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香澄は、麻奈が朝奈を通じて時の領域に触れたことを感知した瞬間、心の底から感謝した。
まるで世界の鼓動が一瞬だけ緩やかになったかのように、世界を流れる時の脈動が一瞬にして変化したのだ。
もし麻奈がこの世界の時の流れを一時的に緩めてくれていなければ、香澄の到着は間に合わなかったことだろう。
彼女の胸には、安堵と驚嘆が交錯していた。知り得なかった麻奈の力が、予期せぬ希望の光となって、香澄の心を照らしたのだ。
この瞬間、彼女は麻奈の存在が、仲間全員にとってどれほど大きかったかを改めて思い知った。
麻奈がその領域に触れられるなど、香澄は夢にも思っていなかった。省吾からもそんな話は一切聞いていなかったし、彼らでさえ知り得ない、あり得ざる奇跡だったのかもしれない。その奇跡がどのような仕組みで起きたのか、当然香澄には知る由もなかった。ただ彼女の心には、麻奈が無意識に引き起こしたこの奇跡が、仲間全員の命を繋いでくれた、その事実だけが重く響いていた。
麻奈の瞳に宿る驚きと戸惑いを見つめ、香澄は静かに微笑みを浮かべながら、穏やかな声で、
「……ありがとう、麻奈。いきましょう、玲奈」
麻奈と玲奈は顔を見合わせ、互いに頷き合った。二人の間に流れる無言の信頼が、香澄の決意をより強固なものにした。
これまでの全ては、この瞬間のためにあったのだ。
これまで香澄は省吾たちと共に、黄泉津大神と対峙する準備を重ねてきた。幾度となく練り上げた計画、幾重にも張り巡らせた策。その全てが、今、この場で結実する時を迎えていたのだ。
黄泉津大神の企みはあまりにも明確だった。
彼女はこの世界を憎んでいた。
イザナギが創ったとされるこの世界を、彼女がかつて彼と共に築いたはずの数多の世界を破壊するために、彼女は眷属や下僕たちを、虎視眈々と集めていたのだ。
拝殿に響く餓鬼たちの咆哮は、空気を震わせ、まるで世界そのものが崩れ落ちる前触れのようだった。
結奈やタマ、桜や村田たちは、ただ自らの身体と意志の力だけでその猛攻に立ち向かっていた。
結奈の動きは鋭く、まるで風のように餓鬼の間をすり抜け、タマの鋭い爪は空気を切り裂くように響き、桜や村田の気迫は餓鬼たちを怯ませた。
だが、圧倒的な数に押され、彼女たちの息は次第に荒くなっていた。
それを目にして、香澄の胸に一瞬鋭い痛みが走ったが、けれど彼女は自身に与えられた役目からは決して目を逸らさなかった。
玲奈がすっと立ち上がり、伸ばされた香澄の手を強く握りしめた。その手と、そしてその眼には確かに覚悟の意思が宿っていた。
結奈たちが餓鬼たちと死闘を繰り広げる混沌の中、香澄は玲奈を連れて拝殿を縫うように進み始めた。
餓鬼たちは香澄や玲奈を認識できず、ただ闇雲に結奈たちに襲いかかる。
それは省吾たちが香澄に施した術のおかげだった。彼らは香澄の存在を餓鬼の目から隠す術を授け、彼女たちが生き延びる道を切り開いてくれた。その術は、香澄の身体を包む薄い光の膜のように、彼女を餓鬼や下僕たちの視線から守っていた。
香澄たちの足音は石の床に軽く響き、玲奈の手を握る力は一瞬も緩まなかった。
拝殿を抜け、長い石段を降りる。冷たい風が石段を吹き抜け、香澄たちの頬を冷たく撫でた。
石段の先、石造りの鳥居の下にその姿はあった。
黄泉津大神に取り憑かれた、相原奈央。
彼女の瞳は闇そのもののように黒く、底知れぬ憎悪を湛えていた。
彼女の周囲には、まるで瘴気が漂うように、空気が重く淀んでいる。
香澄は玲奈と肩を並べ、静かに、しかし力強く口を開いた。
「……逃げないのね、今度は」
「逃げる?」黄泉津大神が宿る奈央は、唇を歪めてほくそ笑んだ。「その必要がないからな」
言葉が終わるや否や、奈央の黒く染まった両腕が、香澄の頭を力強く掴んだ。
冷たく、まるで死そのものを思わせる爪の感触が香澄の肌に突き刺さる。
黄泉津大神の指は異様な力で香澄の頭を締め付け、まるで香澄の意識を飲み込もうとするかのようだった。
だが香澄は動じなかった。彼女は奈央の――黄泉津大神のその両手首を瞬時に掴むと、言葉にならない呪文のような音を口にした。
それは、彼女と省吾が幾度も練り上げた計画の鍵だった。黄泉津大神が香澄をも取り込む力を身につけているのであろうことは、香澄自身がかつての接触で理解していた。彼女が香澄の力を自らの進化に取り入れる術を持っていることも、死の間際に気づいていた。
これまで香澄を取り込もうとしなかったのは、恐らく自分とは相反する性質を持つ存在であったからに他ならない。
それでもなお自身の前に立ち塞がろうとするのであれば、彼女は間違いなく、香澄をも自身の内に取り込もうとしてくるだろう、香澄たちはそう予想していた。
だからこそ、香澄は省吾たちと共に、その一手を逆手に取る準備を整えていた。その計画の核心は、玲奈を黄泉津大神の内部に送り込むための通路を開くことだった。
黄泉津大神は、今この瞬間まで、全くそれに気づいていなかった。
香澄の手が、黄泉津大神の腕と一体化するように絡みつき、玲奈を核心へと導く通路を形成した。香澄たちの計画は、寸分違わず進んでいた。彼女の心臓は高鳴りながらも、冷静さを失わなかった。
その瞬間、黄泉津大神は大きく眼を見張り、絶望にその顔を歪ませる。
「な、何をした!?」
黄泉津大神の声に、初めて動揺が混じる。その声は奈央のものではなく、不気味な反響を帯びていた。
香澄は静かに玲奈に視線を向け、頷いた。
玲奈もまた、決意を宿した瞳で頷き返し、香澄の腕に手を伸ばした。彼女の指先が、香澄と黄泉津大神の融合した腕に触れた次の瞬間――玲奈の姿は二人の中に吸い込まれるように、光に包み込まれたかと思うや否や、霧のようにすっと消えてしまったのだった。
拝殿の戦いの喧騒も、餓鬼たちの咆哮も、まるで遠い世界の出来事のように感じられた。
香澄の心は、計画の成功を確信しながらも、玲奈の運命を思うと一瞬だけ揺らいだ。
しかし、香澄は首を軽く横に振り、苦しみに歪む黄泉津大神の表情を見つめながら、玲奈に語り掛けた。
あとはお願い、玲奈――全ては、この世界を守るために。