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麻奈は朝奈と入れ替わり、玲奈を守るようにして壁際に引きながら、化け物や常軌を逸した眼をした男らに果敢に立ち向かっている結奈たちの抵抗を、戦々恐々としながら見つめていた。
朝奈は再び麻奈の奥深く、別の領域と繋がっている闇の回廊へと身を潜め、細田たちとあの化け物たちに対抗する手段を模索しているらしかった。
その感覚が、朝奈と繋がる部分が鋭く感じ取る。
麻奈が朝奈の存在を認識したのは、自我というものが芽生えるよりもはるかに前のことだった。
幼少の頃は、同じ身体を共有しているのが当たり前のことで、そこにさして疑問というものを抱くことも麻奈はなかった。それが本来であればあり得ないことだと麻奈が気付いたのは、小学校入学を前にしてのことだった。
朝奈の方からその事実を語りかけてきたのである。
ただ、何故ひとつの身体をふたつの魂が共有できているのか、という点については朝奈も理解してはいなかった。
ただ自身が、麻奈が産まれるよりも前、この世に誕生することなく命を落とした姉にあたる存在であること。気づいた時には麻奈の中にいて、麻奈の身体を共有しつつ、その奥底でどこかに繋がっているのであろう闇の回廊を行き来していたこと。恐らくその回廊の先に死者の世界というものがあるのだろうということを、朝奈は麻奈に教えてくれた。
また、限定的ではあるが、朝奈は麻奈に繋がる存在――例えば祖母である香澄や玲奈――と闇の回廊を通じて繋がることができた。
朝奈はこの事実を、香澄が気付いているものとばかり思っていた。香澄は、麻奈の能力が無意識化に於ける幽体離脱か何かであろうとは思っていたが、その真相までには至れていなかったのである。
朝奈がこの事実を香澄に語ったのは、香澄が亡くなる直前のことだった。
そこでようやく香澄は麻奈と朝奈の真実を知ることとなった。そして自身が命を落としてからも、香澄と朝奈は闇の回廊を通じて情報を交換し――そこに細田たちが介入してきたのである。
けれど、麻奈はそれを知らなかった。朝奈からも香澄からも知らされなかった。
同じ身体を共有している、と言っても記憶まで共有しているわけではない。
朝奈には朝奈の、麻奈には麻奈の記憶があって、これらが交わることはまずなかったのだ。
だから、朝奈が回廊を行き来して香澄や細田たちとやり取りしていたこと、それが黄泉津大神――イザナミに対抗する手段を模索していたこと、そして、麻奈の認識しているこの世界がデジタルなものであることに関しては、つい先ほど初めて知ったことばかりで、麻奈もまた玲奈と同じく、動揺を隠すことができなかった。
恐らく、余計な心配をかけさせたくなかった、そういうことだったのだとは思う。
だが、思えば、朝奈の存在自体が謎だったのだ。
朝奈の魂が麻奈の身体を麻奈と共有していること――もちろん、この世に存在する幽霊と呼ばれるもの自体が――がある種のバグなのだととらえれば、その話も受け入れられそうな気がしなくもなかった。
いや、受け入れざるを得なかった。実際、今目の前で起きていることこそ真実なのだ。
朝奈は玲奈のことを麻奈に任せて身体の奥へと――別の領域へと引いてしまっている。
だから、私が最終防衛ライン。玲奈を――あの黄泉津大神と唯一対抗できるらしい可愛い妹を――何としてでも私は守り抜かなければならないのだ。
でも、どうすれば良い? 私は、結奈や玲奈たちと違う、朝奈とも違う。
ただ、朝奈と身体を共有している、そんな力しか私にはない、対抗できる力は何もない。
結奈のように、幽霊や化け物を蹴散らすような力があるわけではない。
玲奈のように、朝奈がいる別の領域へ意識を送る力を持っているわけでもない。
――いや、そんなこと考えている場合じゃない。今さらそんなことを考えても無意味だ。
私には、私にできることをやるだけ、結奈たちが倒しきれなかった化け物の手から、身体を張って玲奈を守りぬくだけ。
今はただ、それだけ考えていればいいのだ。
玲奈が、ぎゅっと麻奈の袖を引っ張っている。
手を震わせながら、麻奈の後ろに身を潜めている。
玲奈には、これからやるべきことがある。
その時が来るまで、私が彼女を守らなければならないのだ。
麻奈はぎゅっと、玲奈の手を握り締めた。
彼女を安心させるように、微笑み、頷く。
それだけでよかった、それだけで、十分だ。
玲奈の不安を取り除く。それが私の役目、姉である私の義務。
「大丈夫だよ、玲奈」
「……うん」
玲奈も頷き、そして小さく息を吐いてから、
「私も――頑張る」
「うん」
しかし、その時だった。
結奈の隙を突いて、一体の餓鬼が猛烈な勢いで、麻奈たちに向かって突進してきたのである。
伸びる結奈の拳や脚を躱し、地を蹴り、狂喜の顔が宙を舞う。
甲高い不気味な嗤い声が麻奈たちに向けられた。
玲奈が小さく悲鳴を上げ、麻奈は覆い被さるようにして玲奈を護るべく、餓鬼に背を向ける。
――どうしよう、何とかしなきゃ、何とか――! 何か力を、私にも――!
麻奈が強く願ったその瞬間、麻奈の意識は、不意に闇の回廊の深淵へと飛び込んでいた。
――ここは、あちら側?
果てしない漆黒の虚空を、彼女の魂は彷徨い、切なる願いだけが答えを求めて突き動かす。
――朝奈、助けて、朝奈! どうか、玲奈を守る力を! 私にも!
刹那、闇の彼方で微かな灯が瞬いた。
それは、凍てつく闇の中で唯一の希望の欠片のようだった。
まるで遠い星の囁きのように儚く、しかし確かに輝く眩い光だった。
麻奈の意識は、その神秘的な灯に引き寄せられる。
――これは?
彼女の手が、震えるようにしてその光に触れた瞬間、天地が逆転するかのような衝撃が、麻奈の意識を貫いた。
その途端、あり得ない速度で意識が肉体へと引き戻される。
再び瞼を開いた麻奈は、その違和感に眉を寄せた。
「なに、これ……?」
世界が、まるで神々の戯れのように緩やかに、荘厳に流れていたのである。
宙を舞う餓鬼の姿が、まるで時間を嘲笑うかのようにゆっくりと、恐ろしくも美しい弧を描きながら麻奈たちに迫っていた。その禍々しい爪、狂気の笑みを湛えた顔が、まるで悪魔のように鮮明に浮かび上がっている。
けれどその動きはとても緩慢で、スローモーションで。
その餓鬼の嘲笑の顔が、より不気味に麻奈の目には映りこんだ。
何が起こったのか、麻奈の心は混乱の渦に飲み込まれていた。
あちら側――闇の回廊で触れたあの灯は、いったい何だったの?
私はいったい、何に触れたというの?
その時だった。
静寂を切り裂くようにして、優しくも力強い声が辺りに響いたのである。
「――ありがとう、麻奈」
その声は、麻奈の魂に深く刻まれた祖母、香澄のものだった。
はっと顔を上げた麻奈の視界に、闇の中から現れた香澄の姿がぼんやりと浮かび上がる。
それはまるで、幽界の女王のごとき威厳さを湛えた幻影のようだった。
彼女の瞳は、深い慈愛と揺るぎない自信に満ち、緩やかな時の流れの中で、なお神聖な光を放っているように麻奈には見えた。
香澄は囁く。
「瞼を閉じなさい、麻奈、玲奈」
いったい、何を――?
麻奈がそう思う間もなく、香澄は俊敏に、しかし優雅に右手を餓鬼へと伸ばした。
その手のひらが、まるで天の裁きを下すが如く、餓鬼の不浄な存在へと向けられる。
刹那、時間が再び動き出した。
香澄の手から、まるで星々の輝きを凝縮したような眩い光が一瞬にして解き放たれたのである。
麻奈はあまりの眩しさに瞼を閉じ、玲奈の身体を力強く抱き込んだ。
「――ギャッ!」
餓鬼の驚愕した叫びと共に、何かが床に転がる音が耳に届く。
麻奈が再び瞼を開いたとき、そこには床に倒れた餓鬼の身体があって、まるで浄化の炎に焼き尽くされるかのようにして、瞬く間に消え去っていったのだった。
――信じられない。おばあちゃんは、今、何を……?
麻奈の心は、畏怖と感動の狭間で揺れ動く。
「良かった、間に合ったみたいね」
香澄はそう呟くと、まるで月光のように柔らかい微笑みを浮かべながら、麻奈と玲奈に顔を向けた。
その笑顔は、すべての恐怖を溶かし、麻奈の心に深い安堵と希望を灯したのだった。