馬車が到着したのは村から少し離れた屋敷だった。屋敷と言っても草は伸び放題で荒れ果て、修繕もできていない。人の気配もなく、寂しい廃屋のようだった。
「ここ、ですか?」
あまりの状態に思わず言ってしまったシリルは、無礼に気づいて口をつぐむ。だが、イネスは軽く笑ってフラフラしながら歩き出した。
「本当に有り難うございました。何もありませんが、よろしければ今夜は泊まっていってください」
二人は顔を見合わせる。そして、少しでも状況が分かればとお言葉に甘える事にした。
扉を叩くと内側から音を立てて開いた。そうして現れた青年は、イネスとはあまり似ていなかった。
短めの黒髪に、黒い切れ長の瞳。細いがしなやかで、イネスよりも状態は良さそうだ。服は紺。おそらく領地役人だ。
「誰だ」
鋭い眼光でシリルとレヴィンを見た青年にイネスが歩み寄り、事情を説明している。その間、レヴィンは青年から視線をそらさなかった。
程なくして青年が歩み寄ってくる。シリルは姿勢を正して青年と向き直った。
「イネスが世話になった。俺は兄のヒューイだ。本当に何もないが、泊まっていくといい」
「助かるよ。このままだと本当に野宿だったからね」
調子よくレヴィンが旅人のふりをして話しかける。村を出れば馬車もあり、食べ物にも不自由はしないのにそんな事は全く臭わせない。そんな彼を見て、シリルは内心苦笑した。
「野宿は辞めた方がいいな。村の状態を見ただろ? 馬だって無防備に繋げば数時間で骨も残らない。お前達も追い剥ぎに遭うぞ」
はっきり言って笑えない話だった。
「外で話すのもなんだ、中に。イネス、お前は少し休め」
二人を案内しつつ、ヒューイは弟へ声を投げる。少し不満そうにしていたイネスだが、ヒューイに睨まれると渋々頭を下げて歩き出していった。
「弟は無理をしたがるから、いつか倒れるのではないかと思っていた。あそこで倒れていたらそれこそ身ぐるみ剥がされていた。食べず眠らず、それで体が保つはずがない」
「そんなにかい? まぁ、確かに不憫な感じはしたけれど」
イネスが居なくなった途端にこれだ。シリルは溜息をつく。確かに可哀想だとは思った。寝ていないのも感じていた。けれどシリルはこの状況を現実の物と受け止めきれずにいた。あまりに酷くて。
「上は戦争ばかりで重税を強いるからな。所詮、国民など働き蟻程度にしか思っていないのだろう」
ダイニングの木製椅子に腰をどっかりと下ろしたヒューイは、重々しくそんな事を漏らす。それにシリルは反発した。したかった。咄嗟に「兄はそんな人ではない」と言いたかった。
だが側に居たレヴィンがその口を無理矢理塞いだ。
「そうなのかい? 税金は取れ高の四割って他で聞いたけれど」
「四割? いや、八割だと言われて取られたが」
ヒューイが目を丸くして言う。たぶん、本当に知らないのだろう。それでも驚きは一瞬で、次には納得したような顔をする。暗く笑う姿は胸を締め付けた。
「通達は、いつも領主がしているのか?」
「あぁ。だが、どちらにしても上の役人は国民を見ていない」
「そんな事はないです!」
やっと解放されたシリルが必死に伝えようとする。兄はそんな人ではないと。
だが、向き合ったヒューイの目を見たら言葉は声にならなかった。
「同じだ、どんな主も。どんな王が据えられても民の生活が変わる事はない。犠牲になり、苦しんで死んでゆくのはいつも弱い奴らだ。隅々まで目が行かないのなら、どんな王でも暴君だ」
それは悲しく、重く、そして変えられない思いに聞こえた。ユリエルはとても大変な思いをしながら国を動かそうとしている。でも所詮は人間だから、広い国の隅々まで、民に起こっている事の全てまでは見えない。神様ではないのだから。
隣のレヴィンが頭を撫でる。見上げると、真剣で悲しそうな目をしていた。
「こんなに村が貧困に苦しんでるのに、領主は何もしないのかい?」
レヴィンが静けさに石を投げる。それは見えない波紋のようにその場にいる人に広がっていく。ヒューイが顔を上げ、何かを言いたげにしながらも口をつぐんだ。
「実は明日、トインに行こうと思ってるんだ。とある人のお使いを頼まれててさ。そこの領主に書簡を届ける途中なんだよ」
「レヴィンさん!」
ヒューイが目を丸くして、胡散臭そうにレヴィンを見ている。示し合わせて使者という事を隠そうと話していたのに、あっさり言ってしまった。驚いてオロオロしてしまう。何を考えているのか分からずに、シリルはただ見守るしかなかった。
「旅人にしては身なりがいいと思ったが、そういうことか」
「あの村で一泊して行く予定だったんだけど、無理そうだったからね。一日泊めてくれると嬉しいんだけど」
「そのつもりだと言ったはずだ。二階の部屋は全て空いている。好きに使って構わない」
礼を言って、レヴィンはシリルを二階へと促す。退室する前、シリルは残されたヒューイを見た。腕を組んで考え込む姿は、先が見えずに苦しんでいるようだった。