その夜、シリルはレヴィンが来るのを待っていた。いつも以上に入念に体を磨き上げ、湯に温まった体はホカホカとしている。ローブだけを着て所在なく座っていると、コンコンと静かにドアがノックされた。
ドアを開けた先にレヴィンはいた。白いほっそりとしたローブに、まだ湿り気のある赤い髪。紫色の瞳は普段の鋭さが抜けている。
「いいかな?」
「はい、どうぞ」
招き入れ、ドアを閉める。この部屋にレヴィンを招いたのは初めてだ。ここは精々ユリエルがくるぐらいだった。
室内を見回して、レヴィンも落ち着かなくしている。柔らかな緑の天涯のついたベッドに、テーブルセット。そこに、お酒を用意していた。
「飲みますか?」
「あぁ、えっと……いや」
ビクッと体を震わせたけれど、レヴィンはその誘いを断った。
ゆっくりと、シリルは距離をつめる。そしてその胸に顔を埋めた。
「先に、聞いてもいいですか?」
「なに?」
「まだ、僕の事が好きですか?」
聞かずにはいられなかった。レヴィンがシリルを好きだと言った時からシリルは変わった。綺麗な人間ではなくなった。人の……彼の友人の命を奪った。沢山の感情を知ったけれど、いい感情ではないと思う。
背中に、そっと手が添えられる。緩く抱き寄せられる、これがこの人の優しさ。決して強引ではないし、押しつけない。少しもどかしいこの人の優しさだ。
「好きだよ」
「僕は綺麗じゃなくなりました。誰かを憎む心を知りました。貴方の事となると、僕は誰も許せません。貴方なくして世界が成り立ちません。依存しています。これは、綺麗な事ではありません。貴方の好きになった僕ではなくなっています」
「そうだね」
「それに、僕はグランさんを……貴方の友人を殺しました。本人が望み、皆が許してくれたことでも事実に変わりはありません。この手も、綺麗ではありません。貴方が最後まで拒んだ事を、僕はしました。それでも、好きでいてくれますか?」
聞いておかなくては怖かった。有耶無耶にはできなかった。好きだからこそ、これを無視できない。好きでいてもらいたい。でも、強要できるものじゃないし、そんな事をしたら崩れてしまう。
レヴィンはゆっくりと瞬いて、頷いた。
「好きだよ」
「惰性じゃありませんよね?」
「違う」
「……」
ジッと見つめてしまう。まだ、不安がある。言わせている気がするのだ。
レヴィンが真剣な目で、そっとベッドまでシリルの手を引いた。そして、たっぷりと思案するような顔で話し始めた。
「確かに、綺麗なままでと思っていた。けれど、穢れを嫌ったわけじゃない」
「いいんですか?」
「いいよ。シリルには圧倒的に負の感情が足りなかったし。それに、少しだけ嬉しくもあるかな。俺に対して、そんなにも独占欲を出してくれるのは」
やんわりと頭を撫でていくその瞳は、大好きな優しいものだ。甘えて、腕にもたれかかる。
「それと、グランの事もいいんだ。あいつはそれを望んでいた」
「人殺しですよ」
「誰に向かって言ってるの? それ、ちょっと傷つく。シリルの数百倍、俺は誰かの命を奪ってきたんだよ」
そう言われると少し困る。自分の穢れに気を取られて、この人の痛みを見失ったみたいに振る舞ってしまうことを後悔した。
「それとね、少しだけグランが羨ましいかな」
「羨ましい?」
「うん。治療はしてるけど、俺だってどうなるか分からない。その時、シリルは俺の事も終わらせてくれるのかなって」
「え?」
考えていなかったことに胸が痛む。不安なままに心臓が痛くなってきた。
「終わらせて、看取ってもらいたいな。なんて、ダメな事を考えている。大事な人に預けてしまえるのは、終わりの見える奴からすると魅力的なんだ。泣いてくれる人がいるのは……覚えていてもらえるのは嬉しい。生きててよかったなって、思えるんだ」
こんな話を聞きたくなかった。不安で苦しくなる。でも、向き合っていかなければいけない事でもあった。レヴィンの治療は手探りだ。この後、まだ戦いはある。ルーカスの問題はまだ終わっていない。いや、戦なんてなくてもこの人の体がどこまで耐えてくれるかなんて誰も……本人も分からないんだ。
「ごめんね、苦しい話をして。どうしても言っておきたかった。知られたなら、覚悟してほしい。頑張るし、抗っていくけれど、それも限界があるから」
「……っ」
「ん?」
「貴方の最後を、ちゃんと看取ります……。笑って……幸せでしたって言って……忘れずにずっといられるように……寂しくないようにするから……」
ヒクリと胸が上下する。ギュッと手を握って、それでも流れた涙を抑えられなかった。
嫌だ、終わりなんて。嫌だ、別れなんて。置いていかれるくらいなら一緒にいたい。でも……それをこの人は望んでいない。何より生きていないと、この人の事を覚えていないと。
「長生きして、もらいます……うっ……一緒にいてください、死ぬなんて言わないでください……ひっく……ふぅ……嫌です、思い出だけなんて……長くいてください」
「シリル」
「生きるんです、ずっと……貴方が僕の前からいなくなっても、ずっと連れていきます……僕の中でずっと、生きていてもらうけれど……でも触れられないのは苦しいです。話せないのは苦しいです! 一緒にいてくれないと苦しくて息ができません。いてくれないと困るのに、そんな事を先に言わないで。まだ覚悟なんて出来ません! 僕はまだ、そんなに大人じゃありません! 心から愛してる人の終わりなんて、まだ見つめられるほど大人じゃないんです!」
ダメだった。大人な答えは導ける。でもできない。苦しくて悲しくて、終わる日なんて受け入れられない。側にいて、話をして、触れあっていたい。思い出と心の中だけなんて耐えられない。
そっと、頬に手が触れた。重なった唇は熱くて、とても優しかった。
「ごめん」
「謝らないでください」
「ごめんね」
「レヴィンさん」
「……死なないよ。死ねないでしょ、こんなに言われたら。俺だって、残してなんて行けないよ。死にきれないよ。分かるかな? 俺だって必死だよ。こんなに色んな事に抗う事なんて、初めてなんだよ?」
小さく笑った人が、大きな手で頬を拭ってくれる。溢れ出るものを、拭って温めてくれる。
「諦め癖のついてる俺が、シリルのことだけは諦められない。目に見えないものに、今必死に抗ってる。いい大人がみっともなく縋り付いているんだ。約束する、諦める事だけはしない。最後までかっこ悪くてもあがくから、側にいて。辛い時は辛いって言う。苦しい時はちゃんと、苦しいって言うから」
「約束ですよ」
「あぁ、約束。そのかわり、見捨てないでよ?」
「見捨てません」
「俺、泣くかもよ」
「一緒に泣きます」
「……好きだよ、シリル。一緒に生きてくれるかな?」
「勿論、喜んで。僕の全部は貴方のものです」
やっと、吐き出したかったものを吐き出した。レヴィンも言いたい事を言えたのか、すっきりとした笑みで抱き上げて、覆うようなキスをくれる。触れただけのそれは、徐々に深さを増していった。