その時、遠くの方で悲鳴が上がった。
聞こえた騒々しさに、シリルは安堵した。逆にブノワは焦っただろう。真っ青な顔で背後を見たりシリルを見たり。そして、何を思ったか腰の剣を抜き去り、シリルを椅子ごと羽交い締めにするとその首に剣を突きつけてきた。
悲鳴が上がる。ゆらりと影のように、その人は全身を赤く染め上げている。その姿に、安堵と同時に苦しみが沸いてくる。まるで修羅のような姿。彼をこうさせているのが自分だと思うと、どうにも胸のあたりが苦しい。
もしや怪我などしていないだろうか。それも思うと、どうにもならない無力さと罪に心が痛んだ。
「シリル」
「くるなぁぁ!」
錯乱したブノワはレヴィンを睨み付けて悲鳴のような甲高い声を上げた。そのヒステリックな声が上がるたび、シリルの首は僅かに絞められる。苦しくて咳をすると、レヴィンの整った眉がピクリと上がった。
「それ以上、おおおおっ俺に近づくな! 俺は領主だぞ! お前のような下賤の者が近づいていいような身分ではないんだぞ!」
近づくヒヤリとした死神の鎌に、ブノワは敏感に反応したのかもしれない。シリルを盾に決して離そうとはしない。だがレヴィンの瞳は冷たく凍るばかりで、一歩ずつゆっくりとその距離をつめていく。
「くるな!」
「レヴィンさん!」
強い意志を持ってシリルはレヴィンの名を呼んだ。自分の身など顧みる必要はないと、シリルはレヴィンに伝えようとした。
だがレヴィンはゆっくりと近づくばかりで手を上げようとしない。だがその口元には、薄い笑みが浮かんでいた。
「お前は今、蜘蛛に睨まれた獲物だ。餌ごときが、ごちゃごちゃと喚くな」
「何を言っている!」
レヴィンの口元の笑みはますます深まる。そしておもむろに、手を軽く上へ上げた。
「うわぁぁ!」
シリルを捕らえていた腕が、まるで見えない糸にでも操られたように離れた。途端に床に転がったシリルは、その目の端に僅かに光るものを見つけてレヴィンを見た。
「よくも、俺のシリルにこんな酷い真似をしてくれたな。後悔はあの世でしろ!」
「まっ、まて! ひぎぃぃぃぃ!」
細いものがブノワの首を締め上げた。それは上へと引き上げられ、ブノワの首を吊る。じたばたと暴れるブノワは、何が自分を吊り上げているのか分からないだろう。だが下から見上げるシリルには見えていた。首に絡む可視できるギリギリの、細いワイヤーの存在を。
レヴィンの腕に繋がっているそれを、彼は軽い調子で弾いた。
「!」
ぼとりと、ブノワの首が動けないシリルの前に転がった。恐怖に悲鳴すら上げられない。目を剥いた中年男の首が苦痛と恐怖に歪み、恨めしい視線をシリルに向けている。それはとても恐ろしく、目をそらしてみっともなく取り乱しそうな状況だった。
「シリル!」
はっきりと温度を感じる声が名を呼んで、意識がそれる。レヴィンは駆け寄ってきて、縛られた体を解放してくれた。そしてそのまま、強く抱きしめられた。
レヴィンの体は震えていた。かき抱くように抱かれ、離さないと力がこもる。ほんの少し苦しかったけれど、妙に安堵していた。
「馬鹿野郎! だから言っただろ、危ないから俺から離れるなって!」
「レヴィンさん」
おずおずと背中に手を回す。外套を纏う背は、しっとりと濡れていた。そしてその手は、薄く赤く染まった。
「レヴィンさん、怪我してる!」
「大丈夫、このくらい。それより痛くないか? 苦しいとかないか?」
「何を言っているんです! 貴方の方が酷いじゃないですか! それに、背中だけじゃ」
シリルの体がゆっくりと赤く染まっていく。だから、彼が怪我をしているのだと分かった。痛いはずなのに、レヴィンはやんわりと安心したように微笑み、大事そうにシリルを抱きしめている。
「レヴィン!」
「ヒューイさん!」
部屋の戸口で声がして、シリルは助けを求めるように声を上げる。とっ、すぐにヒューイが走ってきてくれて、傷ついたレヴィンを抱え上げた。
「お前は無理をしすぎだ! いいか、少し大人しくしろ」
「なんだと!」
「レヴィンさん、お願いします!」
心配なシリルも強くたしなめる。それでようやく、レヴィンは言うことを聞いてくれるようになった。
ヒューイに抱え上げられる状態で運ばれるレヴィンの側に、シリルもついた。なかなか握った手を離さない彼はそれでも、とても安心したような顔をして、徐々に瞳を閉じていった。