「アルクース、私の理想は愚かでしょうか?」
「……いいえ。ただ、現実味がない」
「そうでしょうね。でも、私は理想で終わらせたりはしません。必ず叶えてみせます」
強く願って言った言葉にアルクールは暫く考えて、次には力なく笑い、丁寧に頭を下げた。
「俺達は貴方に忠誠を誓った。貴方の理想がそこなら、その理想に近づくために動くのが恩のある陛下への忠義だと思っているよ。だから、安心して使ってね」
「勝負に勝ったくらいでそこまでの忠義は少し大げさですよ。それに、領地に関しては当然の対価です。いえ、今を考えるともう少しこちらが払わなければならないくらいです」
「お頭が勝負に負けたからってのはほんのきっかけ。俺達が陛下を気に入ったから力を貸したいんだ。皆、色々あったけれど今では陛下に感謝している。シャスタ族は義理堅いんだよ」
温かな笑みと、信頼の眼差し。もしも本当の事を話したら、この信頼は失われてしまうだろう。売国奴と罵られ、軽蔑され、嫌悪されるだろう。それでも転がった心は止められない。止める気もない。
「それでは僕はこれで。陛下、おやすみ」
時計を見て夜もだいぶ更けた事を知ったアルクースが、一礼して出て行く。ユリエルもそれを見送った。
残されて考えるのは、弟に対する残酷な仕打ちと、それを躊躇わないでやるだろう自分の恐ろしさ。泣かれるだけでは済まにだろう。それに、ルーカスにも一度話さなければ。けれど、ここでどうにかしなければ、あの二人を完全に共犯者にしてしまわなければ今後は開けない。シリル一人を狼の檻に入れるわけにはいかないのだから。
ユリエルは僅かな罪悪感を抱きつつ、その夜は眠れぬままに過ごすのだった。
§
その頃、クレメンスとグリフィスは落ち着いた時間を過ごしていた。表向きは。
「クレメンス、ユリエル陛下をどう思う」
酒を飲みながらのグリフィスの言葉はどこか重たい空気を持っている。それに、クレメンスは少々考える。それに焦れたようにグリフィスは更に言葉を続けた。
「ユリエル陛下は元から他人を頼らない傾向はあった。だが、今回の事は少々引っかかる。あれではまるで」
「自己犠牲、か?」
クレメンスの言葉に、グリフィスもためらいがちに頷いてみせる。その言葉の意味は分からないではない。赤々と燃える戦場に溶け込むように消えていった背中を見て、拒絶を感じた。傷ついた姿を見て、悲しみを覚えた。
グラスの酒を一口飲む。そして静かに机へと向かうと、そこから一つの報告書を持ってくる。今朝がた届いたものだ。これを読んで、クレメンスはある意味で今回の作戦をユリエルが強硬に決めた理由が推測できた。
「これは?」
無言のまま差し出された報告書に戸惑いながら、グリフィスが内容に目を走らせる。その目が見る間に驚きに見開かれ、同時に怒りに燃えるのを見た。
「私は国内外に間者を忍ばせている。これは、その筋から入った情報だ」
「これを、陛下は?」
「私からは伝えていない。だが、陛下も独自の情報網を持っている。もしかしたら、もうその線から情報が入っていたのかもしれない」
そこには、ルルエからの使者が二人いた事。タニスの最初の使者が行方知れずなままであることが書かれている。つまり、ルルエからの親書は二通、内一通は届いていない。そしてタニスの最初の親書が届いたかが未だ分からない。
帰ってこない事を不審に思い探させてはいた。だが敵国の内部では思うように間者も動けない。ルルエに消されたのかと思っていたが、この情報で分からなくなった。もしかしたら、ルルエ王も最初の親書の事を知らないままなのではないかと。
「これが事実だとすれば、誰かが意図的に王の親書を掠め取った事になる」
「そしてルルエ王もこちらの最初の親書を受け取っていないばかりか、使者が出された事すらも知らない可能性が出てくる」
「信憑性はどのくらいだ、クレメンス」
「高い、とだけ。まだ正確な事は何も分かっていない。だが、この情報をどこからか陛下が入手していたならば、この砦を無理を押して落とした事も、自身が最初に砦に入るように作戦を譲らなかった事も、扉を開けるまでに時間がかかった事も説明できる」
グリフィスが一気に酒を食らう。空になったグラスにもう一度酒を注ぎ足し、それも一気に飲み干した。そして深呼吸をし、唸るように口にした。
「では、なんだ? 陛下はこの情報をどこからか入手し、対話での解決が可能かもしれないと考え、戦いを強制的に長期間停止させる為にあえて危険を侵して侵入し、橋を落としたと?」
「あの方の性格なら考えうる。あくまでも平和的な解決を望んでいた陛下だ、可能性が見えれば無理もするだろう」
「だが、それなら言ってもらえれば」
「情報の出所を言えない。もしくは信憑性も確信もない段階では我らが訝しむと思い、言えなかった」
この発言には自信がある。クレメンスもにわかには信じられなかった。特に、ルルエの使者が二人いたことについては。
正直、今も半信半疑だ。何の証拠も出てきてはいないし、託された親書がどのような内容だったかもわからない。ただ、ルルエ王という人物像から考えられる予測では安易に戦いを望むものではなかっただろう。
「リゴット砦の橋が落ち、数か月から半年という猶予が出来た。陛下はきっと国内の掃除を始めるのだろう」
クレメンスはそう言って、グラスの酒を覗き込む。実に情けない顔をした自身が映る。それはそのまま、心境だった。
「現在の家臣団は陛下を良くは思っていないだろうし、ルルエとの戦も支持している。加えて奴らの横暴を許せば民が苦しみ、それは徐々に陛下への不信に繋がるだろう。陛下が国内を掌握するにしても、現家臣団の力を削がなければ」
「だが、陛下が直接そこに介入すれば抵抗も反発も強くなるだろ。何より奴らがそう簡単に尻尾を出すとは思えない。血の粛清などすれば、息を潜めている穏健派や
グリフィスの言葉は実に理にかなっている。狸は簡単に尻尾など出さないだろうし、ユリエル自身が動けば警戒する。血の粛清などもってのほかだ。
だがこれは、ユリエル自身が理解しているだろう。こんな事にも気づかぬアホな主を持った覚えはない。
「俺にもそれはまだ分からない。今は見守るとしよう。我らが焦った所でどうにかなる話ではない」
クレメンスは既に覚悟を決めていた。元より仕えると決めたならば主は一人と決めていた。ユリエルは扱いづらい主ではある。警戒心が強く秘密が多い。だが、人を大切にし、誠実な主だ。例え身分の差があっても交わした約束を反故にすることはない。そういう人だ。
酒に映る自身の像をクレメンスは一気に飲み干す。それは、惑う自分を一掃するような気持ちの現れであった。