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第10話

 田村龍彦、どこまでも誠意のない男だ。


「真昼さんはどうしたいですか」

「どうしたい」

「離婚をお考えですか?」

「離婚?」


「龍彦さんは真昼さんとの離婚について何か仰っておられますか」

「たっちゃんは離婚、したいって」


「もう一度、話し合って龍彦さんとやり直しますか?」

「やり直すーーーそれは無理、かも」


 真昼さんは戸惑っていた。それもそうだ。自分自身も体験したが、婚姻関係にある夫(妻)から突然離婚を言い渡された際の衝撃は計り知れない。


「真昼さん、相手の女性の事はご存知ですか」

凪 橙子なぎとうこってLINEトークに表示されていた」

「龍彦さんの携帯電話を見たのですか」


「盗み見しちゃった。それって駄目だよね」

「ーーーそれは、なんとも」


「二人のLINEメッセージはスクリーンショットで保存した」

「そうですか」

「凪橙子の妊娠を話した時も録音した」

「そうですか」


「あとは」


 真昼さんは長袖のブラウスに隠されたドメスティックバイオレンスの痕を虚な目で見た。


「DVの証拠もありますね」

「うん」


 私と真昼さんはリビングのカーペットの上で正座をしていた。


「真昼さん」

「うん」

「あなたの離婚が成立したら伝えたい事があります」

「うん」


「竹村さんも私も真昼さんを大切に思っています」

「うん」

「頼って下さい」

「うん」


私にも知らせて下さい」


「どういう意味?」

「私も龍彦さんに会ってみたい」

「たっちゃんに会う?」

「はい」


「会う」

「良いですか」

「うん」



 数日後、私は竹村さんに呼び止められた。は意外と早く訪れた。それは警邏中の事だった。いつものようにサイドウィンドウに肘を突き、顎を乗せた竹村さんがサイドミラーに映る自分を眺めながら口を開いた。


「なぁ、久我」

「はい」


「おまえ、真昼をぎゅーーーーーってしたんだって?」

「は、はぁ!?」

「真昼から聞いたぞ」

「あ、は、はい」

(この親子はーーー!筒抜けじゃないか!)


「ぎゅーーーより先は、奴が離婚届に印鑑を捺すまで待ってくれや」

「も、申し訳ありません!」

「いや、良いんだ」


 私の脇は汗をかき、心臓が跳ね上がっていた。


「それで、や、奴、とは?」

「あぁ、クズ野郎だよ」

「あ、はい」


「それでな」


 こんな時は碌でもない事を言い出す。赤信号でブレーキを踏んだ。横目で助手席を見ると至極真面目な竹村さんが私をじっと見つめていた。


(な、なにを言い出すんだ)


 額に汗が流れた。


「なんでしょうか」

「あぁ」

「はい」

「お、信号、変わったぞ」

「あ、はい」


 ウィンカーを右に出すと、こちらを見ながら黄色い帽子を被った赤いランドセルが横断歩道を渡って行く。その後を黒いランドセルの群れが戯れ合いながら歩行者専用信号機が点滅になった瞬間駆け込んで来た。


窓をスーーーと開けて竹村さんが叫んだ。


「ガキども、危ねぇぞ!早く渡れや!」

「た、竹村さん、逆に驚いて止まっています!」


 ちっ!舌打ちが聞こえた。

心根は優しい人なのだが如何せん言葉遣いが荒い。

 そして私を凝視して腕を組んだ。


(またとんでもない事を言い出すぞ)


「久我、おまえ子どもは好きか?」

「子どもに接した事がないので良くわかりません」


「まぁ、俺らは半グレのお子さまたちが相手だからな」

「まぁ、そうなりますね」


「ここ、左に曲がれ」

「はい」


 捜査車両は左に曲がり一時停止をして車道へと合流した。気が付いた一般車が一斉にスピードを落とし始めた。


「気ぃ弱ぇな、誰かすっ飛ばす奴はいねぇのか」

「ーーーー居ない方が良いですよ」

「ーーーーだな」


「それで、子どもがなにか」

「あぁ、おまえ、親父になる気はないか?」

「はぁ?」


 何を言っているのかさっぱり分からない。


(ーーーー親父、親父とは?)


 信号機が青から黄色に変わり、ゆっくりとブレーキペダルを踏んだ。


「俺の息子になれ」


 思わずブレーキを大きく踏んでしまった。助手席に座る竹村さんは勢いよく前後し、ヘッドレストで後頭部を強打した。


「久我!目ん玉付いてんのか!」

「は、はい!」

「たまにはその目、カッ開け!」

「こうですか」

「それで精一杯かよ!」

「はい」


(ーーーーで、俺の息子とは、そういう事か?まさか!)


 歩行者専用信号機が赤で点滅した。


「まぁ、子ども云々はまだ先の話だ」

「意味が、分かりませんが」

「そのうち分かる」

「はぁ」


 するとおもむろに竹村さんはジャケットのポケットから皺々になった紙を取り出して眺めた。腹が立って一度ゴミ箱に捨てたのだと言った。


「政宗が興信所に依頼した」


「龍彦さんの不倫相手を調べたんですね」

「あぁ、不倫相手は龍彦の大学時代のゼミの助教授だと」

「ーーーーは?」


「龍彦は真昼と結婚する前からその女と出来てたんだ」

「本当ですか!?」

「とんでもねぇクズ野郎だ」


 五年前、彼に会いに行くのだと笑顔で出掛けて行った真昼さんは、その時既にいたのだ。


(ーーーークソが)


 捜査車両のハンドルを握る手に力が入った。


「今週の土曜日、クズ野郎の家で離婚の話し合いをする事になった」

「ーーー土曜日」


「その日は勤務、ですが」

「ズル休みしろ」

「無理です」

「頭痛、腹痛、盲腸、おまえは病気になる」

「なにを予言しているんですか」


 そう言いつつも私は署に戻り次第、有給休暇願を届け出る事にした。


「久我、俺を止めてくれ」

「止める、止めるとは?」

「俺ぁ、そのクズ野郎の顔を見たらなにをするか分からん」

「ーーー竹村さん」

「おまえが止めてくれ」


 龍彦と離婚する、真昼さんの意思が固まったのだ。土曜日、私は竹村さんと田村龍彦の家へと向かう。

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