「どうした?」
レヴィンは苦笑しているようだった。彼が恐れたように表情を凍らせ、動きを止めた理由を知っているように。
「あぁ、ううん。服はダメだから、これ羽織っていって」
傷を手早く縛り、厚手の外套を背中に掛けるように手渡したアルクースに、レヴィンは人らしい苦い表情をする。そして小さく「有り難う」と呟いた。
「馬は俺のを使え。荒馬だが、お前なら大丈夫だろう。速さは保証する」
「助かる」
一言残し軽やかに跨がり、レヴィンはさっさと夜に消えていく。
残されたアルクースは、彼の姿が見えなくなってようやく息を深く吐いた。そしてそのまま自身を抱いて、地にへたりこんだ。
「どうした、アルクース? 変だぞお前」
不審げにかがみ込んで問いかけるファルハードに、アルクースは視線を向けてとても短く、その忌まわしい名を口にした。
「……天使だ」
「はぁ?」
「レヴィンは、天使だった」
その場が一瞬静まりかえり、空気が凍るようにヒューイは感じた。短い言葉はとても如実に忌みを示す。それはとっくに世間から消された存在のはずだ。あまりに不気味で、あまりに暗い事実を含むそれが三人の中に広がっていく。
「天使って、全員死んだんじゃねーのかよ」
「見たんだよ! 背中に羽の刺青があった。しかも全体だ! ナンバーも」
「羽は、何枚だったんです?」
ヒューイの問いに、アルクースは冷静になり、次には見る間に目を丸くして震えた。
「六枚……」
「最悪だ」
六枚の羽を持つ天使の意味は、相当に重い罪と悲しみを含む。彼ら三人は夜に消えていった人物の後を、なかなか追うことができなかった。
▼シリル
その頃、シリルも試練の時をひたすらに耐えていた。
「いい加減、首を縦に振ってもいいではありませんか。一つこの書面にサインしてくれればそれで済むのですよ?」
ブノワは数人の男と、地下に作った秘密の部屋にシリルを連れ込み、締め上げてその背や腹を蹴りつけている。シリルが頑として、ブノワの持つ書類に署名をしないからだった。
書類にはこう書かれている。
『私、シリル・ハーディングはトイン領ブノワ・ウヴレスの娘アイリーンと婚姻を結び、正妃とすることをここに誓う』
これに署名することは、婚姻の契約を結ぶのと同じだ。それだけはできなかった。署名すれば、この男は正妃の父。こんな男に権力を握らせる事になる。そんなこと、死んでもご免だ。
椅子に括り付けられ、足も腕も縛り上げられた状態でテーブルの前にいる。頬にも痣ができ、見えない体はより酷かった。そこは鈍い痛みを持ってシリルを苦しめたが、これに屈するほど弱くはない。シリルは眼前の男を睨み付けた。
「何度強要されても、僕はそれに署名などしない」
言うなり、強い力で頬を叩かれる。口の中に血の味が広がった。
「強情は身を滅ぼしますよ、シリル殿下。大体、うちの娘のどこが悪いと。器量もよいですぞ」
「貴方はそれでも人の親か! 自分の娘を思い人から引き離し、政略結婚などという不誠実な婚姻を結ばせようなど。彼女の人生は、貴方のものではないんだぞ!」
「何だと!」
禿げた赤ら顔を更に赤くしたブノワが、シリルを括り付けた椅子ごと蹴り倒す。床に派手な音を立てて転がったシリルは、そのまま強く蹴りつけられて何度も咳き込んだ。
「子供が、分かったような事を言うな! 大体、生意気なんだよお前達兄弟は! いいか、子供は大人の言うことに大人しく従っていればいいんだ! それを、人生だと! そんなもの、一族の繁栄のためには取るに足りないちっぽけなものだ!」
その言葉に、シリルの中で何かが切れた。切れて、妙に世界がゆっくりになっていく。血が上っているのにカッとはならなくて、とても静かに全てを踏みつけられる気がした。そして、とても静かにブノワを睨み上げた。
「殺すなら、殺せばいい。僕は決して、それに署名することはない」
静かに言う言葉には不思議な響きと威圧感があった。ブノワは怯む。一回り以上も子供の凄みに負けたのだ。
シリルは続ける。それはここに出てきた時にもした覚悟。そして、兄を見て感じたものだった。
「僕がここにいることは周知の事。そこで僕が不審な死を遂げれば、お前に疑いの目はゆく。元々、兄はお前が税を横領していると疑っていた。だからこそ僕をここに向かわせたんだ。この僕ですら謀れなかったお前が、兄を謀る事は不可能。僕はこの命で、お前を処刑場へと送る事ができる」
「そんな……そんなはったりを!」
「はったりかどうかは身をもって知るがいい。兄はお前を決して許さない。僕が受けた以上の苦しみをお前に与え罪を明かすだろう。お前の首は国民全ての前に晒される」
これは揺らがない確信。ユリエルがシリルをここに向かわせた理由は、そこにもあったのだろう。正当な王家の人間が突然死んだり姿を消したら、それを追及するのが普通。そうなれば、こんな浅はかな男の悪巧みは全て暴かれる。上手くすればそこから他も釣れるかもしれない。それを、ユリエルは考えていたのではないか。
所詮シリルも国のため、ユリエルの駒でしかない。それでも、シリルは恨む気持ちはなかった。むしろ幸せだった。初めて必要とされたのだから。
「さぁ、どうする?」
たたみかけるようにシリルはブノワを見る。ブノワの顔が赤くなったり青くなったりしている。既にお粗末な脳みそは判断能力を欠いているだろう。
後は、愛しい人に全てを託すしかない。信じて、待つことしか。