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第3話:獅子と羊 下

「行き先?」


 簡単な、それでいて捉えどころのない単語を突き出されてギデオンは少し面食らった。なぜ軍人になりたいのか、という単純な質問に対して、あまりに謎めいた回答だった。


 マリアはグラスを見下ろしながら、その縁を指でなぞっている。


「昨日みたいに漂流したこと、初めてではないんです」


「何?」


「十年くらい前ですね。ジュニアスクールの遊覧船が航路から外れて、僕と一緒に乗り込んでいた全ての人間がパニックに陥りました。子供はもちろん、大人やプロの船乗りたちさえ右往左往で……ずっと冷静だったのは僕ひとりだけでした」


「ランサム号事件か」


「知ってますか?」


「大事件だったからな。しかし、まさかお前があの船に乗り込んでいたとは……」


 十年前というと、ギデオンもミドルスクールに入ったばかりの頃だ。しかし、機関や電力を喪失したうえ通信まで途絶した学習船が三日間も漂流した一件は、記憶に鮮烈に焼き付いていた。


 昨日二人が乗っていた訓練船は、実地訓練のための遠洋航海に出ており、タルシスからかなり遠い位置まで流されていた。


 だが十年前のランサム号事件では、本来コロニーの沖まで出ないような船がなぜかコースを離れて、誰にも気づかれないまま遭難している。不可思議なことにコロニーと船双方の通信記録が残っておらず、人為的な出来事と見なされたことから事件扱いされている。


 しかし、その犯人も動機も、そもそも本当に悪意によるものかさえ判然としていない。


 確かな事実は、ランサム号が捕捉され救助船が駆けつけるまでに、乗り込んだ乗員40名中26人が死亡していたこと。生き残ったのは全員が児童であり、そのほとんどが深刻なPTSDを患ったということ。


 マリア・アステリアはその14名のうちにいたのだ。


「あの一件で、人間の弱さと愚かしさを嫌というほど見せられました。大人たちが死んでいった理由は公表されていませんが……実態はパニックと仲間割れです」


 ギデオンは押し黙るしかない。マリアは感情に波を立てないまま続ける。


「まるで全ての人間が、飼い主の手を離れた羊のように我を忘れていました。あの空間にいたのは全員が宇宙育ちの人間だったはずです。にも関わらず、空気のある場所で溺れていた。典型的なシープ現象の症状です」


「シープ現象……? 何だそれは。聞いたことが無いぞ」


「知らなくて当然です。僕もこの単語に行きつくまでにずいぶん苦労しました。Severe High-stress Environment Affecting Perforomance、超高ストレス下における認知機能の低下現象、その頭文字をとってシープと呼ぶそうです。タルシス中央大学のトップシークレットで、論文やレポートは公開されていません」


「……何故、お前がそれを知っている?」


 自然とギデオンの声が低くなった。一体こいつは何をやったのか、いや、そもそも何者なのか? 元々得体の知れないところのある後輩だとは思っていたが、もしや自分の想像以上の怪物なのではないかと思った。自然と、酔いの回っていた頭が醒めていった。


 そんな彼に対して、マリアは飄々と笑いながら「魔法を使いました」と答えた。


「そう、僕はあの時からずっと、自分に宿った魔法の正体が知りたかったんです。あの日、狂っていく大人たちのなかで、子供たちは僕の言葉に従ってくれた。疑いもしなかった。命令を下した僕自身が違和感を覚えるほどに彼らは従順でした」


「お前、一体何を」


「簡単な命令です。キャビンに全員で閉じ籠って鍵をかける。酸素を無駄に消費しないよう何があっても動かないこと。そして……無駄に酸素を使う大人たちが互いに殺し合いをして死に絶えるまで、ただじっとしていること」


 ギデオンはその状況を想像する。しかし、上手く像を結ぶことができない。アルコールのせいでもない。あまりに非現実的な光景だからだ。


 訓練を積んだはずの大人たちが支離滅裂な理由から同士討ちに至ることも、その間子供たちが一室に立て籠もって息を殺し続けているということも、どちらもあまりに非現実的だ。


「馬鹿な」


 そう呟くほかなかった。


「そのシープ現象とやらが当たり前に起きうるものだとしたら、コロニー社会も……そもそも人類の宇宙進出すら成り立たないぞ」


「とどのつまり、そういうことではないかと思うのです」


 マリアはさらに突拍子の無いことを言った。


 言った本人は、平然としている。


「僕の入手した論文では、結論の部分はぼかされていました。そういう現象があるという事実だけを書いていた。トリガーは不明、どの程度のパニックに陥るのかもケースバイケース。分かっていないことの方が多すぎる。


 確実なのは、宇宙という極限環境下で心理的なバランスが崩れた場合、その集団内でのストレスが爆発的に増大し多発的なパニックに至ること。これは共通しています。


 ギドも思い当たることがありませんか? それこそ昨日の一件にしても、他の生徒たちの慌てぶりは相当なものでした。一応は全員が訓練を積んでいるにも関わらず、エリア内のストレスは急激に高まっていた。僕たちは死んでいてもおかしくなかったんです」


 マリアのまくし立てるような言葉に対して、ギデオンは心の一部で彼の言うことを認めていた。


 実際、保安学校に入って過去の事故のケースを調べているうちに、明らかに過剰なパニックに陥って傷口を広げた例が多く見つかったのだ。そして実際に自分たちも、訓練中とはいえ軍人になるつもりの連中が事故のせいで役立たずになるのを目の当たりにしている。


 それらのパニックは種類や程度こそ様々だが、発生するシチュエーションには一定の共通項が見られた。すなわち、短時間のうちに複数のインシデントが連鎖爆発のように立て続けに生じることである。


(もっともらしい話ではある。だが……)


「やはり信じられない。お前の言う通り、シープ現象とやらが誰にでも起きるなら、宇宙開発など成功するはずがない。ここで、こうしてビールを飲めるようなコロニーを造ることもできないだろう。違うか?」


 ギデオンはテーブルを指で叩いて言った。


 現に自分たちはこうして社会を創り上げ、人工の大地の上で生活している。確かに開発初期は多大な犠牲を払ったと聞いているし、彼らのひとつ上の世代も事故死は当たり前だった。


 だからと言って、宇宙に出た人間が極度の集団パニックによって自滅する因子を秘めているというのは飛躍し過ぎている。


 だが、ギデオンの反論に対してもマリアは答えを持っていた。


「ギドの言う通り、シープ現象の影響を受ける人間だけならば宇宙開発はここまで進まなかったでしょう。


 この現象が顕在化したのは、宇宙空間に人類社会が広がったことで本来その資格を持たない者を内包したからです。逆に言えば初期の宇宙開発においては選抜された一部の人間だけが関わっていたため、現象の顕在化が起きにくかった。そして今に至るまで、宇宙空間での極度のストレスに耐えて、他者を導くことのできる存在がこの社会を引っ張ってきた」


 マリアはグラスを弄ぶ手を止めた。




「プロンプター。宇宙で溺れる人間を導く、シープ現象の対照概念です」


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