目眩に見舞われたのは、残暑で燃え尽きた私の身体が原因だったのか。
それとも死への旅立ちという、誰もが向かう最終の行き先を道案内されたからなのか。
破壊者、支配欲、欲望、偽善者、心の声、護る者、まだ見ぬ光……
一体、何を信じればいいかわからない。夢か
ただひとつ言えるのは絶望。
私がひどく愚かだったということだ──
*
カランコロン。
「あ、伊織くん、おはよう。いらっしゃい」
夏を背に、扉を開けるその筋肉質の腕を私はぼんやりと眺める。今年の日焼けはもう充分。伊織はいつも言葉より先に笑顔を見せた。今日もそうだった。
「あっ、……ローマ? わあ、いらっしゃい~♡」
伊織は世話をしている友人の飼い犬、ゴールデン・レトリーバーも連れていた。艶やかなベージュの毛並みで人懐っこい瞳をしている。
兄妹犬でミラノというそっくりな女の子もいるため、いつもどちらか一瞬迷う。ただミラノの方が若干毛色が淡く、垂れ目だ。
「はい。ミラノが朝からちょっと用事で出掛けてるんで。今日はローマだけすみませんがお邪魔します」
暑そうな吐息で最高の笑顔を見せるローマを店内に入れる。伊織は無言のまま、人差し指のサインだけでお座りをさせた。指のコマンド一つで犬たちは見事に伊織の言いなりだ。
そういえば伊織が謎解きの際に見せる、人差し指を天に向ける無意識の仕草もこのサインからきてるらしい。
「おー、ローマ。暑かっただろ~。お水とおやつあるぞ。ふみちゃん、早くほらリードをフックに繋いでマットに座らせてやれよ。伊織が『もうすぐ昼だぜ、寝ぼけてんのか?』って顔して見てるぞ」
真綿がキッチンから首を出し、伊織と私を同時におとしめた。
「ちょっ、あの……思ってませんけど」
「何よ、真綿! あのね、今まだ十時だよ。れっきとした午前中なんだから、少しくらいぼーっとしちゃうの普通じゃん。ね? 伊織くん」
私は扉横の壁に設置した犬用スペースのフックにリードを繋げ、クーラーの風があたる場所にマットを敷きながら口を尖らす。
「あ……はい。いいと、思います」
ボーダーTシャツに紺色のハーフパンツ、スポーツサンダルという姿の伊織は微妙な苦笑いで頷いた。
長年連れ添った夫婦のような、私たちのくだらない会話などきっとどうでもいい。確かにそりゃそうだ。
十五歳の年齢差を感じさせない真綿はアホな表情でキッチンへと入っていった。これから伊織のスペシャルランチを用意する。スペシャルといっても、通常のランチに一品プラスするだけなのだが。
本日のランチは白身魚の香草焼き、マカロニ・ミニグラタン、湘南野菜の彩りサラダ。食後には珈琲と真綿特製カスタードプリン付きだ。
そして伊織にだけ、いわゆるスペシャルメニュー。揚げたてのほくほくポテトコロッケ♪
これには普段おとなしく飄々としている伊織も表情を崩さずにいられないだろう。案の定嬉しそうに小さく頷くと、シェフの真綿にはにかむ笑顔で視線を向けた。
「これ……好きです」
以前にポテトサラダの時もそう言っていた。要はじゃがいもが好きなんだな。私は納得し欠伸をひとつする。
ローマもお水とバナナのスライスを貰い、眠たそうに伏せをしていた。
「そうだ、ふみちゃん。礼美ちゃんに今、電話してみてよ。聞きたいことがあるんだけどさ、昨日から音沙汰ないよね?」
「え? ああ、そうなんだよね。……音沙汰ないとか珍しいよね、会社忙しいのかな。それとも
礼美の場合は、会社といっても夜の会社。
私の親友、星野礼美は銀座のクラブでホステスをしている。
誰もが納得の美貌、大らかで陽気な性格、情にもろく負けず嫌い。そういった天性の資質にこの職業はすっぽりハマったらしく、トップクラスの地位をたぶん現在も確立していた。
御徒町への用事というのも、仕事用のジュエリーを購入するため時々行くのだ。
宝石店ひしめく御徒町は、目利きがあればかなりお得な買い物が出来ると言っていた。礼美の知り合いはジュエリー関係者も含め幅広い。
顧客にはここでは名前を出せないような政治家や有名人、富豪や重要人物もいるという。日本を揺るがすようなビッグネームのお方とも、可愛い絵文字でメッセージを送ってたりする。
「第三次世界大戦は私が止めてるようなもんだからね」
礼美は時々忘れられないセリフを吐いた。
そんな礼美と私の趣味は謎解き。
ミステリー小説の大ファンなのだ。世界各国の探偵小説に登場する完全無欠の名探偵は、私たちを幾度も魅了した。類いまれなる知性、勇気、その人知を超えた
ああ、そんな私たちが密かに敬意を払っている現代の名探偵というべきはこの人!
天才的推理力を駆使し、そこに居ながらにしてあらゆる難題を解決してきた我らが
普段はおとなしくて、いるかいないか分からないほど存在を消してるんだけどね。
彼に会うため毎日、寝起き三十秒のボッサボサで何としてでもカフェにやってくる礼美が昨日から姿を見せていない。電話、メッセージなど一切の音沙汰がなかった。
「電話してみたけど出ないよ。ていうか、電源入ってないみたい」
「マジか。俺、礼美ちゃんに頼んでることがあるんだよな。うーん、どうしよっかな……」
真綿が怪しげな物言いをする。最近、私に内緒でなにやら礼美とコソコソしてるのは気付いていた。
珍しくモヤモヤしてしまい、五月の誕生日に真綿にプレゼントされたネックレスを確かめるように触った。
「ねえ、真綿。なんかさ、この前から礼美ちゃんとおかしくない? ……まさか浮気とは思わないけどちゃんと説明してよ!」
「はあ? お前何言ってんの。浮気とかないわ。礼美ちゃんの知り合いに、御徒町で品物を見繕ってもらってるだけだよ。俺がふみちゃん一筋なのは分かってるくせにー。お望みなら今夜も張り切っちゃうよぉ」
ごまかしてるのか何なのか、真綿が嬉しそうに絡みついてくる。
「わっ。ちょ、ちょっと! 伊織くん、いるじゃん。やめてー」
ああ、もうあいつ最悪。
真綿の重たい腕から逃げて私は言った。
「私、礼美の家まで行って来る。十分で戻るからちゃんと仕事して!」
素早くエプロンを外し、ローマの頭を撫でて携帯だけ手に取った。
「おー、ついでにこれも渡しといて。この前来た時の忘れ物!」
宙を舞う物体。
ローマが本能でさっと顔を上げ、それを目で追う。
私はローマに目配せし、扉へ手を掛けようとしたその瞬間。
──カランコロン。
「あっ、ごめんなさい。……いらっしゃいませ」
入ってきたお客と同時で、ぶつかる寸前でかち合った。
長身で小顔、透明感のある極上美肌。アジアンビューティさながらに外国人モデルを思わせるオーラをまとったお客様だ。私は思わず、後ずさった。
ここ湘南地区の美意識とはまた違う、都会的な洗練された雰囲気の若い女性。
ハリウッド女優やファッションモデルと言われても通用しそうな、しなやかな身体付きをしている。手足が細く長いせいだろう。ヒールのないペタンコ靴なのに、足の長さに一目で圧倒された。
海外ブランドと思われる鮮やかな配色のゆるいロングブラウス、テロンとした素材のワイドパンツをブランドの広告塔のように着こなしている。
胸元に輝くルビーのネックレスもサイズが大きく印象的だ。
日本人の標準身長の私なら、全てが間違いなく野暮ったくなる代物だった。
彼女はわざとらしい黒縁メガネも掛けていて、またそれが独特の存在感を醸し出している。美しい顔をそんなメガネで隠す必要ある?
一瞬にしてそこまで意識を向けてしまった。これも本能。だって、女は同性の美には敏感だから。
その時、急にむくっとローマが立ち上がり女性のもとへ近づく。ちょうど股間の位置へゆっくり鼻先を近づけ顔を寄せた。
「ちょっと……こ、こらっ。ローマ、お客様に近寄っちゃダメ。もう~、すみませんっ」
女性は無言でローマを避ける。
ねえ、女性のお客様の股間に顔を近づけるなんてー。君は変態犬なのか! 私はペコペコと謝りながらローマと女性の間に入った。
食事中の伊織が、うちの犬が何かしましたか的な感じで振り返った。
「……加納、伊織さん?」
突然の女性の声に伊織が食事の手を止めた。
「あ、はい。……えっと、どなたですか?」
口はまだモグモグさせつつ、伊織は女性を見つめる。女性は表情を変えず黙ったままだ。私もローマもふたりに見入った。数秒後、伊織は首を少し傾けると確信のなさそうな声でつぶやく。
「もしかして……森田、
女性はかすかに頷くと、手にしていた黒いスマホの画面を上にして伊織に差し出した。
突如、スマホのスピーカーから聞こえてきた声。それは聞いたこともないポップな口調の女性だった。
「伊織くん♪ 当ったり~! 私よ、み・ど・り・こ! お元気だった?」
ん? んんん? 緑子さんが手にした
しかも、間近にいる女性とは真逆のテンション高過ぎな声。
「びっくりした? あはは……この子はねー、私の双子の妹なの!
ふたご……の妹。だから伊織は首をかしげてたのか。
「お疲れ様です。……少々驚きました。雰囲気、変わったなと思いまして」
伊織がビジネス口調になった。仕事繋がりの知り合いのようだ。それにしても、何か変……。
「雰囲気が違う? そうかなぁ、そっくりだと思うんだけど。……私のトレードマークの黒縁メガネも掛けさせたし。ふ~ん。ま、いいわ。そこに突っ立ってる妹はね、今日は私のお手伝い。何のお手伝いかって? うふふ。私、まわりくどいの好きじゃないから単刀直入に言っちゃうけど──いい? あのね今、星野礼美さんがどこにいるか知りたくないですかぁ?」
礼美を知ってるの? このおかしな人。
「あー、待ってダメダメ。先に言っとくけど、朱子は私と以外、誰ともな~んにも喋らないから。質問しても、誰が何を聞いてもム・ダ。朱子はね、あなたたちを監視する役目なの。私の指示に従うように……私ね、自分の手を汚すようなことは決してしない主義なんだ。うふ、カッコイイでしょう? 知能犯はこうでなくっちゃ。伊織くん私、あなたの時間を少しだけ借りたいの。ペット探し……じゃなくて。今回は人捜しよ。伊織くんたちの大切な、ひ・と。緑子のお願い、聞いてくれるよね?」
伊織は何かを感じ、少しだけ顔をこわばらせた。見たことのある表情だった。それは私に悪夢、嫌悪……その類いのぞっとする恐怖を連想させる。
そして同時に、私たちに向けられたこのシンプルな黒いスマホが礼美のものであると分かった。伊織はたぶん……すでに気付いていた。
「……緑子さん、この手の込んだ冗談は一体何でしょうか」
低い声で伊織は言った。神経を尖らせてるのがわかる。
私だって伊織をずっと見てきたのだ。考えてることはわからなくても、表情や醸し出す空気感は充分理解出来た。
「やだぁ、怖い声出さないで。私は伊織くんとゲームがしたいだけなの。あなた最近、ネットざわつかせてるよね? 天才的な探偵が湘南にいるって噂になってるよ。なんかそういうの、ホントむかつくんだよね。そうそう、刑務所にいる無山くんのことだって、わざわざ大人しくさせちゃってさ。いや、あいつ元々立派なサイコパスだからね! 眉一つ動かすだけで人殺しが出来る男だったのに……。もったいないなぁ。いい? 究極にワクワク出来る……生死を掛けた、楽しいゲームがしたいの! 伊織くん、私のお願い聞いてくれるでしょ?」
圧力を自由自在に操る緑子は、最後だけ猫撫で声になって言った。
「生死を掛けたって一体どういうことだっ!」
キッチンから真綿が慌てて出て来た。スマホのスピーカーから響く声に反応したらしい。真綿はすでに声を荒げている。
「ああ、その声は真綿さん……かな。声デカいなー、想像してた通り。はい、ここで私、自己紹介しまーす。聞きたい? ねえ、それともイラついてるの。もしかして?」
スマホから楽しそうな甲高い笑い声。
嫌な予感しかしない。
みんな神経質に黙っている。ローマさえ私たちの雰囲気を察したのか、時折唸るような低い声を発した。
空気が震える、微かな音色が聞こえた気がする。いや、それが自分の震えている音かもしれないと気づくのにそう時間はかからなかった。
目の前にいる朱子はマネキンのように表情もなく携帯を持ち、先程と同じ位置に立っていた。この惨めな運命を無条件に受け入れてるといった具合に。
「はーい、じゃあ皆さん聞いて下さいね。私の名前は、森田緑子。森田はもちろんテキトーに付けた偽名だからふみさん、姓名判断は無駄よ。歳は……二十五歳。まあ、それもホントかどうか疑わしいです。えっと私と伊織くんはね、一ヶ月前に運命的な出会いをしました♪ なんて。伊織くんの同業者のふりをして、私からわざと近づいたの。……伊織くんなら覚えてるよね。『ハロー通り・ミルキーくん脱走事件の謎』。緑子が困ってたら、犬の居場所を見事に当ててくれたじゃない?」
自分の名前を出されて、一瞬緊張した私。……ハロー通りのミルキーくんって何?
「ええ……覚えてます。高杉さん宅の柴犬ですね。なるほど……それも緑子さんのゲームでしたか?」
伊織は思い出すようにゆっくりと言葉を継いだ。
「そうなの、伊織くんのこと試したくって。うふ。まあ、あのゲームは簡単だったみたいで残念だけど……。あのね、皆さん。海に向かう途中にハロー通りって道路があるでしょ。朝と夕方以外は人も車もほとんど通らなくて、戸建て住宅に挟まれた通学路になってる道。その通りにね、高杉さんっていうお宅があるの……」
スマホから聞こえる声はペラペラとよく喋った。
「そこの飼い犬がね、ミルキーくんって言うんだけど。お散歩前に突然逃げ出す事件があったわけ。ご夫婦が子ども代わりに大切に可愛がってるワンちゃんよ。……その日は、いつも家で宝石デザインの仕事をしてるご主人がお散歩の当番だった。出掛けようとしたら
自らが起こしたであろう事件を緑子は楽しそうに私たちに聞かせる。
「私は犬のお散歩専門・ドッグシッターとして、伊織くんに近づいたの。伊織くんって本業はペット探偵なんだけど犬の散歩も請け負ってるでしょ。毎日毎日、暑い中ご苦労様よね♪ 緑子には絶対できない。あっと話がそれちゃった……で、高杉さんのご主人は逃げ出したワンちゃんの件で私を頼ってきたのよ。まあ、もちろんそのように仕向けたんだけど。私は困ったふりをして、伊織くんに捜索のお手伝いをしてもらったってわけ」
誰にも言葉を挟ませず、緑子は話し続ける。
「伊織くん、噂通りだった♪ 感激しちゃった。あんなに早くミルキーの居場所を見つけられるなんて。ヤバい、かっこよかったなぁ」
半笑いで多弁の緑子に私はイライラしてきた。それでも伊織は何も言わず、緑子に喋らせている。
「あの時のご主人の顔ったら! もう思い出すたび笑っちゃう。……逃げ出したのは、本当はミルキーじゃなくて
夫婦ふたり家族がペットを飼っているケースは多い。ペットというより、もはや子どもだ。
そんな夫婦が離婚の危機になった場合、問題はペットの飼育権だった。人間の子どもの養育権同様、愛すべきペットを手放すかどうかは本人たちにとって深刻な事情となるのだ。
「確か……ご主人が受けた
伊織が律儀に言った。
「そうだっけ? ま、そんなの大した問題じゃないけど。わかってるくせして。家電に掛かってくるような電話なんて、どうせ聞く必要のないセールスが大半なんだから。しかも数分よ。あーそっか。旦那の場合は家で仕事をしてるから、仕事関係の電話もあるわけね! なるほど。でも、あの電話は私が仕掛けたただの間違い電話だし。ふーん。しかも奥さんの地元なんて普通何の意味があるって思う? まあ、ミルキーを連れに来た時は
上機嫌で話す緑子に伊織が言葉を被せる。
「──緑子さん。礼美さんの件ですが……そろそろ話を聞かせてもらってもよろしいでしょうか」
それはとても低く、慎重で有無を言わせぬ声だった。
「そうね、別にいいけど。今すぐ? もちろん。伊織くんが私とゲームしたくなったってことだよね。うんうん、楽しくなりそう。ワクワクしてきた♪」
弾けるような緑子の声とは裏腹に、私たちの神経は張り詰めていた。
うふふ……。緑子の笑い声だけがスマホのスピーカーから聞こえてくる。
「前置き抜きで聞きます。緑子さん……礼美さんをどうするつもりですか?」
伊織の質問に私たちは声を押し殺す。数秒が何時間にも感じる。
「私は昨日、星野礼美さんを
最後の言葉を聞いた途端、真綿が朱子の持っているスマホを奪おうと飛び掛かった。
「待って!」
伊織が大声を出した。ローマが驚き、激しく吠える。朱子は手からスマホを落とし、自分の身をかばうように両腕で身体を丸め覆った。
スマホを拾うと急いで画面を確認する伊織。私は真綿を抱きしめている。彼が背中で激しく呼吸するのを押さえていた。
「ちょっと何の音!? 何してんの? あんたたちバカじゃないの! その携帯が壊れたら、礼美の居場所もわからないままよ!」
緑子の声が発狂するように聞こえてきた。
「携帯は無事ですよ。何ともない……さあ、早く礼美さんについて教えて下さい」
「いいわ、ペット探偵。ゲーム開始よ。礼美の居場所を見つけて、助け出してみて! ヒントはね、まだ言わない。ふう。実はね……もう言ってるの。さっき私が話したことが全部ヒントよ。ちゃんと緑子の話を聞いてればって今頃後悔してる?」
えっ、さっき話したことって。犬の脱走事件? それとも夫婦の不仲のこと?
うるさいお喋りな女だと思って、私は時折耳をシャットアウトしてたかもしれない。ぞっとして変な汗が出てくる。
「……ハロー通りですか?」
「さあ、どうかな。んん、そうね。時間もないことだし、いいよ。おもしろいこと考えた。私……礼美をこのまま放置しよっと。身動きも取れずに、絶望にくれて死んでいくのかな。伊織くん……そう、ハロー通りのどこかに星野礼美はいる。だけど飲まず食わずで何日くらい持つのかしら、華奢な女って。あとね、捜しに行くのは伊織くんはダメ。絶対ダメよ。……ふみさんに走ってもらおうかなぁ。だって、そのほうが何だか面白そうだし。外は今、すっごく暑いんだから。殺人的な暑さで倒れちゃうかも。ふふふ」
「お前、いい加減にしろっ!」
真綿が激しく怒鳴った。拳を震わせている。
「俺がそこへ行く。伊織、いいな。俺を遠隔操作しろ。礼美の居場所を必ず突き止める」
声を押し殺し、滅多に見ない厳しい顔をして真綿は言った。
私はこの状況が苦し過ぎて吐き気を覚える。ひとり、何も出来ず唇を噛む。
「あっそう。ふーん、わかった。……別にいいけど。じゃあ、真綿さんにハロー通りを駆けずり回ってもらいましょうか。ふみさんの携帯と繋げててね、スピーカーにして声がまわりに聞こえるようにして。どういう風に伊織くんが謎解きするかを知りたいから♪
真綿はサーフブランドのキャップを深く被り、自分のスマホを握った。
そして私のスマホに真綿の名前、着信音が鳴ると同時に勢いよく飛び出していった。カウベルが狂ったように店内に響く。スマホをスピーカーに切り替えると、真綿の走る呼吸音が聞こえた。
伊織は先程の騒動の後、窓側の姓名判断用テーブルに座っている。私がいつも仕事で使っている場所だ。メモ用紙を前に鉛筆を持ち、目を瞑って怖いほど静かにじっと考え込んでいた。
「……真綿さんが出て行ったようね。ハロー通りまでは男の足で全力で走って五分ってとこかしら」
「緑子さん、少しだけ質問してもよろしいですか。……ゲームを純粋に楽しみたいのでしたら、正直に答えて下さい」
伊織が言った。
「いいわよ。ま、内容にもよるけど……私、思いやりはあるほうなの」
緑子は優位に立っている人間らしく、嫌みな穏やかさを見せた。
「誘拐した日以外に、礼美さんと会ったことはありますか」
「なぜ僕を敵視するのでしょうか」
「緑子さんの本当の望みは何ですか」
「タイムリミットはありますか」
礼美の黒いスマホは先程とは打って変わって沈黙していた。
朱子は青白い顔で今も同じ位置に立っている。私は気の毒に思い、椅子を差し出した。
「あ……の、緑子さん。朱子さんに飲み物を差し上げてもいいですか。顔色が少し悪いみたいだから」
黒いスマホが即答する。
「ダメ! 絶対ダメ。ふみさん、その場を動かないで。いい? 大丈夫、すぐに終わるから」
「終わるって……?」
私の言葉を無視して、緑子は伊織の問いに答える。
「最後の質問から答えるわね。タイムリミット……そうよ、もちろんあるに決まってる。朱子が持ってる携帯の電池、あと何パーセント? それが答え。電池がなくなったら即ゲームオーバーよ! 私や朱子に話を聞くことも許しを請うことも、物理的に出来なくなるんだから」
「伊織くん、私あなたを敵視なんてしてない。それどころか、尊敬してるの。あなたに出会えて良かったって本当に思ってる。天才に憧れてるのよ、私……ウケる。天才は天才を引きつけるのかもね。本物かどうか試さずにはいられない。いい? その天才たる所以を見せてほしいの。ペット探偵、そろそろ気づきなさい! この私があなたを挑発してるのよ!」
──プルルルル……
「えーちょっと。何なのよ、私が喋ってるのにー。しかも、こんないいところで」
「ごめんなさい。電話です。店の電話が……この時間たぶん、近所の知り合いだと思います」
「全くもう……いいわよ、早く出て。でも変なこと喋ったら、今すぐ礼美の命はないと思って」
私は急いで移動し、レジ横にある子機を手に取った。
「……はい、お待たせしました。コットンカフェでございます。あ、ああ。はい、はい。すみません。テイクアウトは夏はやってないんです。あ、そうです。ここまでは辻堂駅から歩いて来られますので、すみませんが……またのご来店、よろしくお願いします」
知り合いではなかった。私は子機を置く。ローマがフンっと一度鼻を鳴らした。
私は朱子の顔をちらりと見てから椅子に座った。
「じゃあ、次の質問ね。えっと、礼美さんと会ったことはありますか……だっけ。んー直接喋ったのは昨日だけね。はい、正直に言ったわよ。この質問はおしまい」
「そして、最後の質問。私の望みはねぇ……キラキラした緑の帝国で、女王として君臨すること。『オズの魔法使い』のお話って知ってる? どこよりも美しくて素晴らしい、エメラルド・シティの魔女に私はなりたいの。だから私の望みは……逆に言うとね、誰であろうとそれを阻むものは絶対に許さないってこと。ふふふ」
緑子は自信家らしく、半笑い気味で言った。
「さあ、質問に全部答えたわよ。伊織くん、礼美さんを頑張って捜して。楽しい~。タイムリミットはあと何パーセントなの? 急いだ方がいいと思うよ。電池が切れたら、もう私に助けを乞うことも出来なくなるんだから♪」
「……十六パーセント」
私はテーブルに置かれた黒い携帯を見て、愕然として言った。このまま通話状態にしてるとどんどん電池がなくなっていく。心臓の鼓動が早くなる。
お願いです神様。どうか、礼美を助けて下さい──。
「そろそろ真綿さんがハロー通りに着く頃かな。……真綿さん、今どこ? どんな感じ~?」
黒い礼美の携帯から漏れる声。同じテーブルに置いた私の携帯もスピーカーになってるので、その声が真綿に届く。
「はぁはぁ……くそっ、もう着くぞ。……待たせたな、あーやっと着いた。真っ直ぐ海に繋がるハロー通りのスタート地点だ」
私は、カンカン照りの影ひとつないハロー通りを想像する。殺人的な残暑の陽射し。
真綿は私の代わりに礼美を助けるため必死で走っていた。
まるで炭鉱のカナリヤだ。毒ガスの
お願い。──私の仲間、私の大切な人を誰か助けて。
こんな思いをするくらいなら、絶望にも似た叫びをあげたい衝動に駆られる。一秒ごとに訪れる嫌な予感を振り払いたかった。
私が鑑定してきた姓名判断では、犯罪を犯す人物に一貫性は見られなかった。
強いて言えば、虚栄心が強く自尊心の高い性質が目立つくらいか。あまり良すぎる鑑定に行き着くと、怖さを覚えることもある。人を認めない自信家が多いからだ。そして、その自信過剰は人生を狂わせることがあるから。
実は姓名判断では、犯罪者よりも被害者のほうに特徴が現れやすい。早死にや犯罪被害者、殺害された人はほぼ同様に最悪と予想される字画・陰陽五行の組み合わせを持つ。
だからこそ、私は心を込めて鑑定を続ける。直感を鈍らせないようにして。
「……緑子さん」
私は言った。喉がカラカラだ。
「なに?」
「もし、礼美に何かあったら……私たちはあなたを、絶対に許さないから」
少しの沈黙のあと、黒い携帯から音量が壊れたような激しい笑い声が聞こえ出す。
「はぁ? 許さないですって? 花野ふみ、誰にものを言ってるか分かってんの。……ペット探偵は頭脳。真綿は体力。あんたは一体何をしてるのかしら? 口を慎みなさい。私はペット探偵以上の人間なのよ。悪魔も私に魅了される。名前なんかただの記号でしょ。私こそ無名の高級犯罪者。無名の偉人! 私に楯突いたら、次はあんたが死ぬ番よ!」
緑子は荒々しい口調で言った。
「……礼美は何もしてない。そうでしょ? お願い、緑子さん。私のこと気に触ったなら、礼美の代わりに……私を殺して」
喉の奥が苦しくて、私は自分の声がうまく出てるかわからなかった。だから、もう一度言った。
「私を礼美の代わりに……殺して」
「あんたたちってホント気色悪い。バカばっかり。類は友を呼ぶとはよく言ったもんだわ。……でもね、残念ながら礼美には殺される理由があるの。そうよ、私を差し置いて礼美に関わったバカな奴はすでに拷問を受けてるんだから。私はね、無差別に人殺しをするような快楽殺人者じゃないの! そんな低レベルの人間じゃない。でも、まあそこまで言うなら別にいいけど、変な度胸。そうね、この誘拐のきっかけはあんたでもあるんだから。礼美がタイムリミット内に見つからなかった時は、花野ふみ。お望み通り、あんたを殺してあげる」
「……お前ぇ、俺のふみに手を出したら、絶対に俺が絶対に許さねぇからなー!」
私の携帯から真綿の怒号が響いた。
思考が止まる。……礼美が殺される理由、拷問……私がこの誘拐のきっかけ? どういうことなの。
直後、私の思考に被せるように伊織が真綿を諭し指示を出した。
「真綿さん、落ち着いて下さい! 落ち着いてハロー通りを見渡して。……ただ見るのではなく観察するんです。いいですか? 人通りはありますか。怪しい人、普段見かけないような人物はいませんか。ありふれた景色に潜む悪を見つけるんです。例えば、スーツを着てうろついているような男の人。真っ昼間のこの時間に犬の散歩をしているような人など。……よく見て下さい。真綿さん、夏の湘南、特にオフィスなどないこのハロー通りで、長袖のスーツを着てウロウロしている人間は逆に珍しい。戸建て目当ての営業目的ならまだしも、目的なくうろついてるような人は泥棒の可能性もある。それから、真夏の炎天下にむやみに犬の散歩をする飼い主はいませんよ。肉球が火傷してしまう。……真綿さん、いかがですか?」
伊織が真綿に質問を始めた。伊織はどこまでこの事件を見据えて指示を出しているのか。神に祈るような気持ちで話を聞いていた。
「あーそうだな。……いや、庭の花に水をやっている主婦が一人と。あとは……井戸端会議してる、これまた主婦連中が数人か。この時間帯ほとんどこの通りは人が歩いていないな。昼飯の時間っていうのもある。伊織、他になんか指示をくれ」
「そうですか。……では、海の方へ向かって捜して下さい。家々を見渡して。人のいる家。留守の家。空き家。それぞれ様子が違うはずです! 開いてる窓、風鈴やピアノの音、洗濯物、車庫に車があるかどうか……。真綿さん、何でもいいんです。気がついたことがあれば、教えて下さい!」
伊織の焦った声が響く。指示に礼美を指し示すような具体的な案はまだ出てこない。刻々とタイムリミットのパーセンテージが減っている。
「あーなんだよ。くそっ、全部普通の家に見えるぞ。この通りはコンビニなんかもねぇから、日中は本当に人通りがないんだよ。はぁ、はぁ……暑い。ちくしょう。あっあの家、カーテンはしてるけど窓が開いてるな。今時期どこもクーラー付けてるから、普通窓は開けないんじゃないか? しかし空き家なんかどうやったら外からわかるんだ、留守の家と変わらねぇだろ」
「窓を開けてカーテンをしてるのは、きっと家の中を見られないように空気の入れ換えをしてるだけだと思います。あとは、一階部分のガラス扉にも気をつけて下さい! クレセント錠というレバーで開閉出来る鍵なら、外からでも出入り出来るかどうかが分かります。そして空き家と留守宅の違いは郵便受けを見れば大体わかりますよ。空き家はよくガムテープで受け口を塞いでますから!」
「おー、なるほどね。そういえば一軒、ガムテープした郵便受けがあったな」
「そこはおそらく空き家でしょう。その調子です。また空き家があれば教えて下さい。突き当たりまで行って、折り返した際に捜索してもらいます。とりあえずはそのまま走って下さい。そして真っ直ぐに行くと、低層のリゾートホテルがありますよね。……たぶん、一番可能性がある場所はそのホテルの部屋だと思います」
伊織がやや低い声で言った。
「ですが、問題はどうやってホテルの内部を捜索するかです。警察でもない僕らは、個人情報の関係で泊まり客の情報を聞くことも不可能ですし……」
伊織がすぐに言葉を詰まらせる。本気で焦っているのか、いつもの謎解きに見せる神がかった推理にはまだお目にかかれそうになかった。
「マジか……なら、伊織。いい考えがあるぜ。俺のさ、幼馴染みのあやちゃんに相談したら簡単じゃん?」
「……は? 幼馴染みのあやちゃん!? って誰よ、それ」
突然の私の言葉に、電話越しの真綿がビクつくのがわかった。
「い、いや……その、あれ、アレだよ。……あやちゃんって話したことなかったっけ? あのさ、この辺一帯の地主だった家のあやちゃんだよ。ホテルになる前の土地の所有者だったんだ。だから確か今も、ホテルの一室はあやちゃんちのものらしいぜ……」
地元の真綿の繋がりは、全部ではないが把握してるつもりだった。しかし、女友達の名前は意図的に伏せていた可能性がある。真綿め。
「ちょっとそこ、よくわかんないけど、
緑子が
「真綿さん、流石ですね……。ありがとうございます。これでやっと視界が開けますよ。ではあやさんに早速連絡を取って貰い、ホテルの内部を見せて頂けるように調整お願いします。そして、ホテルへ入ったらすぐに僕の指示に従って下さい──」
伊織がその時、少しだけ希望の持てる言い方をした。風向きが変わった瞬間だと私は感じる。
「……おう、バッチリだ。あやちゃんに連絡したら速攻返事が戻ってきた。今ホテルにはいないが、支配人に連絡を取ってくれるそうだ。持つべき者は信頼のおける地元の友だなっ! あ~イケメンでよかったね、俺♪ 空いてる部屋や共有フロアは内緒で好きなだけ見せてくれるらしい」
イケメンはともかく元来、真綿の運の良さは折り紙付きだ。私の口元も自然と緩む。
「あんたたちって、ほんとバカね。おちゃらけてる時間なんてないんだから。まあ、笑えるけど。勝手にやってちょうだい」
緑子の人を馬鹿にする物言いが聞こえた。私の表情がまた少し堅くなる。
「真綿さん……とりあえずは、ホテルの空き室を見せて貰って下さい。それも女性がチェックアウトしたばかりの部屋をお願いします。なるべく急ぎで」
真綿が電話越しにゴニョゴニョと会話しているような音がした。
「はい、お待たせ! これからチェックアウトしたての部屋へ急行しますよ~」
ふざけ気味の真綿をよそに、私と朱子は押し黙っていた。
黒い携帯のパーセンテージはすでに十を切っている。
「──ここがお客がチェックアウトしたばかりの部屋なのか?」
真綿が空室に入ってホテルスタッフと話してる声が、電話越しに聞こえてきた。
「伊織~、チェックアウトしたての客室に入れてもらったぜ。どうすればいい?」
少しの沈黙のあと、伊織が言った。
「では、部屋の状態を教えて下さい。なるべく詳しくお願いします」
「詳しくったって、大した部屋じゃないけどな……あーいや、素敵なお部屋ですよ、もちろん。ほんと」
真綿ったら。言葉に気をつけてよ、もう。
「こぢんまりとしたシングルルームだな。俺が寝返り打ったら床に転げ落ちそうな幅の狭いベッドひとつ、下に人間が隠れる場所はないかぁ……。茶色の小さな机と椅子。おっ、机の中には聖書があるぜ。あとは電話と小さなテレビ。その下に引き出しがある。それから、これまた小さなハンガーラックがついたスペース……伊織、人が隠れる場所はなさそうだぜ。あのさぁ、もしかして聖書の中に暗号とか隠されてねえか?」
「真綿さん……たぶん、聖書の中に暗号は隠されてないと思いますよ。スパイ映画の見過ぎかと。ではベッドの中、机と椅子の上を触ってみて下さい」
「え? ベッド? 机の上と椅子? ああ、そういうことか……どこもまだあったかいな」
私もハッとする。直前まで誰かがいたという温もり。証拠。
「ええ。机の上が温かいのはノートPCを使っていたからですよ。それでは真綿さん、どんなことでも結構です。従業員の方に話を聞いて下さい。情報を増やして。そこに礼美さんが捕らわれているとしたら普段人が近寄らない地下か、もしくは屋上か。地下には何がありますか。厨房、ボイラー室……情報を元に見極めて捜して下さい。急いで!」
「見極めろったって……。あーまったく、どうすりゃいいんだよっ。従業員に話を聞いたって、本当か嘘かわからないじゃねえか。もしも緑子の共犯者だったら本当のことは言わねえだろ」
真綿の荒ぶる声が私の携帯から響いた。
「いいですか、真綿さん。落ち着いて。一般的に人間は何かを考えている時、視線は左に動きます。ですが嘘をついている時は自然と右に動くんです。それは嘘のつじつまを合わせるために左脳で考えるからなんですよ。……ちなみに嘘をつく時、男性は視線をそらせがちですが女性は逆に目を合わせてきます」
「くそっ、わかった。結局、俺が調べるしかねえってことだな」
真綿……ごめん。私はここで話を聞いていることしか出来ない。涙が溢れる。
頼りなくて本当にごめんね。今は一人一人が必死になって、礼美を捜し出さなきゃいけないのに。
「ヤバそう~、かなり笑える。ねえ、スマホの電池はあとどのくらい? もうそんなにないでしょ?」
緑子の声だ。笑いを抑えてる。
「……三パーセント」
死のカウントダウンが始まるように、朱子が小さな声を発した。私は涙に濡れた顔を上げる。
「あと少しで電池が切れる! お願い、礼美を助けて!」
思わず、私は悲鳴に近い声を出した。
その時だった。
私の知っている自信溢れる声、私たちの名探偵。
迷いのない、比類なきペット探偵の声がその場に響いたのだ──
「皆さん、お待たせしました。誘拐ゲームの謎は今、全て解明されました」
私の頬に、先程とは違う種類の涙がゆっくりと伝った。
その言葉に私の不安感はかき消されていく。勝負は私たちの勝ち。揺るぎない勝ちが見えた瞬間だった。
私の携帯から真綿の笑い声と自信溢れる声も聞こえてくる。それすら頼もしい。
「伊織、遅えよ! 待ちくたびれたぜ。じゃあ、いくぞ。手間掛けさせやがって……おら、驚けよっ! 灼熱のハロー通りを走り回ってるはずの相手はここにいるぜ。……あんたはもう終わりなんだよ、
そして私の目の前にある子機からも、もうひとりの穏やかで優しい声が聞こえてきた。
「お待たせしてすみませんでした。もう、怖がらなくて大丈夫 ──僕がついてます。おいで、
* *
私は今、誰もいないカフェの店内を片付けている。
涙に濡れた顔はもう落ち着いた。
朱子は姉の緑子が逮捕されたことを聞き、そして私に大切なことを告げ、運命を静かに受け入れるようにして帰って行った。
テーブルのまわりには白いメモ用紙が散乱していた。
ゆっくりとその中の数枚に目を通す。
『予想を超える相手に振り回されないで』
『緑子を挑発して情報を引き出して。内容は自分で考えて下さい。そうでなければ、勝つことは出来ない』
これらは伊織が私に手渡したメモだ。
私が姓名判断で使用するメモ用紙に走り書きをして渡してきた。
喋らないで意思疎通をするために。
真綿がハロー通りへ駆け出して行ったあと、少しして伊織がキッチンの奥の扉から音もなく出て行った。外に置いていた真綿の自転車に乗って、真綿を追いかけたのだ。ローマと一緒に。
その時、例の指のコマンドだけでローマを静かに誘導させた伊織は流石だった。ローマは一度鼻を鳴らしただけ。
伊織がカフェを出てすぐ、ここの固定電話に自分の携帯から電話を掛け、私が子機を取った。緑子にお客様からの問い合わせと思わせたのは私の機転だった。
そして伊織にメモで指示された通り、電話を切らずにスピーカー機能に切り替えて子機をみんなの携帯と同じようにテーブルへ並べた。
外から見たら、携帯や子機が置かれた一つのテーブルをふたりの女性が挟んでいるといった具合。
その後はずっと緑子の携帯、礼美の黒い携帯、真綿と私の携帯、伊織の携帯とカフェの子機が繋がった状態のまま、スピーカー機能で話をしていた。
迫真の演技は称賛に値する……とは、真綿本人の言葉。
「いやぁ、俺ヤバくね? 俳優デビュー出来るんじゃね?」が、実際の言葉だけれど。
緑子は羽田空港にいた。
私と朱子は演技を続ける真綿と伊織に惑わされ、実際のことは何もわからずにいた。緑子と同じように、ふたりにまんまと騙されていたのだ。
笑える。
その時の緑子の驚きようが見られなかったのは残念とさえ思う。だけど……
今はわかる、男たちふたりの必死の覚悟が。
緑子が発する驚愕の声と伊織の謎解きに私はただただ満足し、いつまでも頭の中に蘇らせた。
「あんた、真綿じゃん……どうして、ここにいるの」
「森田緑子、お前はすでに包囲されている。……なんてな、一回言ってみたかった♪ それにしてもあんたもバカだな。俺らを相手にするなんてさ。百年早えんだよ、勝てるわけねえじゃん」
「……信じられない。どういうこと、朱子ぉ!! なんでちゃんと見張ってないのよ、これは一体なんなのよー!?」
子機から伊織の声。
「朱子さんの代わりに僕から説明させて頂きます。緑子さん、簡単なことですよ。観察し、先回りして確保する。いつものペット捜索の要領です。……まずは、ハロー通りへ向かう真綿さんを僕は自転車で追いました。犬のローマを連れて」
「ハロー通りで合流した僕らは、すぐにミルキーを飼っていた高杉さんのお宅へと向かいました。自宅で仕事をしているとのことなので、きっとご在宅だと思いまして。そういえば……奥さんとは離婚が成立したようです。彼、今は犬ではなく猫を飼ってましたよ」
「そこで、奥さんの現在の居場所を教えて頂きました。緑子さんは短期間に、高杉さん夫婦とかなりの信頼関係を築いたようですね。僕は緑子さんのドッグシッターの同僚だと説明したら、スムーズに話が聞けました。特に奥さんとは離婚のお膳立てまでした間柄……プライベートまでどっぷり浸かったふたりの縁はそうそう切れるものではない。今も継続中だと考えたほうが自然でしょう。奥さんは現在、沖縄で宝石店を始めたと彼は言っていました。もともと山梨県生まれとのこと。甲府は宝石業が
「高杉さんから話を聞いた後、
ペット探偵が少し笑ったように思えた。
「おう、伊織からの遠隔操作での演技だろ。タクシーの運ちゃんは、俺が俳優でセリフの練習をしてるって今でも思い込んでるよ。しかも撮影現場に遅れそう……なんて言ったら、俺がハラハラするくらいの猛スピードで羽田まで飛ばしてくれてさ」
真綿も豪快に笑った。
「現在……羽田発沖縄行きの空路には、JAL、ANA、ソラシドエア、スカイマークの便が運航しています。そして携帯の電池が切れる時間は……パーセンテージから推計しておそらく午後十二時半過ぎ。電池が切れたあとすぐの時間に飛行機に搭乗すると考えると、一時五分発のANAか一時四五分発のソラシドエアかに絞られる。それは僕たちにとっては大変な幸運でした。この二便は……旅客ターミナルが同じなんですよ。
「服装は違うだろうが、こっちは双子の妹をさっきまでずっと見てたんだ。見間違うわけねえよ。しかも美人捜しだろ、まさに俺の得意分野なんだよっ」
真綿、そこ威張るとこ?
思わず泣き笑いしてしまう。真綿は炭鉱のカナリヤでも逃げられないのではない。選ばれたカナリヤだった。
「加納伊織……私をバカにしてるの? 嘘よ。礼美の居場所がわかったなんてハッタリなんでしょ、どうせ」
「まさか。すでにこちらの
伊織の冷たい声が子機のスピーカーから聞こえた。
「そんなバカな……バカな。こんな短時間で、私と礼美の居場所がバレるなんて。あ、まさか……朱子ね、全部喋ったの? そうでしょ? 殺してやるわ、あんたがまさか裏切るなんて!」
「いいえ。朱子さんは最後まで何も言いませんでしたよ。……ただ、緑子さん。あなたの呪縛から逃れるように、僕が少し背中を押してあげただけです」
「訳わからないこと言わないで! 朱子はね、私を裏切ることなんて絶対出来ないはずなの! ……それなのに全部バレただなんて。裏切ったとしか考えられない! そうじゃなきゃ、私が仕掛けた罠をペット探偵がなんでそんな早くに解けるっていうの? あり得ない、あり得ないのよ!!」
「……緑子さん、あなたが仕掛けたゲームなど、僕らにはどうだっていいんですよ。そんなものに興味はありません」
「はぁ!? 朱子が喋ったんじゃなきゃ、じゃあどうやって礼美の監禁場所を突きとめたっていうの? 答えてみなさいよ」
「緑子さん、僕は元からあなたのゲームに乗る気など全くなかった。ただ、礼美さんを救い出したかっただけです。僕は確実で最速の方法をとったんですよ。ハロー通りの高杉さんのお宅を出てタクシーで羽田へ向かう真綿さんを見送ったあと、僕は礼美さんの居場所を突き止めるために、礼美さんの忘れ物……黒いキャップの匂いをローマに
私の頬にまた涙が伝った。これは嬉し涙。
犬の嗅覚は人間の百万倍以上ともいわれている。もちろん、浮遊する匂いさえ感知出来るそうだ。
ローマは私たちの代わりに礼美を捜し出してくれた。
いつも明るく美味しいおやつをくれる礼美のことが大好きで、微かな匂いを辿り真夏のハロー通りを黙々と捜してくれたのだ。
私たち人間、それから全ての動物。
長い長い時間をかけ助け合い、私たちは生き残ってきた。淘汰される
私たちは悲観しなくていい。仲間のために走る覚悟があれば、どんな過酷な場所だって
「緑子さん、まだ理解出来ませんか。あなたはもう終わりなんです。それが緑子さんと朱子さんとの違いでもあります。一見おふたりの外見は似てますが、決定的な違いがありました。……それは瞳です。刻々と姿、形を変えても目を見ればわかる。緑子さん、あなたの瞳には……恐怖心が欠けているんですよ。無垢を取り違えた、残酷な子どものような危険な瞳を持っていました」
「そう、加納伊織……。ふーん、わかった。あんたのそのうぬぼれた推理にはウンザリだけど、最後にひとつだけ聞かせてもらえる? ……どうやって、朱子の監視の目を逃れてカフェの外へ出たの? 朱子が私に報告するでしょ、普通」
「推理? とんでもない。もっと確実なものですよ。緑子さん、最後の質問に僕が答えて、もう終わりにしましょう。それは……いくら双子とはいえ犯罪に加担する必要はないですよね、大抵は。だとすると共犯者。もしくは片方が実行犯ならば、この奴隷のような妹の意味は何かと考えた。そうすると思い浮かぶのは
緑子は突然、狂ったように電話の向こうで叫び始めた。
私は手を伸ばし、自分の携帯と子機の通話を切る。私と朱子は静かに向かい合った。
「朱子さん、教えてほしいことがあるの。どうして礼美は誘拐されたの? 私がきっかけってどういうことですか」
そう話しかけると、朱子は私の目をみて不思議な表情を見せる。そして言葉を選ぶようにゆっくりと話し出した。
「ふみさんは本当に気付いてないんですね。……あなたは幸せだわ。礼美さんが姉に誘拐されたのはね、どうしても欲しかったエメラルドを礼美さんに買われてしまったからよ。礼美さんは御徒町にある宝石店へ出入りしていた。偶然、そこは姉が宝石の取引で利用してる店だった。先日、そこのバイヤーが希少なエメラルドを通常の商品と間違えて礼美さんに格安で売ってしまったの。目利きの悪さに怒った姉はそのバイヤーを痛めつけ、礼美さんも誘拐してエメを奪い取った。でその時、礼美さんと交流のある、前々から派手な活躍をしていたペット探偵のことを耳障りだと言ってゲームを仕掛けたの」
「礼美が買ったエメラルドのために誘拐を?」
「まだわからない? ……あなたのためよ」
「それってどういう……?」
「ふみさん、自分の誕生石を知ってますか」
「私は五月生まれです。誕生石は……エメラルド?」
「そう、姉はエメに魅了され執着している。そのためなら、誘拐も人殺しも厭わない。そんな人間がこの世にはいるのよ。信じられないかもしれないけど」
「でもどうして、私とそのエメラルドが……?」
「……真綿さんが礼美さんに頼んだって聞いたわ。ふみさんの誕生石を買いたいから、いい石を選んで欲しいって。もう、わかるわよね。真綿さんはあなたに……プロポーズするつもりなんじゃない?」
そう言って眼鏡をはずした彼女の瞳は依然として美しく、そっとゆるいブラウスのお腹に手を添えた。
そういえば真綿が礼美の携帯を奪おうと朱子に飛び掛かったとき、反射神経でとっさにお腹をかばうような仕草を見せていたのだ。
愛情深い、嘆きの瞳。
ここにも自分以外のものを護る人がいた。
そうか。
知らなかった──。いつもいつだって、こんなにも深い愛情に包まれていたのに。
私は両手を顔にあて、ここにはいない三人のことを心から想った。
カランコロン。
朱子は何も言わずカフェを出て行った。
ふいに届く、夏の匂い。
愛おしい、いつもの海の気配。
私は嬉しいのか寂しいのか分からないまま、急にみんなに逢いたくなって幸せな子どものように泣き出した。
* * *
眩しい日差しに目を細めながら、手の中にある白い紙をもう一度見る。
自由を知らせるように、海風が私の髪を撫でた。安堵の気持ちが心を通り抜けていく。お腹の子は無事だった。
『大丈夫。君たちの夢は必ず叶える。
ふたりがこの世界で出会う夢のこと』
紙にはそう書いてあった。
ペット探偵の力強い瞳を信じて、あの時私は頷いた。深く。
まだ見ぬ光……
私はそれを見てみたいと思ったのだ。
愛おしい気持ちが心の底から込み上がる。
たぶん、この子の名は希望。
未来を照らす私の小さな