「ピア……ノ?」
焦点の合わない目が瞬く。横を向けばそこに音があった。祈るような、願うような音が、そっと心に寄り添おうと旋律を鳴らしていた。柔らかな細雨のメロディがまた頭上に降り注ぎ、すずの心を動かした。
現象が発動するまでにはどうしたって時間がかかる。それがこの魔法の制約であり使い方だ。本来は。
「……糸が……止まった?」
何かが起きたわけではない。まだ何も起きてはいない。雨粒一つすら、雨が降る前のあの独特の匂いさえまだ香ってこないにも関わらず、糸は完全に静止した。
サラマンダーに命じて、急ぎ焔をかき消した瑠那は、口をポカンと開けたまま後ろで演奏を続けるパートナーへと顔を振り向ける。
ハミングが聴こえてきた。暗闇に呑まれていきそうな儚い声だ。単純で、簡単で、聞いたことはないはずなのに、どこか聞き覚えのある懐かしい歌。美歌の小さな身体と心とが織り成すその音楽が、穂坂・山本、両方の渚の糸を止めたのは明らかだった。
「渚」
すずは屈み込むと、足元に落とされたピアスを拾い上げた。愛おしそうに何度か指でピアスの丸いラインを触ると、腰を上げる。
「忘れてなんかいないはずでしょ。渚がプレゼントしてくれたこのピアス。浦高の合格が決まったあの日、『先に行くから』って、『待ってるから』って渡してくれたピアス」
もう一度、両掌にピアスを乗せて前へ差し出す。キラキラと光る紅いピアスの上に一粒の透明な雨が当たった。
「待ってたよ、ずっと。戻ってきてよ、渚」
止まった糸の先端がピクリと痙攣する。その上に雨が降りていく。細かに降る涙雨によって固くきつく絡み合った糸が解かれていく。支えを失った渚の身体は、ゆっくりと前に倒れていった。
黒い蝶の仮面が床に落ち、2、3度跳ねてコロコロと転がっていく。
「渚!」
「来ないで!!」
甲高い声が反響する。倒れた体を起こそうとするその後ろでうねうねと糸が這い回っていた。
「自分で立てる。自分で。大丈夫」
突き出た腕は小枝のように細く、ゆらゆらと揺れる足元もおぼつかなかった。それでも、大丈夫、大丈夫と言い聞かせるように何度も口にしながら、渚は立ち上がった。
ほっそりとした長い首に、ちょこんと日本人形のような小さな顔が乗っている。
前髪が長めのボブヘアの下にある双眸は飛び出そうなほどに大きく開けられて、紅色の瞳が睨めつけた。
白磁のような透き通った顔は、暗闇の中においてもしっかりと輪郭を描く。一部を除いては。
「!!」「渚……その、傷跡は……」
渚は右手で右頬を押さえていた。額から顎まで、片手では隠しきれないほどの大きさの傷跡があった。
渚の薄い唇が歪んだ。
「……まさか。その傷って……」
珍しいことに瑠那の声が震えていた。傍らにいるサラマンダーも、主の様子がおかしいことを感じ取っているのか、落ち着きなく口を開け閉めしている。その度に、口の中から小さな火が見え隠れする。
渚の右手が顔から離れていく。チロチロと照らすサラマンダーの灯が傷跡を鮮明に映し出した。口角の真上辺りまでミミズ腫れが広がり、一言一言喋るたびに蠢く。
「金木瑠那……綺麗になったよね。間近で見ればなおさら。肌がこんなにもきめ細かい」
見ていられなくなったのか、瑠那は下を向いた。が、急に狼狽えたような声を出して後ずさりする。
「瑠那さん? なにが──」
美歌も気づいてしまった。揺らめく焔に照らされた木板に蔓延るそれを。
「……齋藤美歌さんは、初めて会うよね。良い歌、良い曲、良い声。人の心に入り込むのが上手なのね。それは、脚が不自由なことと関係が?」
「それは──」
「気になるの? 私の顔が。それとも這いずり回っているそいつらが? ねえ、知ってる? 呪術はね、依代が必要なの。その依代のカタチによって性質が変わるのね。じゃあ、私の糸の依代は何か。それはね」
足を引きずるように一歩前へと進み出る。細い首が斜めに傾き、表情のない口が半開きになる。
「蟲」
悲鳴が耳をつんざく。瑠那の足元にうじゃうじゃと糸を引きながら芋虫が集まっていた。360度どこを見ても蟲に囲まれた異様な状況に追い込まれた瑠那は、いつもの冷静さを失い杖を滅茶苦茶に振り回しながら喚き散らすことしかできなかった。
「
横一閃に火花が
「瑠那さんこっちへ!」
すずの声に誘導されて瑠那は駆け出した。一歩逃げ遅れたサラマンダーは、蟲に侵食されて群れの中に呑まれていく。焔の塊は鎮火されて元の暗闇に戻った。
「気持ち悪いでしょう。そう、気持ち悪いの。虫唾が走るくらい。ああ、そうだ。私の顔、気にしてたよね。すず」
また一歩距離が縮まる。今度は目を細めてにぃっと口を横に広げる。すずが生唾を飲み込む音が美歌にも聞こえた。いや、違う。唾を飲み込んだのは自分自身だった。
「瑠那は覚えてる? 最初のトーク会。『誰も来ない!』って泣いていたよね。私はそのトーク会の後に、この傷をつけられたの」