A.D.2158 10/28 23:42
地球低軌道
地球統一政府宇宙軍 第四艦隊旗艦『ディグニティ』
砲火に照らされながら、
彼が繋いでいる仮想艦橋は艦隊司令向けの特殊仕様であり、古代の軍船のように部下や味方艦の動きが一望できるよう高所に配置されている。足元で部下たちが目を血走らせながら怒鳴り合い、そのさらに下には魚群のように動き回る双方の艦影が、青い地球を背景にして映し出されている。
鄭は玉座ともいうべき位置にいるわけだが、まさしく砂上の楼閣に他ならない。その崩れそうな椅子に軍人らしからぬ小太り気味の身体を預けながら、彼は嘲笑を浮かべていた。
足元の艦影がまたひとつ消失した。同時に通信手が悲鳴混じりの報告を上げる。それを片手で制した。即座に予備兵力を投入して穴を塞ぐが、戦線が後退しつつあるのは否めない。
しかし、他の艦隊が醜態を曝しているなか、彼の第四艦隊だけは依然統率を保って抵抗を続けていた。まっとうに戦えば十分引き分け以上の結果を引き出せる。そうするだけの自信もあった。
問題は味方の盛大な崩れぶりが、自分の部下たちにまで波及しつつあることだった。やられていく友軍艦艇を助けようと注意を向けたが最期、今度は自分たちが標的になって沈められる。
そうして自分の僚艦が討ち取られていくごとに、艦隊全体の士気もコーヒーに落とした角砂糖のように溶けていく。
「勝てないなぁ、これじゃあ」
嘲笑はそのままに、口の端を忌々しげに歪めて鄭は言った。
股を大きく開き、両膝の上に上体を投げ出す。池のなかの鯉を覗き見るように鄭は足下の地球の地表を見やった。そこで這いずり回っている数十億の人々を見下ろした。
そのなかのごく一握りの愚か者たちのせいで、地球軍最後の宇宙艦隊は消滅しようとしているのだ。
「ぺっ」
宇宙軍参謀本部だの、国防大臣だの、あるいは武闘派政治家とかいう矛盾の塊のような連中に向けて、鄭は唾を吐いた。無重力のなかでふわふわと漂った水滴はゆっくりと床に当たって弾けた。
「まったく馬鹿げている。あんな無能どものせいで、かくも優秀な私が何も成せないまま死ぬなど」
後退しつつある生え際に置き去りにされた前髪を撫でつけながら、鄭はぼやいた。小声だったこともあって通信を繋いでいる参謀たちには届いていない。しかしそもそも、今の戦況の劣勢ぶりに慄いてそれどころではない。
人類にとって初めての宇宙戦争。誰も経験したことのない形の戦い。当初は相応に混乱が予想されていたが、いずれは順応すると楽観視されていた。
だが鄭はこの戦争に関わり続けるなかで、いつまで経っても軍人たちが「弱さ」を捨てきれないでいることに気づいていた。
メンタル的であまりに脆い人間が多すぎるのだ。
地上にあっては「我らこそ獅子」と言いたげに肩で風を切っている連中が、宇宙に上がると途端に羊の群れのように頼りなくなってしまう。その不可思議なギャップが、勝てるはずの戦争を5年も引き延ばし、挙句の果てに逆転の機会を与えてしまう結果となった。
もっとも、それは兵士たちばかりのせいではない。地上から何の想像力も発揮せず、指と舌さえ動かせば人を死地に送り込めると信じている連中……本当の戦犯はそいつらだ、と鄭は確信していた。
「結局、提督も生き延びられるほど優秀ではなかった……ということでは?」
渋面を浮かべて鄭は真後ろを振り返った。いつの間に入ってきたのか、長身に銀色の髪を纏わせた女性士官が無表情のまま彼を見下ろしていた。
「フィオドラ・スライキナ大尉。私は少将だぞ? いくつ階級が離れているか考慮したまえよ」
「申し訳ありません。先ほどの愚痴に何らかの応答が必要かと思いまして」
「愚痴のレスポンスなど期待していないし、君には輪をかけて期待しない。どうせ出てくるのは嫌味ばかりだろう。それで、私が注文した紹興酒は持ってきてくれたのかね?」
「艦隊指揮の途中に飲酒など」
フィオドラが正論を口にしようとした時、『ディグニティ』の艦体が激しく揺さぶられた。船殻が悲鳴を上げている。艦長から被弾の報告と、即座にダメージコントロールに入った旨が伝えられる。実際、一撃で沈まなかったから軽傷と見て良いだろう。
問題は艦隊旗艦にまで敵の攻撃が届き始めているという事実だ。
「いよいよ最期の一杯が必要な局面が近づいたようだ。ささ、早く出したまえよ」
「生憎ながら」
「おい、命令違反も大概に……」
人差し指を突きつけながら迫る鄭の、疲労とストレスでむくんだ顔に、フィオドラがホロディスプレイを叩きつけた。
「タルシス軍のバレット・フライヤーより通信です。内容は本艦への投降と緊急着陸の要請」
鄭は指先でホロディスプレイを横にどけた。その顔からは自暴自棄の色がきれいに抜け落ちていた。
「見返りは?」
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A.D.2158 10/29 00:02
地球低軌道
地球統一政府宇宙軍 第四艦隊旗艦『ディグニティ』 艦隊司令執務室
「マリア・アステリアの命。ならびに地球全土への核攻撃の阻止。この二つが、私の差し出せる全てです」
両手を拘束された状態で連れてこられた男は、傲然と椅子にふんぞり返った鄭を前にして、いささかもたじろいでいなかった。
(こいつ面白いな)
反射的に鄭は思っていた。
鍛え上げられた長身を戦闘用の黒い宇宙服で包んだ男は、自分が敵地のただなかにあるにも関わらず全く冷静さを失っていなかった。とても投降を申し出てきたようには見えない。
鄭の手のなかには、男が持ってきた命令書が握られている。紙の重要文書など今時滅多に見なくなったが、それだけ重要な内容が秘められているということだ。
そこにはタルシス軍参謀本部より、正式にマリア・アステリアの抹殺とその凶行の阻止を命じる一文が書かれていた。
「で。なんでそれを敵である我々がやってやらねばならんのかね? ギデオン・ブランチャード少佐?」
当然の反論である。それはギデオンも想定しているだろう。指摘されるまでもなく、自軍内の危険人物の排除は憲兵隊がやるべきことだ。
わざわざ敵軍に投降した挙句、味方の位置情報を開示して撃破するよう指示するなど、それこそ裏切り以外の何物でもない。
そもそも彼がここにたどり着けたこと自体が奇跡のようなものだ。いかにバレット・フライヤーの機動性があるとはいえ、両軍の火砲が入り乱れているなかで旗艦目指して飛び込んでくるなど並みの心臓や腕前ではできない。
(もしこの男が持ってきたのが、白旗でなく爆弾だったら)
最期の一杯を楽しむ余地すらなく、自分は死んでいたかもしれない。さすがに鄭も、椅子に押し付けた背中がじっとりと汗ばむのを感じた。
ギデオンは表情を変えないまま答えた。
「コロニーは地球を消したいわけではない。マリア・アステリアは我々双方にとって共通の脅威です。だからこそ共同で排除するべきだと考える」
紋切り型だな、と鄭は断じた。
「つまり君たちは、自力であの男を排除することができない。それが難しい理由がある。だから我々に力を貸してほしいと、そういうことだろう?」
船体が何度目かの振動に襲われた。ギデオンに銃を突きつけている兵士たちが狼狽えていた。平静さを保っているのは、ギデオンと鄭の二人だけだった。
「提督、あまり余裕はありませんよ」
隅のデスクで記録をとっていたフィオドラが警告する。鄭はそれを鷹揚な仕草で制した。
「なあ、どうなんだ? 腹を割って話してもらわなきゃ、とてもじゃないが乗れないなぁ。こんな話」
艦を襲う振動は徐々に強まりつつある。机の下で密かに開いた小さなディスプレイには次々と損害報告が送られてくる。ギデオンを見やりながら、鄭は自分の指示が必要なものにだけ手早く、しかし的確に返答を重ねる。
逆に言えば、目の前の男とのやり取りには艦隊指揮と同程度の値打ちがある。
言われるまでもなく地球艦隊は大ピンチだ。まさに渡りに船かもしれない。
ギデオンも内心では焦っているはずだ。自身の命もそうだが、彼が言うことが真実ならば、足下の地球全市民の命が賭かっていることになる。いかに敵対するコロニーの人間とはいえ、決して軽く見ることはできないのだろう。
逆に言えば、コロニーの人間ですら躊躇する選択肢を迷わず選んだマリア・アステリアは、それだけイかれているということだ。
狂人を始末することに異論は無い。提案に乗って、全艦隊の進路を敵の爆撃部隊すなわちウィークポイントに向ければ脱出も可能だろう。
しかしその
もしこれが罠であれば全滅は必至。
罠でないとしても、敵の思惑の上で動くことになる。
元より不利な戦況だ。相手の考えを深掘りする余裕など無いが、選んだ先の結果が地球にとってより悪いものであるならば、艦隊悉く撃沈しようとも選ぶわけにはいかない。
ギデオンが次に口を開くまでに、数十分も過ぎたような気がした。
実際には20秒足らずだが、鄭にとってそれさえ短くはない。
タルシスの軍人の顔に狼狽や恐れの色は見えなかったが、沈黙自体が彼の迷いを表している。
鄭顕正には分かっていた。ギデオンの次の一言はこの戦争の行く末を大きく左右することになる。少なくとも第四艦隊の全将兵の命と、標的になった爆撃部隊員の命、その二つには確実に影響する。
ギデオンが口を開いた。
「コロニーは地球
冒頭の言葉を一部変えただけの返答。
だが、それを聞いた鄭はにんまりと笑った。