そこは暗く、重たい陰鬱な場所だった。冷たい床に布団が四組ある。天井が高く、窓もないくせにご丁寧に格子がはめられている。
ここに心はなかった。何かを思ってはいけなかった。それは無駄に苦しみを助長させるだけで、生きていけなくなる。だからまず覚えることは、思考回路を遮断し、感情を捨てる事だった。
「あいつ、帰ってこなかったな」
同室のグランが小さく呟いた。それに反応するのも億劫で蹲る。四組ある布団で眠るのは、今や三人だけになった。
「レヴィン、羽は何枚になったの?」
同室のフェリスが問いかける。虚ろながらも微笑を彼女は浮かべていた。ここにきてまだ表情があるのだから、彼女は精神的に強い。
「六枚」
抑揚のない声で言う。無表情が一番楽だし、感情らしい感情なんてもう捨てた。いや、元々持っていなかったのかもしれない。与えられる前に捨てられてしまった。
「私も、六枚になったの。グランも六枚だから、三人とも大天使だよ」
「そう」
それがどうした。そんなもの、何に誇る事ができる。むしろ忌むべき、悲しむべきことじゃないか。
「だからね」
彼女はなおも話を続ける。今日はよく話す。いつもなら会話らしい会話なんてない。しても辛いだけだ。捨てたはずの感情に、ほんの少し響くから。
「レヴィン、グラン、ここを壊して、一緒に出よう?」
その言葉を、今でも鮮明に覚えている。
◆◇◆
目が覚めたのは薄暗い部屋だった。一瞬、あの日がフラッシュバックする。僅かな頭痛がしてクラクラする。それでも、今が現実だと確信できた。手を握ってくれる温かな手があるから。
「レヴィンさん、大丈夫ですか?」
「シリル……」
心配そうな顔が覗き込んでくる。汚れなど無縁な少年は、反応の薄いレヴィンを心配するように瞳を細め、顔を近づけてくる。
「大丈夫ですか? うなされていたみたいで、直ぐに起こしたんですが」
「あぁ」
大丈夫、とは言い切れなかった。忘れていたものが血の臭いに引きずられて出てきた。途端に罪悪感に押しつぶされる。今こうしているのが不相応に思えてならなかった。
「レヴィンさん?」
「シリル」
起き上がり、戸惑っているシリルの体を抱きしめる。強く、離さないように。
「しばらく、このままで。今だけでいいから、お願い……」
みっともなく震えているだろう。罪の恐ろしさに足元をすくわれそうな予感がした。そんな手で触れる自分が許せなかった。でも、今のレヴィンを引き留めてくれるようで、この体を離すことができなかった。
察してくれたのか、哀れんだのか。シリルも背中に手を回して抱きしめてくれる。許されるなら、ここで全ての罪を泣いて詫びたい。抱える全てを曝け出してしまいたい。でもそれは恐ろしい。嘘をついて側にいることを選んだのだから。全てを知ったら離れて行ってしまうと、確信があったから。
どのくらいそうしていただろう。やっと精神的にも落ち着いたレヴィンはシリルの体を離すことができた。その後は、恥ずかしく笑うしかない。どうにかこの場をやり過ごそうとぼやける思考を回転させて、レヴィンはもう一度ベッドに体を埋めた。
「ごめん、驚いた?」
「あの……はい」
「嫌な夢を見てさ。それで、ちょっと。子供みたいかな?」
自嘲気味に笑い、レヴィンは顔を隠す。片手で目元を隠して、口元だけを見せて。これでどのくらい嘘がつけるだろうか。
「ごめんね、シリル」
「何がですか?」
「怖い思い、したでしょ」
そう言った途端に歪んだシリルの表情がなによりの証拠だ。それでも受け入れてくれるのか、シリルは真っ直ぐに見て首を横に振った。
「そうさせたのは僕です。貴方はああせざるを得なかった。だから、貴方がそんな顔をする必要はないんです」
くしゃりと歪んだ表情は、今にも泣いてしまいそうだった。恐る恐る手を伸ばして、柔らかな髪を撫でる。
謝るのはレヴィンだった。間に合わず、痛々しい傷をつけた。冷静になれずに、凄惨な光景を見せてしまった。それでも受け入れようとしてくれるこの子に、今苦しそうな顔をさせている。
「シリルは悪くないでしょ。手を下したのは俺なんだ。だから、そんな顔しないで」
「言ったじゃないですか、そうさせたのは僕だって。僕に罪がないわけがない。レヴィンさんは、少し自分を虐めすぎです」
「いや、シリル」
「レヴィンさん!」
きつい口調で言葉を遮られた。こんなシリルは初めてかもしれない。目が怒っている。でも与えられたのは、温かく柔らかな抱擁だった。
「もう少し、他人を責めて下さい。僕を叱って。無謀な事をしたんだと。無茶をしたからだと。貴方は優しすぎます」
押し殺した声音のシリルは、ほんの少し震えていた。その体を抱きしめて、レヴィンは深く瞳を閉じた。
「好きな子には、怪我なんてさせたくない。傷ついてほしくない。優しいシリルを、俺は失いたくない。その為なら何だってするんだよ。でも今回、俺はシリルに沢山怪我をさせて、怖い思いもさせた。自分が情けなくて、どうしようもなく腹が立つ」
「違う」
「俺の中ではそうなの」
「僕は、謝りたかったのに」
「ごめんなさいより、怒ってもらいたい。そうじゃないなら、有り難うがいい」
薄らと涙を浮かべる少年の、頼りない瞳が揺れている。レヴィンはその唇に触れた。やんわりと、言葉に乗せられないものを乗せて。シリルもそれに応じて瞳を閉じた。長い睫毛が違う意味で震えている。だからレヴィンは体を押し返した。