黒田たちに残された切り札が郷田だ。龍田たちと同じく空手ということだが、何も着けずにKOスタイルの組手をしているというところが黒田の期待する点だ。前回来た時、龍田たちの稽古では防具を着けていたから、その分弱いとでも思ったのだろう。
しかしそれは無駄な怪我をしないようにするためであり、道場の稽古では防具を着けていてもKOで勝負が決まることが多い。ここでの防具着用は、稽古上の安全管理と、空手らしく思いっきり突き・蹴りを出せるようにという配慮からなのだ。そのため、防具自体が壊れることもある。黒田たちが見た時にはそのようなことはなかったが、そういうシーンを見ていたら、印象は変わっていたかもしれない。
一方、郷田が稽古しているところでは、上段に対して蹴りは認めているが、手による攻撃は反則とされている。だから、KOスタイルのフルコンタクトといっても、制限がある。しかし、伊達のところでは防具は着けているが、上段への手による攻撃も認めている。そのため、普段の稽古でもその間合いで攻防が行なわれる。そういう意味では、上段に対してどう対処できるかということが勝敗に影響する。
ただ、もともと黒田たちはルールを大切にするという意識は持っていない。もし、規則をきちんと守る意識があれば、こんな無作法なことは行なわないし、暴走族などはやっていないはずだ。
だから、郷田がやっているフルコンのルールでは上段突きはやっていないと言っても、そこで反則とされている攻撃も平気で出してくるに違いない。そのためここは大木の場合と同じように、先ほどと同じ指が出ているタイプのグローブを着け、上段攻撃もあり、ということで行なうことになった。ボクシングのグローブと異なり、指がある程度使えるため、掴みなどの行為も想定されるが、そういう可能性も織り込み済みでこのグローブを使用することに2人とも了解した。
ところで、既に黒田が連れてきたうちの2人は完膚なきまでに倒されているが、郷田にはあまり危機感がない。というより、余裕すら感じる。仲間が倒されても、自分だけは違うとでも言いたげな感じだ。だから、負けた大塚や大木を見る目には、軽蔑の気持ちが含まれている。今回、黒田が郷田に期待するところがここにあり、これまでは空手とは異なる体系の技術による戦いだったが、郷田の場合、ルールは異なっても空手である点は同じであり、技術的には引けを取らない、といった思いがあるのだ。
郷田自身、これまでの戦いを見て、大塚も大木も現実には一撃で倒されていることを見ているが、フルコンルールでもそのようなシーンはよく見ている。同時に、なかなか勝負がつかず、結局体力勝負になっているようなシーンもたくさん見ている。そこには防具に守られた戦いしか経験していないならば打たれ弱く、持久戦になれば自分に分がある、攻防の内容は同じ空手なのだから他の連中よりは慣れている、といった思いがあった。それが余裕の正体なのだが、そこに黒田は賭けていたのだ。
「では最後になるが、龍田君と郷田君、開始線へ」
伊達が2人を促し、開始線のところに立たせた。その瞬間、両者の睨み合いが始まった。2人とも、一歩も引かない。こんな時、目線を少しでも逸らしたら、その時点で勝負の流れは負ける方向に向く。緊張した空気が道場に漂う。もともと黒田たちは龍田を狙ってきた。だから、この一戦に勝利できれば目的を果たしたことになる。そういう意味では、絶対に落とせない戦いだ。そのために切り札の郷田と対戦するよう調整していたわけだが、そのことは龍田も十分承知している。だからこそ、龍田としても絶対に目線を外したり臆する様子を出せないが、実はそれほど興奮していないし、郷田に飲まれているわけでもない。意外と冷静なのだ。それは堀田と高山の見事な勝利を見て、今、学んでいる技術のレベルを実感しており、郷田がどんなに威嚇しようと、勝利の信念が揺らいでいないためだ。
気力十分といったところで、組手が始まった。