突然の告白に、誰も言葉を発することができなかった。美歌の動揺をよそに淡々と他人事のように、渚はその日のことを語る。
「まだ名も売れていないときだったから、一人で帰ってた。公園。誰もいない、誰も通らないような寂れた公園。刈られることのない草はボウボウに茂っていて、乱雑に植えられていた木で薄暗かった。追い込まれたの、私。何人だったか覚えてない。何人もの男に囲まれて──」
耳を塞いでしまいたかった。いっそ耳を削ぎ落としてしまいたい衝動に駆られる。
でも、体はどうしても動くことができない。嘘のように震えた手を握ったまま耳を傾けることしかできなかった。
「一人見知った顔があったの。たぶん、間違いなくトーク会に来ていた人が。にやけた顔を覚えてる。興奮して真っ赤に膨張した顔が見下ろしていた。目が血走ってギラギラして。顔が近付いてきたと思ったら急に目の前が赤く染まった」
誰かの嗚咽が聞こえる。すずか、あるいは瑠那か。そんなことを気にする余裕は美歌にはなかった。
全身の震えを抑えるのに、込み上げてくる吐き気を抑えるのに精一杯だった。
「痛くはなかったよ。不思議と。それよりも全部が終わったときの安堵感の方が勝っていた。木々の隙間から見えた沈みかけていた夕陽がとっても綺麗だった。綺麗だった、本当に」
話し終えたのか、渚は視線を下ろすと落ちていた仮面を拾い上げた。漆黒が形どる蝶の仮面を。
「気持ち悪いでしょう。全てはそういうこと。美歌さん、わかるでしょ? 脚が動かなくてもアイドルにはなれるかもしれないけど、顔が気持ち悪ければアイドルにはなれない。だから、私はもうアイドルになれない」
何も言うことはできなかった。言葉が浮かんでこないだけじゃない。首を横に振ることすらできなかった。渚の言葉を否定することが、どうしてもできなかった。
仮面をつける音がしたあと、部屋はまた無音に戻る。掲げたはずのピアノの音が、絶望色に染まった静寂に押し潰されていく。
「……なんで、なんで言ってくれなかったの!?」
静寂を切り裂いたのは瑠那の声だった。裏返った声からは怒りが滲み出ている。諦めかけた心が、前を向く。
「そんな酷いことをされたなんて私達は知らなかった……知らないで笑顔で握手を続けて、なんで何も言わないでいなくなったの!?」
仮面を被った渚は、長い両腕を上げた。一度は解いたはずの糸が再び動き出す。
「……きっと、瑠那には一生わからない。瑠那が悪いわけじゃないよ。これはね、生まれたときに定められた宿命なの」
無数の糸は重なり合い、渚の全身を覆っていく。一つの巨大な繭ができたとき、ドクンと美歌の心臓の音が鳴った。
すずと瑠那は臨戦態勢を取ってすぐに動き出した。どんな攻撃が襲ってくるかわからないからだ。その意味では、その行動は正しいと美歌は思った。
向こうが戦うというのならば戦うしかない。負けてしまえばもう終わり。それは、ダンジョンに集ったプレイヤー全員に共通する音だった。
(でも──)
揺れる気持ちのままに人差し指でピアノの鍵盤を弾く。ポーンと高い音が跳ねて、すぐに周りの音に掻き消されていく。
『私達は3人で1チーム。極小ギルドです。あの糸に蹂躙されて、もうダンジョンの最前線には行かないと決めていました』
ポニーテールのあの女性はそう言っていた。「あの糸に蹂躙された」と。
もう片方の人差し指も鍵盤を弾く。低い音が鳴り、吸い込まれていく。
『どうしても許せないんです。効率的だとかって、勝手に人の
そう思った。間違いなく、そう思っていた。私の好きな音とは違う、切り捨てるような音。攻撃する音。誰かを否定する音。
(だけど……)
『ムダだよ。努力したって、無理なことは無理……』『会ってどうするの? 見つけてどうするの? ……渚は私を殺したんだよ。これ以上はもう無理なんだよ!』
(そうじゃないよね)
『一緒にアイドルを目指そうって、アイドルとして今度こそスポットライトを浴びて生きていこうって。誰かが愛してくれなくても、誰かは愛してくれる。そう言ってたのに』
『大丈夫……大丈夫……』『自分で立てる。自分で。大丈夫』
不協和音が部屋中に響いた。美歌が感情のままに鍵盤を力任せに叩いていた。戦いが止まる。
「大丈夫なんて言わないでください! 本当は大丈夫じゃないくせに! そんな酷いことをされて大丈夫なわけないじゃないですか!!」
美歌の脳裏に様々な記憶やイメージが駆け巡っていく。糸で宙に吊るされたこと、すずの涙、夕闇の公園、蝶、蟲、そしてトーク会の記憶。
『お前ら全員死ね! 自分で起き上がれないやつが、アイドル気取ってんじゃねえよ!!』
涙が頬を伝う。何度拭っても止まることのない涙が次から次へと、まるで魔法のように溢れ出てくる。
「悔しいじゃないですか。哀しいじゃないですか。私達はテキトーな気持ちでアイドルをやってるわけじゃない! 人前に立つのが簡単なわけがない! 一生懸命、必死に頑張ってる! それを簡単に傷つけられて諦めさせられて、大丈夫なわけないよ!!」
涙を散らして張り上げた美歌の声で、小さな部屋は丸ごと静まり返った。ざわめいていた糸すら、糸を形成する蟲すら音をなくす。
「なんで渚さんが他のプレイヤーを蹂躙するのかやっとわかりました」
ピクリと、渚を包む赤い繭が振動した。
「蹂躙されたから、メチャクチャにされたから、そうですよね。渚さんの音は平穏に聞こえる。さざ波のようにフラットに。だけど、その奥には哀しみがあって、怒りがあって、痛みが聴こえてくるんです。渚さん。今でも必死に耐えてるじゃないですか。悔しさに、痛みに耐えてるじゃないですか」
繭から何十本もの糸が飛び出た。激しく上下左右に揺れながら、一直線に美歌へと向かう。
「美歌ちゃん!」「美歌!」
ピアノの屋根の隙間を縫って直進する糸は、美歌の額に届く前にその動きを止めた。
止めたのは魔法の力ではない。おそらくはきっと美歌の目からハラハラと流れ続ける涙と、小さな口が紡いだ呟きだ。
「気持ち悪いのは渚さんじゃない。その顔に傷をつけた人達です」