下らない、とギデオンは否定しようとした。しかし彼自身の意に反して、先に出たのは「危険だぞ」という言葉だった。
「そのプロンプターとやらが真実だとすれば、タルシスに民主政治などというものは根付かない。選民思想そのものだぞ」
「だからこそ論文は封印されたのでしょう。この概念が公式に発表されたら、独立どころか内乱になりかねないですからね」
マリアはリスクをしっかりと認識していた。
宇宙では選ばれた者しか生きられない。宇宙に選ばれなかった者は社会にとって爆弾のようなもので、いつ暴発するか分からない。
そして誰しも、自分が爆弾である可能性を認めたがらないだろう。
導く者と導かれる者の二択ならば、導く側に立ちたいのが人という生き物だ。宇宙という極限環境下では、主導権を失うことは死につながる。プロンプターという事実を積極的に認めるということは、タルシスにおいて独裁政治を容認するのと同義である。
何故、マリアはこれほど重要なことを自分に話したのか。
シープ理論にせよ、プロンプターの実在にせよ、いずれも現実離れしていてとても信じられない。だがシープ理論に関してはこれまでのいくつもの事例が実在を裏付けている。
そしてプロンプターについて。
マリア・アステリアが何故自分にそれを話したのか。
「……お前は自分自身がプロンプターだと、そう言いたいのか」
彼の目の前でいくつもの魔法を現実に見せてきた青年は、蜂蜜色のウイスキーが注がれたグラスを見つめながら静かに頷いた。
その肯定の仕草には、いつもの彼が見せる不敵さや、慇懃な姿勢の裏から滲み出る傲慢さは少しも伺えなかった。あたかも神託によって試練を運命づけられた古代の王子のように、厳かな悲劇性が彼の顔を覆っていた。
「自意識過剰だ、マリア。お前はそんな大層な人間じゃない。普通の……多少優秀なだけの男だ。プロンプターだと? そう簡単に新人類など現れてたまるか。ましてやそれが、お前みたいな不完全な人間であるはずがない。導く者が本当にいるとしたら、それはもっと……そう、神様みたいな大層な奴だろう」
ギデオンはまくし立てた。
自分で言った通り、こんなものはマリアの自意識過剰だ。一体彼がどんな論文を読んだのか、あるいはそれ自体がでっちあげかもしれない。
だがそれ以上に、ギデオンは彼の顔に現れていた不安の色を拭ってやりたかった。
いつもは他人に対して余裕を崩さないマリアが、プロンプターというものについて語る時だけは少年のように不安げな色をのぞかせていた。まるで悪霊に憑依されているかのような口ぶりだった。
ギデオンからの否定の言葉を聞かされている間、マリアはまるでバッハの宗教音楽でも聴いているような安らいだ表情をしていた。
「ありがとう、ギド」
ぽつりとマリアは呟いた。
「貴方の言う通り、僕も自意識過剰が過ぎるなと思うんです。僕自身の感性はそこまで狂っていません。人並みでした。けど……あの事故以来、時々、どうしても見えるんです……僕は……」
言葉に詰まったマリアは、喉のつかえを押し流すかのようにウイスキーを一気にあおった。「っ、おい!」明らかに蒸留酒の飲み方を知らない仕草だった。ギデオンはこの時になってようやく、今の今までマリアが一口も酒に手を付けていなかったことに気づいた。
案の定、マリアは盛大に咽た。
白皙の美貌が一瞬で赤く染まっていた。
「お前、下戸だったのかよ……」
水を持ってきてくれたバーテンに礼を言いつつ、ギデオンは後輩の背中を叩いた。普段はスマートが服を着て歩いているような彼が、今は酒の飲み方も知らないただの青二才に戻っていた。
そうまでしなければ、言葉の続きを継ぐことが出来なかったのだろう。
カウンターに両肘をつきながら、マリアは呟くように、しかし明らかにギデオンに向けて言った。
「貴方だけです。僕の目に、昆虫として映らないのは」
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翌日、マリア・アステリアはウイスキーを一気飲みする直前の出来事を完全に忘れているようだった。
少なくとも、最初はそういうスタンスを採っていた。
「いやはや迂闊でした。僕ともあろう者がお酒で記憶を飛ばしてしまうなんて」
士官学校の食堂に蒼褪めた顔で現れるやいなや、そう言って笑った。その表情のどこからが本当でどこからが嘘なのか、ギデオンですら読み解けなかった。
しかし昨夜の彼は、何もかもがいつもとは異なっていた。
あるいは漂流している間の余裕ぶりは、過去のランサム号事件の記憶を上塗りするための虚勢だったのかもしれない。そんなことをギデオンも一晩中考えていた。アルコールに強い彼は、多少酒を飲んでも記憶が飛ばない。なんとなれば飲みの席での会話や出来事を逐一覚えているタイプだ。
シープ理論。
プロンプター。
いずれも常識的に考えれば、到底本当とは思えない。
だが、マリアが最後に搾りだすように言った一言が、どうしてもギデオンの耳に残って離れなかった。
「マリア」
「はい、何でしょう?」
向かい側の席に座った後輩は、いつもよりさらに白くなった顔に笑顔を張りつけたまま返した。
地球の海のように青い瞳には、いつも嘘と真実が混ぜこぜになって浮かんでいる。
「昨夜、お前が言っていたことな」
「すみません、憶えていなくて」
「俺にも時々見えるんだよ」
「…………え?」
カロリーバーに自前のマーマイトを塗りながら、ギデオンはちらりと後輩の顔を窺った。
こいつ憶えてやがるな、と思った。
「お前が見えるものとは違うだろうが、似たようなものがな」
あまりにも馬鹿々々しく、自分でもノイローゼではないかと何度も思った。
だが、死神の鳥はギデオンが子供のころから、兄が瀕死の発作を起こす直前に必ず姿を現していた。
人が虫に見えるという感想はあまりに剣呑だ。
だが、死にそうな人間の周りにひとつ眼の鳥が見えるというのも、同じくらい禍々しい話だ。
だから誰にも、ペティやマヌエラにさえ話したことはなかった。
ただ、初めて出会った「同類」に対して、ギデオンはアルコールが入っていないにも関わらず口を滑らせてしまった。
あるいはこの告白こそが、その後の全てを変えてしまったのかもしれない。
この時の記憶を思い出すたびに、ギデオンは幾度も後悔に悶えることになった。
「言っておくが、俺はプロンプターなんかじゃないぞ。そんな御大層な人間でないことは、お前が一番分かっているだろ?」
すぐに取り繕って予防線を張った。
だが、マリアは呆然としていた。顔に仄かに赤みが差した。それは、砂漠の旅人が手の平一杯分の水を見つけたような安堵の色だった。
「いいえ」
その否定の響きが、少し怖いとその時のギデオンは思ったものだった。
遥か後、何よりも忌まわしい響きとして、何度も彼の頭のなかに蘇っては響き渡った。
「貴方はプロンプターです、ギド」