A.D.2145 3/13 21:21
タルシスⅠ-Ⅲ
バー『スノウ・ウィンド』
救難信号を出した割に二人があまりに平然としていたため、助けに来た救助船の乗組員たちは拍子抜けしていた。
見たところまだまだ元気そうだということで、タルシスⅠに帰還するまでの間、ギデオンとマリアはひたすら報告書の作成に付き合わされることになった。
(こんなことならもっと消耗したように見せておけば良かった)
しかし戻ってからもなお仕事は終わらず、今度は士官学校の方で延々と状況報告をさせられる羽目になった。
結局、二人が解放されたのは救助されてから2日目の夜だった。船に乗っていた他の学生たちはとうに解放されており、ピンピンしていた二人だけが割を食った形だ。
「船長の義務と言えばそれまでだが、なぁ」
「良いじゃないですか。こうして生還の乾杯まで辿り着けたんですから」
そう言って、マリアは右手に持ったロックグラスを軽く振った。氷塊が硬い音を響かせた。蜂蜜色のウイスキーが表面を撫で、飴細工のような模様を描いて融けていく。カウンターに上体を預けたギデオンは深い琥珀色の『ロンドンプライド』を持ち上げて応じた。
泡に口をつけ、喉を鳴らしながら一気に流し込んでいく。爽やかで口当たりも良く、苦さの角も立っていない。しかし断じて無個性なのではなく、抑制の効いた上品な味わいと芳香が潜んでいる。いくら飲んでも飲み疲れない。
漂流中も水分はしっかり摂取していたが、今になってようやく本当の水分補給をしたような心地だった。
「……美味いっ」
それ以外の感想などあるはずもない。
「生きてるってことを実感するな、まったく……」
「おや。ギドともあろう人が、死ぬかもしれないと覚悟していたんですか?」
「当然だろ。他の連中の手前、あんな猿芝居を打つ羽目になったが、そうでなきゃ泣き出してただろうさ」
笑いながらギデオンは肩を竦めた。
「おかげさまでギドに奢ってもらえたわけだから、僕としては役得ですよ」
カウンターのうえでグラスを回しながらマリアは言った。チェスの結果、今夜の飲み代はギデオンが持つことになっていた。
「財布の紐が固いですからね、ギドは」
「金の無い家で育ったからな」
「……お兄様の御身体のことで、ですか?」
「聞くなよ」
「すみません、つい」
いつになく殊勝に謝るマリアに、ギデオンは苦笑した。
「まあ、この前ぽろっと言っちまってたからなぁ……親父もとっくに死んで、ともかく実入りが少なかったから、いつも家計は火の車だったよ。保安学校に入ったのも給料が出るからだ。それと……」
言うべきか少しだけ迷った。ここから先は個人的な話以上にデリケートな内容で、軽々には言えない。
いつもならそんな理性のストッパーが働いただろう。だが、窮地を脱した安堵と疲れ、そしてそこに染み込んできた上質なアルコールが、ついギデオンの口を軽くした。
「なあマリア。タルシスと地球、戦争になるだろ?」
バーのなかにはそれなりに人が入っているが、誰もが声を潜めて話し合っていて、喧騒とはほど遠いくつろいだ空気が流れている。その空気のなかに、戦争という刺々しいワードは不釣り合いだ。ギデオンはことさらに小さな声で言ったつもりだったが、マリアはしっかりと聞き取っていた。
「なりますね、確実に」
両国間の緊張感は、保安学校という名の軍学校にいる二人に十分伝わってきていた。すでにタルシスは機雷の散布まで始めているのだ。艦艇の準備や、艦載機の開発計画も水面下で進められていると噂されている。
ちら、とギデオンは手元の『ロンドンプライド』を見やった。
グレートブリテン島ハウンズロー・ロンドン特別区チジックで生まれたこのビールは、現地価格の5倍の値段を出さなければ注いでもらえない。
すでにタルシスには支社や醸造所も建てられていて、地球・コロニー間の輸送コストはほぼ関係が無い。それでもここまで高額になるのは、このビールがタルシスで作られたことに
現実には明らかにコロニーで生産しているにも関わらず、地球はそれを認めない。あくまでコロニーにある地球の土地で作られた、という扱いになる。
地球統一政府はコロニーに対して、意図的に食糧自給の手段を締め上げている。穀物等一部のものは自前で作ることができるが、そこから先の加工品やより細かい食品となると、地球が作った物を買う、という形式を踏まなければならない。
普通ならば高い値段で売りつけてくる店を避けて別の店で買い物をすることができる。
しかし現時点の人類には、地球以外に食料品を扱っている
こうなると価格競争が発生せず、コロニーに売り込まれる食糧は必然的に供給側優位の値段となる。明らかに高いが、それでも買うしかないのだ。
百歩譲って酒類のような嗜好品や奢侈品ならともかく、この不当な状況はほぼ全ての市場に及んでいる。衣服、医薬品、果ては燃料まで、地球側の言い値に従わなければならない。
そしてそのような状況は、弱者の社会を遠回しに弾圧することに他ならない。地球に対し、コロニーは明確に従う側の立場にあった。
「地球はコロニーを餓えさせたまま、出涸らしになるまで搾取し続けるつもりだ。それでも俺たちはここで生きていかなきゃいけない……生きていけない弱者を切り捨てながら、な」
「ギド、あえて言いますが、宇宙は暗黒の森林ですよ」
ギデオンは小さく笑った。
「それ、昔のSF小説の理論だろ?」
「正しい考え方だと思います」
「じゃあ、地球の圧政を認めろってか?」
「まさか。僕だって戦う必要性は認めています。でもそれはそれとして、ギドは優しすぎる。それだけ他人のことばかり考えていると、足元を掬われますよ」
「生憎、お前ほどリアリストにはなり切れなくてな」
「排他的になれとまでは言えませんが、少しは枠を狭めるべきです」
ギデオンは軽く肩を竦めた。怒ったほうが良いのかな、とちらりと思ったが、元々マリアはこういうことをずけずけと言う男なのだ。優秀さを笠に着て他人を見下している。
ただ、そんな彼の横顔に、いつもどこか孤独の影が差していた。
だからギデオンは、彼の生意気さを叱りこそすれ、突き放すことはしなかった。彼ほどの知性の持ち主が、自分のことをアイロニカルに俯瞰できていないはずがない。
ギデオンは、マリアを心底信用していたのだ。
それに宇宙という環境の冷たさを考えるなら、マリアの言っていることは正しい。
過酷な自然のなかで弱者は相応に淘汰されていく。宇宙という究極の空間にまで出ておいて、弱者が虐げられるのは良くないなどとお題目を言うことは、それ自体が滑稽である。弱者が弱者として生きていける空間は大地の上にしか無い。
人類史を前に進めようとするならば、必ず何かを地球の上に置いていかなければならない。
宇宙の形を人間の善悪の枠に嵌め込もうとするのは傲慢である。それは、ギデオンもよく分かっていた。
だが、摂理の名のもとに棄てられていく弱者からすれば、たまったものではないだろう。
奴らは自分たちを削り落とそうとするかもしれない。
だから先に削ぎ落さなければならない。強者を削ぎ落せないならば、自分たちよりも弱い何者かを殺すしかない。自分たちに与えられたリソースは有限なのだから。
そして最後には、暗い森林のなかで互いに銃口を向け合うことになる。人が宇宙と地球に分かれるということは、互いに別種の宇宙人になっていく過程なのではないか。
「あの本、面白かったな……」
「三作目は微妙でしたけどね。読んでいてイライラしました」
こいつはそうだろうな、とギデオンは納得した。
「……地球も俺たちも、まだ宇宙人というほどかけ離れちゃいないさ。宇宙が本当に暗い森林なのかどうかは分からない。人が人のまま生きていく道もあるかもしれない。地球がもっと宇宙社会に対して優しかったら、タルシスは十分な福祉政策を実施できたはずだ。俺の兄貴だって、もっと楽な人生があったかもしれない」
「だから戦争をする」
「…………滅茶苦茶だよな」
自分はどこかおかしくなったのだろうか、とギデオンは酔いの回り始めた頭で考えた。
保安学校に入ったのは、家が貧しかったからだ。
だがもうひとつ、密かに思い続けてきたことがある。それは、タルシスと地球の格差を是正するには戦争しかないという考えだった。
時代の流れとして両者は必ず対立に至る。そもそも地球が対等な交渉のテーブルにつこうとしないのだから、やらなければいつかコロニーは干殺しに遭う。
自分がコロニーに対して、社会に対して求めているのは平和と福祉だ。
そのために、戦士として戦争に行こうとしている。
歪んでしまった兄の人生を見たからこそ、そんな人間を二度と出したくない。より豊かな社会にしたい。だから、地球の人間と殺し合いをしようと考えている。
「マリア……俺は狂っていると思うか?」
どこまで真面目な気持ちで聞いたのか、彼自身分かっていない。
しかし、彼がそうたずねた時、マリアは神妙な顔で聞き返した。
「僕がその答えを言ったら、貴方はそれに従いますか?」
やけに硬い声だな、とギデオンは思った。いつも飄々としているマリアらしくない。
ギデオンは後輩が言ったことを軽く受け流した。
「いや、確認がしたかっただけさ。本当の答えは俺自身が一番良く分かっている」
そう言ってビールを口に含んだ。マリアは「そうですか」と口調を緩めて言った。そして「良かった」と呟いたが、何が良かったのかギデオンは聞かなかった。
「ギド。これは個人的な意見ですが、貴方が軍人の道を選んだのは誠実だったと思いますよ」
「そいつはどうも」
「皮肉じゃありません。本心です」
「へえ? じゃあなんだ、お前が軍人になろうと思ったのは、何か邪な理由があるからなのか?」
少し茶化すような口調でギデオンは返した。「それはもちろん世界征服のためです」ぐらいに言って返すのが、いつものマリア・アステリアだ。
だが後輩の変調は、どうやらまだ続いているようだった。
「それが、僕の行き先として示されたものだったからです」