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第2話:ダニッシュ・ギャンビット

 救助の船が来るのはいつか……ギデオンは間も無くだと言っていたが、それを信じきれないほどに船内の士気は低下していた。


 食堂兼ブリーフィングルームに集められた士官候補生たちは、落ち着かなげに顔を左右に振りながら、時々聞こえてくる船体の軋みや照明の明滅に怯え切っていた。酸素はまだ十分にあるが、被弾時の破片のせいでどこかから抜けているかもしれない……悪い想像を始めるときりが無かった。


 絶体絶命の状況は、室内の気温までも下げてしまっているかのようだった。ギデオンの技術とマリアの説得がなければ、とうにこの船は幽霊船と化していただろう。


「もう、ダメかな……」


 誰かがそう呟いた。どこからも返事は無い。腕を負傷した乗員が痛みに呻く声だけが、ウッドベースのように伴奏を奏でるだけだ。


 負傷者は壁から引き出した予備ベッドに固定されている。負傷箇所は左前腕で、被弾時に船内で飛散した破片が突き刺さっていた。引き抜くと大量に出血する可能性もあるため、患部周辺を保護スプレーで覆って血を止めている。


 各自の船室にはもう少しましな寝台が備えられているが、万一脱出の必要が生じた場合、船員を分散させていると合流できなくなる恐れがあった。


 そして何より、当人が一人でいることを極度に恐れたため、同じ場所に収容するしかなかった。


 女生徒が、負傷者の額から滲んだ脂汗を拭き取っていた。気遣いというより、何かしていなければという強迫観念がさせている。鎮痛剤が効いてきたのか事故直後に比べれば収まってきているが、依然破片は刺さったままで、少し動くだけでも激痛が走る。その際の声が、全員を余計に怖がらせた。



 だから、急にオンラインになった船内放送から、マリアの「E4、ポーン」という謎めいた言葉が出た時、ついに彼まで気が狂ったのかと誰もが思った。



 だが、それに続いてギデオンが「E5、同じくポーン」と受ける。



『D4ポーン』


『同じくポーンで取る』


『C3にポーンを』


『それも取りだ』


『良いんですか? 定石通りの流れに乗って。C4にビショップ』


『最後は駒数の勝負だ。B2ポーン』


『C1ビショップをB2へ』


『B4ビショップ。チェック』


『D2ナイトで守りますよ』


 聞いている者たちも、ようやく二人が架空のチェス盤で駒を動かしていることに気づいた。訓練船のプログラムにチェスのプログラムなど入っていない。今時、そんな古めかしい遊びで時間を潰そうという者もいなかった。


 第一、盤面の見方すら知らない彼らからすれば、今どこに何があるのかもよく分からない状態だ。


 把握しているのは、ギデオンとマリアの二人のみ。


 そしてそもそも、試合の行方に興味を持ってもらう必要も無かった。


『……意外と打てますね、ギド』


『意外とは何だ。昔通ってたカルチャーセンターでジジイ共に叩き込まれてな。キャスリング』


『む……』


『F7と踏んでこないのか?』


『さすがにそんな無駄打ちはしませんよ。B3クイーン』


『お出ましだな』


 二人の間で交わされる架空の駒の差し合いは激しさを増していった。


 そして、それと同じくらいに軽口の頻度も増していった。


『マリア、お前ビショップが好きなのか?』


『ええ』


『らしくないな。ナイトかクイーンあたりだと思っていた』


『ナイトは名前の割に卑怯な動きしかしません。クイーンは強過ぎて悪目立ちする。例えば……D8クイーン、こんな風に』


『……ん。H7キングは』


『ビショップが抑えています。どうします?』


『ダメだな。3手後にチェックメイトか』


 チッ、とスピーカー越しに分かるくらいの舌打ちをして、ギデオンは鼻から息を吐いた。マリアが可笑しそうに笑った。


『やはり見えんと注意が行き届かん』


『だからビショップが効くんですよ。クイーンほど派手ではなく、ナイトより騎兵らしい。意識の外からの急激な奇襲。現実の戦いも結局はこれと同じだと思いますよ』


『士官候補生の身分で、ずいぶん偉そうなことを言うな』


『今のタルシスには軍人らしい軍人の方が少ないですよ。まだ僕らの方が戦いを語る資格がある』


 ギデオンの苦笑が船内放送に乗って響いた。それにつられて、食堂にいた誰かがつられて笑った。マリア・アステリアという青年が優秀なのは誰もが知るところだったが、こんな風に持論を振りかざして話す姿は珍しかった。それも、大言壮語と言って良いほどの自信満々ぶりだ。


『さて、まだ時間はありそうだ。もう一局どうです?』


『相手になってやろう。先手番はもらうぞ』


『どうぞ』


 何事も無いかのように二人は次の試合に進んだ。それを受けて、食堂の空気が少しだけ緩んだ。


 事故に遭ったにもかかわらず、船長とエースは呑気に架空のチェスに興じている。合間にどうでも良い雑談を挟みながら、まるで深夜のラジオ放送のように淡々と、かつ静謐に、砂時計の粒を落としていく。時々船体が軋んだが、その音さえもBGMとなったかのようだった。


 結局、5局目の終盤に救助船からの通信が入るまで、二人のチェスゲームは続いた。


 ギデオンは0勝4敗で、最後の一局も劣勢だった。


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