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第9話

 そして竹村さんの言葉に私は息を呑んだ。


「真昼はおまえをいとった」

「まさか!」

「俺も最初は笑い飛ばした、真昼は真剣だと言った」

「そんな筈は」


「俺が反対したんだ、おまえが前科持ちだからロクでもねぇと反対した」

「前科者じゃありません」


 竹村さんは空元気な笑いで場を和ませようとしたがそれは難しかった。


「おまえが良い奴だって事ぁ分かってたんだがな」

「ーーーーありがとうございます」

「真昼の愚痴のひとつでも聞いてやってくれ」


 父親としての竹村さんは酷く小さく見えた。


「分かりました」

「おまえの携帯番号、教えてやっても良いか」

「はい」


 まさかこんな形で真昼さんと再会する事になるとは思ってもみなかった。それにしても、傷付いた女性に私のような人間がどう関わって良いのか、再会の喜びよりも不安がそれを上回った。


 数日後、真昼さんから個人用携帯電話に着信があった。それは丁度勤務時間中で後回しになったが、続いてショートメールが届いた。



久我さんお久しぶりです


勤務がお休みの日を教えて下さい




 その三日後、私は竹村家の玄関先に立っていた。真昼さんの嫁ぎ先である田村家で会う事ははばかられ、人目のある場所で深刻な話をする事も躊躇われた。そこで竹村さんの了承を得て二人で会う事になった。

 ただ、そこに私に下心が無かったとは言い難かった。


(ーーーーうう、む)


 手土産の一つも要るだろうと「女性が好む菓子はなにか」と同僚の女性警察官に尋ねてみた。


「え、警視正、彼女さんが出来たんですか」

「そんな訳ないでしょう」

「いやいやいや、まだお若いんだし、見た目もそこそこ悪くないと思いますよ」

「36歳でそこそこのやもめですから」

「地雷踏んじゃいました?」

「傷付きました」

「あちゃーーーー、ごめんなさい!悪気はないんです!」


 そこで署から近いパティスリーで花柄模様のマカロンを買う事になった。全面ガラス張りの店内、女性客が行列を作る中、私の出立ちは違和感しかなかった。


(は、恥ずかしい)


 しかも順番が回りショーケースの前に立った私にはなにがなんだか分からなかった。戸惑っていると「その方のイメージカラーはございますか」と尋ねられた。


「あ、黄色、オレンジで」


 私は真昼さんから向日葵の花のような明るさ、溌剌とした印象を受けていた。透明な化粧箱に詰められたマカロンは黄色から橙色の濃淡で、黄緑のリボンに赤と黒のてんとう虫のシールが貼られた。


(可愛らしい、気に入ってくれるだろうか)


 それは36歳そこそこの私が見ても心弾む物だった。


(五年ぶり、やはり緊張するな)


 そして私は竹村家の玄関扉の前に立っている。沈丁花の花はすっかり落ち、深緑の多少愛想のない垣根になっていた。


ピンポーーン


 やや震える指先でインターフォンを押した。


「はい」


 ところが懐かしいその声は実に弱々しいものだった。


「あ、久我です。お久しぶりです」

「今、開けます」


 五年前、この扉が開く事を警察車両の運転席で心待ちにしていた。それが今、こんな心持ちで待つ事になろうとは思いも寄らなかった。


「真昼さん、お久しぶりです」

「今日はワガママを言ってごめんなさい」

「いえ、私でお役に立てる事があれば」


 軽く会釈をして頭を上げるとそこには見るもやつれた真昼さんが立っていた。夏だというのに薄手の長袖ブラウスを着ていた。


(まさか)


 私は革靴を脱ぎ、通されたリビングのソファに腰を掛けた。


「あ、つまらないものですが」

「ありがとうございます」


 リビングテーブルの上に置いた紙袋を手に取り中を見た真昼さんは「可愛い、ありがとう」と力無く微笑んだ。


「お茶、淹れるね」

「あ、お構いなく」

「紅茶で良いかな」

「はい」


 ガスコンロの上でシュンシュンとケトルが湯気を吹き、真昼さんはそれを背に、白い皿にマカロンを並べ始めた。

 壁掛け時計が秒針の音を刻んだ。どう言葉を掛けて良いのか分からずにいると、突然、真昼さんの両目からポロポロと涙が溢れた。


(ど、どうしたら)


 女性の扱いに慣れている、慣れていない以前に女性の涙にどう対処して良いのか困惑した。そしてその間も真昼さんは無言で泣き続け、私は微動だに出来ずにいた。


(どうしたら良いんだ)


 ところがそこで都合よく、竹村さんが言った「迷ったら動け」が脳裏に浮かび、次の瞬間、私は真昼さんを強く抱き締めていた。細い肩、私のワイシャツに冷たくも温かい真昼さんの涙が滲んだ。


「真昼さん、辛かったですね」


 すると彼女はせきを切ったように声を出して泣き、私の背中に腕を回してしがみついて来た。


「もう大丈夫ですよ、大丈夫ですから」


 それはやがて嗚咽に変わり、それでも私の背中に回された真昼さんの手は離れなかった。時計の長針がカチリと動き、紅茶がすっかり冷めてしまった頃、真昼さんの右手が忙しなく動いた。何かを探している。


「これですか?」


 私がティッシュケースを持ち上げると真昼さんはコクコクと頷き、ティッシュを引っ張り出して鼻を盛大にかみ始めた。それは見事なもので、次に目を拭き、頬を撫で、私の胸をゴシゴシと擦った。


「ご、ごめんなさい」

「い、いえ、私こそ、突然すみませんでした」


 二人は気不味い雰囲気の中、膝に視線を落とした。私の目線が真昼さんの手首で止まった。やはり不自然だった。


「真昼さん、失礼ですがブラウスの袖を捲ってみて下さい」

「え」

「見せて下さい」


 彼女はそろそろと袖口のボタンを外すと片手で袖をたくし上げた。大きなため息が漏れた。それは竹村さんから見せられた指の痕と同じものだった。


「それはどなたが付けたものですか」

「たっちゃん」

「たっちゃんとは」

田村 龍彦たむらたつひこ、私の夫」

「龍彦さんがなぜそのような事を」

「たっちゃんが女の人の所に行くって、引き止めたら、その」

「ーーーーそうですか」

「うん」


 真昼さんは袖を下ろすとそれを隠した。


「失礼ですが、竹村さん、お父さまから大方おおかたの事はお聞きしました」

「うん」

「相手の女性の方に子どもが出来たそうですが間違いありませんか」

「分からない」

「分からない?」


 数ヶ月前、五年間も子どもが授からない息子夫婦を心配した姑が二人に<不妊治療の検査>、卵子と精子に異常がないかを調べさせたと言う。


「私の身体に異常はなかったの」

「龍彦さんには異常があった」

「あの、その」

「詳しくは結構です」


「その事は龍彦さんやお姑さんはご存知ですか」

「知らせてない」


 不倫相手の妊娠は離婚を円滑に進める為の虚偽の発言ではないかと真昼さんは言った。

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