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第57話 その第二王子、もう尻に敷かれているんですか?

 ウェルシェの登場に店内がシーンっと静まり返った。


 みなの視線がウェルシェに集まり、全員の動きが止まる。先程までの喧騒が嘘のようで、エーリックは店内に自分とウェルシェしかいないような錯覚に陥った。


 狼狽うろたえるエーリックと入口に立つウェルシェにスポットライトが当たり、二人の間がまるでサアッとモーゼの十戒の如く道ができたかのようだ。


(ど、どうしてウェルシェがここに?)


 ハッとエーリックが壁の時計に目をやれば、針はいつの間にか十三時をとっくに過ぎていた。


(約束の時間を三時間以上過ぎてる!?)


 ギギギッ……と音を立てるように首を巡らし再び視線をウェルシェに戻したエーリックは真っ青になった。


 入口に立つウェルシェの表情に……


 いつもエーリックの前では穏やかな笑顔しか見せない婚約者。今もウェルシェは笑顔だった。見る者を虜にするとても美しい笑貌である。


(怒ってる怒ってる! ウェルシェ完全に激おこだよぉ!)


 だが、こめかみはぴくぴく痙攣し、笑顔なのにどこか迫力を感じる。店内が静かになったのも皆が見惚れているからではない。誰もがウェルシェの鬼気迫る笑顔にビビッているのだ。息を飲むと言うより息を潜めていると言った方が正しい。


 この場の全員がまるで伝説の魔神ゴルゴンに睨まれ石化したかのようだ。


 ——カツーン……


 そんな完全制止の世界の中、ウェルシェの足が前へと出る。


 ——コツコツ、コツコツ……


 無音の空間にウェルシェの足音が異様に響く。


 ゆっくり近づいてくる足音が死刑宣告の秒読みのようで、エーリックは生きた心地がしない。助けを求めるように周囲に首を巡らせるが、皆がサッと目を逸らす。誰だって自分が一番可愛いに決まっている。


 ——カツンッ!


 ついに白銀の髪が眼前にまで迫り、エーリックはごくりと唾を飲み込んだ。


「これはどういう事ですの?」


 ドスを効かせたわけでもなければ、それほど大きな声でもない。むしろ、小さく愛らしい声だ。しかし、いつもの情感豊かな声音ではなく、それはとても無機質で聞く者の背筋を凍らせる。


「ご、ご、ご、ごめんウェルシェ!」


 エーリックは滑り込むようにその場で土下座した。王子にあるまじき振る舞いである。いや、今は執事だから良いのか?


 ウェルシェは屈んでエーリックの肩にそっと手を置いた。

 その手に地に伏したエーリックの体がガタガタと震える。


「まあエーリック様、そんなに震えてお加減でも優れませんの?」

「こ、これは……ヒッ!?」


 顔を上げたエーリックの目に飛び込んで来たのは、にっこり笑うウェルシェの顔。しかし、その笑顔には陰が入っており恐ろしさが倍増している。


「それでいったい何を謝っておられますの?」

「だからそれは……その……約束をすっぽかしてしまった事?」


 思わず疑問系で答えたエーリックにウェルシェの額にピシッと音を立てて青筋が立った。


「ヒィッ!?」

「まあ、そんなに怯えて、まるで私が脅しているようではありませんか」

「だ、だって、ウェルシェ怒ってる……よね?」

「怒る?……どうして私が?」


 首を傾げるウェルシェの笑顔がとっても恐い。


「ち、違うんだ……これはその……仕事が忙しくて……」


 まるで恐妻に浮気現場を押さえられ仕事を言い訳にするダメ夫のようにガタガタブルブル震えるエーリック。


「私、そんな些細な事では怒ったり致しませんわ」

「えっ、ホント?」


 暗雲立ち込める空から一条の光が差し込んだように、希望を見出し喜色を浮かべるエーリックはまだ本当の恐怖を知らない。


「誰もいない教室で一人寂しく待たされた事も……それが二時間以上にも及んだ事も……そんな私をエーリック様がすっかり忘れていた事も……」


 どんどん昏くなるウェルシェの笑顔にエーリックはアワアワし始めた。


「ホッント、そんな些細な事で怒ったり致しませんわ!」

「ごめんなさい! ごめんなさい! ごめんなさい!」

「そんな謝らないでくださいまし。私、本当にで怒ってはおりませんの」


 ガンッと床に額を擦りつけ平謝りのエーリックに、ウェルシェは慈母の如き優しげな笑顔を向ける。顔はとってもとっても黒かったが。


「だから、エーリック様がどうしてそんなに怯えていらっしゃるのか不思議でなりませんわ」

「そ、それは……」

「私、そんなに恐い顔をしておりますか?」


 もちろん、している。が、そんな事をバカ正直に言えるわけがない。


「それとも何かやましい事でもあるんですの?」


 エーリックはブンブン首を横に振った。


「そうなんですの?」


 今度は縦にブンブン首を振る。


「それでは、いつまでも膝をついてないでお立ちください」

「う、うん」


 ウェルシェが手を取り、エーリックは素直に従って立ち上がった。


「ゆ、許してくれる?」

「ですから許すも何も怒っていないと申し上げているではありませんか」

「ウェルシェ……」


 三時間も待たせたのに許してくれる婚約者の海のように広い心にエーリックは感無量だ。手を取り合う恋人達。しかし、ウェルシェの笑顔が真っ黒に変わった。


「それで、仕事と言う割に可愛い女の子達にずいぶんだらしない顔をされておいででしたわね」

「してない、してない、絶対してない」


 ガッチリ手をホールドされて逃げられないエーリックは首がもげるのではないかと思えるほど首を横に振る。


「まさかエーリック様が私との約束をすっぽかして、若い女の子達に鼻の下を伸ばしていたなんて!」

「信じてホントしてないから!」

「では、この子達は何ですの?」


 エーリックが接客していた童女達をウェルシェが指差した。


「ちょ、ちょっと待ってよ。いくら何でもこんな小さな子に手を出したりしないよ」

「では、もっと大きな娘には手を出されたのですわね!」


 完全に言いがかりだが、女の嫉妬は恐ろしい。怯えた童女達が逃げるように店を出て行った。


 残されたエーリック絶体絶命のピンチ!


「アンタ、何やってんの!」


 その時、エーリックに救いの女神の手が差し伸べられた。


「完全な営業妨害よ!」


 二人の間に入ったのは薄ピンクスリズィエ色の髪の美少女。


「何だアイリス様ですか」

「何だじゃないわよ!」


 アイリスは両手を腰に当てるとムッと怒った顔をウェルシェに向けた。


「お客さんが恐がって逃げちゃったじゃない」

「別に私は脅してはおりませんわ」

「アンタ、自分が侯爵令嬢って自覚あんの?」


 アイリスはウェルシェにビシッと指差す。


「アンタが凄めば、みんな恐がるに決まってんじゃない!」

「うぐっ」


 珍しく正論を吐くアイリスにウェルシェは言い返せない。普段と立場が完全に逆転だ。


「だいたい注文しないなら出てってよ」

「エーリック様を回収したらすぐに出て行きますわ」

「そんなのダメに決まってんじゃん」

「どうしてですの?」

「リッ君は仕事中なんだから連れ出されたら困んのよ!」

「ですが、私はエーリック様と一緒に文化祭を回る約束が……」

「それはアンタの都合でしょ。勝手をされたらクラス全体が迷惑すんのよ」


 この非常識女とアイリスに詰られウェルシェはショックを受けた。


(ひ、非常識な方に非常識と言われるなんて!?)


 今まで散々非常識な振る舞いをされてきた相手から常識を疑われるなんて……こんな屈辱的な事はない。


「分かったんなら、さっさと出てけ!」


 かくして嫉妬に狂った妖精姫はスリズィエの聖女に叩き出されたのだった。


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