す。土岐はそんな朱夏を見上げて訊ねる。


「君はどうするの? 朱夏」

「都市は元に戻ったんだ。私は私のしなくてはならないことをしなくてはならない」

「……安岐くんだね?」

「ごめん土岐、私は行かなくてはならない。それが私をここまで運んできたんだ。私の一番大切なものなんだ。だから……」

「安岐を迎えに行くんだね?」


 朱夏はうなづくと、一度、土岐をぎゅっと抱きしめた。

「……私はすごく、何か土岐に言いたいんだ。ものすごく言いたいんだ。だけど何を言っていいのか判らないんだ」

「いいよ、俺は」

「土岐」

「俺にはなぐさめてくれる人はいるから」


 ぽんぽん、と土岐はその背中を叩く。そして押し出した。

 朱夏はうなづくと、ステージから飛び降りた。そしてそのまま一気に走りだした。

 スタンドからその様子に気付いた東風と夏南子は、警備員の止める手も振り切って駆け出していた。

 一瞬身体は大丈夫か、と東風も驚いたが、夏南子はそうやわな女ではない。

 朱夏は会場の外へ出ては見たが、一体何処をどうすればいいのか、彼女には見当がつかなかった。と、その時、聞き覚えのあるクラクションの音がした。


「朱夏! 乗れ!」

「東風!」


 夏南子は後部座席に慌てて移る。軽自動車だから、後部のドアを開けて、という訳にはいかない。朱夏は助手席に滑り込む。入ったと同時に、東風はドアを閉めるか閉めないか、といううちにアクセルを踏んだ。


「……何だこりゃ」


 窓から外を見た三人は、一斉にそんな声を上げた。

 ―――街の様子が、変わっていた。

 景色が、変わっていた。

 それまで決して見えなかった、「遠くの高速道路の灯」が見えた。「遠距離列車の灯」が見えた。これで今が昼間だったら、「遠くの山々」や、「きらめく海」も見えるかもしれない。


「……畜生…… 一体あの橋は何処へ行ってしまったんだ」


 東風は吠える。もともと無かったはずの橋であり、川である。元に戻った時、それが一体何処に相当するのか、見当がつかなかった。


「……土手だ」


 朱夏はつぶやく。


「東風、土手のある所を行ってくれ!本当の川沿いの、土手だ!」


 この都市を出ようとした時のことが朱夏の記憶回路に浮かび上がった。


「土手」

「あの時のだったら、こっちよ」


 夏南子が後ろからナビゲーションする。


「そこだと思うの? 朱夏」

「判らない。だけどあそこだけは確実に川と橋があった所だと思う」

「行ってみりゃ判るさ」


 東風はそうつぶやくとアクセルを踏んだ。もう迷うことはなかった。



 視界の右半分は、見覚えがある、と夏南子は思った。


「だけど左半分は全く見覚えがないわね」


 川はある。だがそこに橋は無い。

 少なくとも、あの高さと深さを持ったものは。目の前にあるのは、月の光を受けてきらきらと光る、水のある、本物の「川」であり、鉄骨がむき出しになった橋桁を持つ「道路」だった。


「止めてくれ。見てきたい」


 言われる通りに東風は車を止めた。確かにここだ、と彼も思う。

 朱夏はやや顔を歪めて、耳に手を当てる。指向性を広げているのだろう、と東風は思う。その上で更に感度を高めているのだろう。普段よりずいぶんと神経をつかうはずである。草の陰にいる虫の鳴き声がさぞうるさいだろう。


 と。


 いきなり弾かれたように朱夏は駆け出した。


「朱夏?」


 答もせず、駆けていく。


「判ったのかしら」

「とにかく、行こう」


 二人もまた、朱夏の後を追って行く。土手をすべりおりる。月明かりだけで、足元がおぼつかない。

 夏南子はあまり走らない方がいい状態である自分をもどかしく思う。だから、その代わりに。


「先に行って東風!」


 その代わり、このあたりをゆっくりと探しながら行こう。自分の亭主の背中を見送る。


 川のほとりに、誰かが倒れている。男だ。結構大きい。


 まさか安岐……?


 朱夏の耳を疑う訳ではないが、この場に倒れているなら、その可能性だってあるのだ。夏南子はそろりそろりと近付くと、ポケットに入れた、コンサート用のペンライトを倒れている男に近づける。

 夏南子は息を呑んだ。思いきり吸い込んだ息に声を乗せる。


「来てーっ!」 



 十七番目の月は、こうこうと地上を照らしていた。色の判別はともかく、形の判別は楽にできるくらいの明るさの光が満ちていた。

 だがそれが目に入った時、朱夏は目をこすった。見間違いなどある訳ないのに、彼女は目をこすった。


「……」


 朱夏は靴を脱ぎ捨てていた。

 ゆっくりと、前方を歩いてくる男の姿が見える。目をこらす。感度を上げる。焦点を合わせる。


「安岐……」


 間違いない。朱夏は声を張り上げる。一番呼びたかった相手の名を、その声に乗せて。


「安岐ーっ!!!!」


 その声に、前を歩く男は、反射的に顔を上げた。朱夏は走り出す。走る。男は立ち止まる。そして大きく手を広げる。

 勢いが良すぎた。飛びついた朱夏は、安岐を押し倒す恰好になってしまった。痛、と安岐の声が朱夏の耳に届いた。


「大丈夫か?」

「相変わらず乱暴だな」


 くすくす、と安岐は笑う。


「馬鹿野郎!」


 言い放つと、朱夏は安岐を抱きしめる。


「やっと、会えたね」

「会いたかった。安岐、会いたかった。ずっとずっとずっと、私は、会いたかったんた!」


 どのくらいそうしていただろう。遅れてきた東風達が近付いてきた。だが二人ではない。三人だ。二人はようやく身体を起こす。


「誰だろう……」


 朱夏はつぶやく。次第に月明かりだけでも人の顔までもはっきりしてくる。

 東風と夏南子は、一人の大きな男を両脇から支えていた。足を怪我しているらしい。だが、その姿に、安岐は見覚えが……あるような気が……


「兄貴」


 その言葉を聞いて朱夏は勢いよく安岐を引き起こす。


「安岐か? やけに大きいな」


 相手は目を丸くしていた。

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