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結奈の放った拳が目の前の餓鬼を粉砕する。赤黒い肉片が辺りに飛び散り、床に叩きつけられる音が拝殿に響いた。結奈はそれに快感を覚えるのと同時に、これならいけるという確信を得た。熱い感覚が全身を駆け巡り、心臓が激しく高鳴る。
閉じていた扉がぶち破られた瞬間、押し寄せるように入り込んできたのは、つい先日対峙した異形――恐らく黄泉軍と呼ばれる者――餓鬼たちだけではなかった。
黄泉津大神の配下となった生者たちもまた、濁ったような瞳の色で次から次へと拝殿の中へと侵入してきたのである。
天井から吊るされた灯りが揺れ、敵の影を不気味に伸ばす。
硬い石畳の床は餓鬼の血に濡れて怪しい光を放っていた。
朝奈は玲奈を守るように、奥の本殿の方へ下がっている。
玲奈はそんな朝奈の背にしがみつき、眉をひそめながらこちらを見ていた。
結奈とタマモ、コトラ、そして桜と村田は彼女らを守る壁となって、餓鬼や配下たちと激突を繰り広げている。
拝殿の空気は重く広がり、餓鬼たちの臭気が混じっていた。
驚いたことに、桜と村田が奴らと対等に――いや、それ以上に立ち振る舞えているのは、あのふたりが幼いころから格闘技を習っていたからだ。
一時期は結奈も同じ道場に通っていて、彼らと肩を並べて鍛錬に励んでいたのだ。
桜が突進してきた配下を投げ技で床に叩きつけ、鈍い音が響いた。
村田は別の配下の喉元を突き、そのまま壁に弾き飛ばす。くぐもった声を漏らした配下の身体が、ずるりと床におちて動かなくなるのを見て結奈は頷いた。
扉をぶち破って侵入してきた奴らはいの一番にあのふたりに襲い掛かっていったが、今では一瞬で蹴散らされてしまうことを恐れ、遠巻きにふたりの隙を突こうと画策していた。
けれど、ふたりにそんな隙などありはしなかった。
互いに信じあい、背中を預け、玲奈たちを守るように、獣のような視線を餓鬼や配下たちに向けている。
痺れを切らした配下がひとり、桜に向かって飛びかかってくるのを、桜は一瞬で蹴りを食らわせ失神させてしまう。倒れた配下は折り重なり、苦し気なうめき声を漏らしながら再び立ち上がろうとするも、骨が折れているのか、そのまま床に倒れ伏した。
そこへさらに配下がひとり飛び出し、態勢を整える前の桜に襲い掛かったのだが、今度はこれを村田が一瞬で足払いしてみせる。後頭部を床に打ち付けたその配下は、白目を剥いて口をあんぐり開けたまま、ピクピクと痙攣してしまったのだった。
面白い。このふたりは、本当に最高のパートナーだ。
結奈は内心で舌を巻き、拳を強く握りしめた。
――私も、負けてなんていられない。
思いながら、結奈も次々に襲い掛かってくる餓鬼たちを、タマモとコトラ――そして疾風の如く駆けまわるタマモの眷属たちの影たちと共に、餓鬼や配下たちを薙ぎ払っていった。
結奈は床を滑り込み、四つん這いの餓鬼の顔面を蹴りつけたうえで踵落としを食らわせ陥没させる。べちゃり、べちゃりと四散した餓鬼の肉片が辺りに飛び散り、赤黒いシミが至る所に形作られていった。四肢を粉砕された餓鬼は息絶え、けれどその死体を気にするでもなく次の餓鬼がまた結奈へと襲い掛かってくるのだった。
「大丈夫か、結奈」
タマモが餓鬼をその鋭利な爪で切り裂きながら、訊ねてきた。
結奈は口元に笑みを浮かべながら、「余裕、余裕!」と鼻を鳴らす。
「あの薬、確かにすごい力を私にくれたみたい!」大きく答え、飛びかかってきた餓鬼に回し蹴りを食らわせ爆散させながら、「いくらでもかかってこいって感じ!」
タマモは満足げにニヤリと笑み、再び餓鬼の群れの中へと飛び込んでいく。タマモの眷属たちも彼女の周りで縦横無尽に駆け回り、餓鬼たちを的確に仕留めていった。餓鬼たちの苦しむ悲鳴に混じる生者たる配下の身体にも、たくさんの爪痕や噛み痕が残っている。
にもかかわらず餓鬼や配下たちの数が減らないのは、黄泉津大神もそれだけ本気だということだろう。
どこからともなく湧いてくる餓鬼たちは甲高い笑い声や悲鳴を上げながら、わらわらと拝殿の中を占拠しつつあった。
力的にこちらが負けるようなことはない。問題は数だ。今はまだ玲奈たちへの進行をなんとか防げているが、これ以上敵の数が増えるようであれば、必ずこちら側に隙が生まれる。玲奈たちへ向かって餓鬼か、或いは配下の誰かが飛び出していくことになるだろう。
朝奈が――産まれることのできなかった、麻奈と肉体を共有しているらしい真の長姉がどれほど奴らを祓える力を持っているのか知らないけれど、その力を以てしても防ぎきれなければ、このままでは最悪の事態が起こる可能性も……?
結奈は首を大きく横に振り、そんな弱気を払いのけた。
今は目の前のことに集中しなくちゃ。私はただ、やるべきことをやるだけだ。
結奈の拳は赤黒い血と汗に濡れていた。どんなに体力があろうとも、自然と息が上がってくる。額の汗が目に入り、視界が一瞬ぼやけるのを、頭を振って軽く払った。
こちらに向かっているという祖母はいまだ姿を現さず、先ほどまで自分たちと会話していた細田の姿は消えてしまった。だが、細田の『存在』は視えずとも感じることができる。
細田は――いや、細田たちは間違いなく、今もこの場を見守り続けている。のみならず、結奈やタマモたちがこうして時間稼ぎをしている間に、黄泉津大神の侵攻を水面下で食い止めているのが結奈には解っていた。
見えずとも、感じる。いや、これは確信だ。
だから、必ずもちこたえて見せる。
玲奈や朝奈には、指一本触れさせない。
一匹、二匹、三匹――蹴り、殴り、張り倒し、そして拳で貫く。餓鬼の頭部を砕き、横からくる配下の攻撃に対しては肘打ちを食らわせ、柱にその身体を叩きつけてやった。
結奈の身体は餓鬼たちの血に塗れていた。赤黒い液体がべっとりと肌に貼り付いて気持ちが悪い。けど、そんな小さなことに構っているような時ではないのだ。あとでいくらでも身体は洗える。いつものように、御神井で禊ぎをすればいいのだから。
結奈は獰猛な笑みを浮かべ、血の臭いに鼻を鳴らした。
もう数えるのすら辞めた数十匹目の餓鬼の身体を拳で打ち抜き、ぼとぼとと肉片が床にこぼれた。そこに骨はなく、辺りの血だまりが沸き立つように次々と泡立ち、消えていく。そして消えた先からまた新たな血だまりが作られて――
穢れを修復しているのは、恐らく細田たちだ。彼らもまた、結奈たちと一緒に彼らの世界で戦ってくれているのだ。
さぁ、こい! いくらでも相手してあげる! 私が――いや、私たちが、あんたたちをいくらでも消滅させてあげるんだから!
ところが、一瞬の隙がそこに生まれた。
一匹の餓鬼が、結奈に襲い掛かると見せかけて、その脇をすり抜けていったのである。
「――しまった!」
結奈は慌てて腕を伸ばし、けれどその手は届かない。
餓鬼は猛烈な速さでけたたましい嗤い声を上げながら朝奈に――いや、玲奈に向かって宙を舞った。
玲奈を庇うように朝奈は瞼を閉じ、身体を丸め――しかし次の瞬間、襲い掛かる餓鬼は何か見えない壁に弾き飛ばされ、硬い床に激しく叩きつけられたのだった。
くぐもった声を漏らした餓鬼の身体から炎が上がり、一瞬にして消滅する。
「――えっ」
いったい何が? 朝奈が何かしたの?
眼を見張る結奈は、けれどそこに懐かしい姿を目にした。
先ほどまで居なかったはずの祖母が、右手を掲げるようにして、朝奈や玲奈たちの前に立っていたのである。
「……良かった、間に合ったみたいね」
祖母は――香澄はそう口にすると、にっこりと優しい笑みを浮かべたのだった。