シリル殿下は他に甘い。父の言葉を借りるなら、そう言うだろう。だがアデルはそうは思っていない。純粋で、優しいのだろうと思う。他者への優しさを忘れたような父とはまったく違う。
だからこそ、父の行いが正しいとは思えなかった。レヴィンの事だ。
二人の関係がどうなのかは分からない。だが、少なくとも主と従者という関係ではないだろう。シリルはレヴィンを大切にしていたし、レヴィンはシリルを労っていた。少し甘く、悩ましそうに。
父はこの関係を危険視している。シリルが一線を越える事を懸念している。ついでに言うと、上下の関係が曖昧になる事を嫌っている。自分はまるで王の様に振る舞うのに。
湯も借りて、少し落ち着いた。正直に言えば居心地が悪い。優しい少年に嘘をつき、大切な者を引き離したのだから当然だ。だが、それを言っても変わらないだろう。父はあいつを返すつもりはない。間違いが起こってはならないと言って。
秘密の部屋に捉えたまま、死ぬまでそこだ。窓もない地下の部屋は陰鬱で、アデルには恐怖でしかない。子供の頃、分からない事を言うとあそこに閉じ込められて一夜を過ごした。泣き叫んでも声は届かない、そんな場所だ。精神的に滅入るだろう。
アデルに自由はない。ずっと、見えない枷に魂を縛られている。逆らう事など虚しく、自由などない。職業も、おそらく妻もいいなりになるだろう。これは予想ではなく、近い未来だ。
「止めるか……」
考えれば沈む。今はつかの間の自由だ。初めてだ、自分の意志で決断したのは。本当は直ぐに次の目的地に向かうはずだった。
だが、心を砕いた相手に直接祝賀を贈りたいというシリルの心に、アデルは動かされた。とても良い主だ。とても、優しい人だ。
コンコン
ドアを叩く音に、アデルは視線を向けて扉を開けた。そして、そこに立っていた人物に首を傾げた。
「ヒューイ殿?」
「すまない、こんな時間に。もう、休まれるか?」
アデルは素直に首を横に振った。
トイン領の新しい領主は年も同じくらいで親しみやすい。以前は知らないが、今は自信を得て真っ直ぐに立ち、瞳に確かな未来を映しているようだ。初めて会ったが、好印象を受けた。
「実は、貴殿の話を少し伺いたくて」
「俺の?」
「あぁ。俺はこの領を任されてあまりに日が浅い。だがゆくゆくはジュゼット領のように人々が安心して、笑顔で暮らせる場所にしたいと思っている。そこで、貴殿の話に学ぶものがあるのではと思ったのだが」
穏やかに言われたが、アデルはそれに暗い顔をした。確かに領地の仕事はしている。だが、教えられるものなどあるのだろうか。確かにジュゼット領は表面的には穏やかで笑顔溢れる場所だ。住んでいる民は受ける恩恵と就労の喜びに疑いを持っていない。
だが、この青年が父のような人間になってしまうのだけは避けたい。あのように、人の心を利用して他者を傀儡にするような人物には、なってもらいたくないのだ。
「俺に語れる事など」
「アデル殿、それほど気負うことなどない。ほんの少し、雑談で構わない。なにせ分からない事や悩ましい事が多いのだ」
熱心に言われると断りづらい。真面目に考えている人への不親切はアデルも好まない。悩んだ後に頷いた。
「それでは、談話室に行こう。温かな茶を用意している」
「すみません」
そう言って招かれるまま、アデルは談話室へと場所を移した。
談話室に一歩踏み出す。その瞬間に、アデルは腕を取られて強引に引き倒された。驚いて見上げると体格のいい男が腕を捻り上げて背に乗っている。とても簡単に動けるものではない。
その後ろでヒューイが扉を閉め、鍵をかけた。
「これはどういうことだ!」
「僕がお呼びしました」
冷たく冷えるような抑揚のない声がする。アデルは月光を背にした少年を見上げた。彼といた時には輝くような新緑の瞳が、今は濁り曇り輝きを失っている。それでも見下ろす口元は笑っていた。
「アデルさん、お聞きします。レヴィンさんはどこですか?」
「!」
ゾクリと冷たいものが背を伝う。シリルはゆっくりと近づいてくる。その表情に感情が見えないから、怖かった。
「俺は何も」
「……そうですか」
言うと、シリルは剣を抜いて目の前に突き立てる。月光が銀の刃を残酷に煌めかせた。
「脅しだと思いますか?」
思わない。いや、思えない。鮮やかな笑みに濁る瞳が嘘を言っていない。狂っている、そうは思う。だが、狂わせたのは自分であり父だ。
「殿下、あんまりおっかない事しないでよ。レヴィン泣くよ?」
横合いからまた違う男が出てきた。黒髪の目鼻立ちの整った男は、少し気の毒そうにアデルを見ている。
「僕は、レヴィンさんを取り戻します。その為ならどんな手だって使ってみせる。騙すことも、壊す事もいとわない。あの人が、僕の大切な人なんです」
「それは分かっているが……」
ヒューイが現れて、アデルを気の毒に見ている。だが、奥には自らが招いた事だという様子も窺えた。
「なぜ」
「協力するのか? 当たり前だろ、二人は恩人だ。大体、玄関開けた時からおかしいのは分かってたんだ。あの男が例え主の命令だからって、シリル殿下の側を離れるものか。なんだかんだ理由をつけて絶対に拒むんだよ。二人を知っていれば、そんなの当たり前なんだ」
さも当然という様子で言ってのけたヒューイに、背に乗っている男も頷いた。