初夏の風が中庭に入り込んだのか、可愛らしい少女のふわふわとした金髪を救い上げれば、一緒にいた青年がそっと髪に触れる。
淡い空の青が光を反射しながら青年を見上げ、二人して微笑み合った。
令嬢の髪が淡い春の日差しであれば、青年の髪は夏の向日葵を思わせる黄金だ。
瞳も力強さを宿した海の青。
さながら一枚の絵だった。
22歳の誕生日を迎えたばかりという、まだまだ若い王が治めるシュトラヴェルグの統治は最初の混乱を抜けて軌道に乗り始めている。
そんな将来有望な若き王との縁故を求めて他国から持ち込まれたのは、縁談をという親書を携えた年頃の合った王女殿下。
若者達の仲睦まじい様子に、誰もがお似合いだと口を揃えて言うだろう。
執務室の窓から見下ろしていたディートリンデも同じ感想を抱き、眼鏡を外して眉間を指先で軽く解す。
そうしてから本日分の公務を終わらせなければと窓から離れた。
黙々と働き続ける文官や執務官達と机を並べた席に戻り、そうしてから生家から連れてきていた侍女のミアに声をかける。
音も無くディートリンデの傍に立ったミアを待たせ、飾りのない真っ白な便箋に必要なことを一行だけ。
『そろそろお暇を』
これだけでも父になら十分に伝わるだろうと、便箋と同じように無機質なまでに白い封筒に入れ、そつなく蜜蝋を用意してくれたミアにお礼を言って封をする。
封筒に押したのは王家の紋章ではなく、生家であるシュタウゼン侯爵家の家紋だ。
ミアが少しだけ封筒を見つめながら「荷物は急ぎまとめ始めてよろしいでしょうか」と尋ねるのに対して、頷くだけに留めれども、途端にディートリンデの周囲で沸いた声は大きく分かれた。
歓喜と嘆きの二種だ。
喜ぶ者は手にした法令書や帳簿を放り出し、嘆く者は机に突っ伏して呻き声が漏れている。
その喜びと嘆きの種類も細分化されるのだが、もはやディートリンデが気にすることではない。
こうなることは六年前から決まっていたのだから。
***
ディートリンデはこの国の側妃である。
別に若き国王陛下から望まれたわけではない、形ばかりの妃ではあるが。
国の危機的状況ゆえの消去法で選ばれた、内政が滞りなく進められるように形式ばかりの権限を持つためだ。
王家への忠誠心というよりは自身の立場を良く理解し、最善の手を選べる宰相であったディートリンデの父親が年若い少年王の後見役となるため、政略によって結ばれた婚姻相手でしかない。
急ぎ婚姻が進められた当時は、王位継承権争いは類を見ないほどの熾烈なものとなり、第一王子の毒殺を発端に正妃や側妃、果ては血縁関係である公爵家の尽くまでもが命を落としていった後のこと。
最終的には第三王子であったヴィルフリートを次の王と指名して、前国王陛下が世を儚んで自害されたのは、既に成人を迎えていたディートリンデでも衝撃的なことだった。
ただ一人の王族として残されたヴィルフリートも当時は御年16歳。
争いの種とならないように王太子教育を受けることはなく、王太子が決まるまでは婚約者も選定しないとされていたヴィルフリートの即位は、腹にイチモツを抱える派閥によって傀儡にされるのではないかと強い懸念を抱かれたのも無理のない話で。
皮算用を胸に謀略飛び交う会議は荒れに荒れた。
そうして成人するまでは中立派である宰相の娘であったディートリンデを側妃に据えて、国が安定したときに改めて正妃を選定して迎えればいいという判断に落ち着いたのだ。
「まさに今がその時だ。
お前の着古した緑のドレスや、野暮ったい眼鏡を見なくてよいかと思うと清々する」
婚姻式ではディートリンデよりも僅かに低かった背も今や軽々と超え、しっかりとした体格に育った陛下に感慨深いものがあるものの、向かい合って座る相手が向けてくるのは刺々しい空気ばかり。
「ようやく私も妃を迎え入れることができる」
以前より低くなった声を聞くのも久しぶりである。
実際、顔を合わせること自体が三ヶ月振りのはず。記録を確認しないと正確な日数まではわからないが、まだ肌寒さの残る春の視察に同行して以降は、陛下との予定を調整した覚えがないのでまず間違いはないだろう。
そしてディートリンデを側妃として認めていないような発言をするのはいつものことで、これだけは成人した今でも変わることはない。
まるで妃などいないかのような発言。
あまりに心無い暴言を臣下として諫めるべきかと少し迷ったが、こちらを窺う様子に言葉を慎む方を選んだ。
経験からディートリンデが一言返せば、倍になった悪意を押し付けてくる。
年に数回しか会わない相手に随分と嫌われたものだ。
外交ではこういった姿を見せることが無くなったが、色々な意味でディートリンデは特別な存在だといえる。
勿論、好意的なものではなく、嫌悪的な意味でだが。
ヴィルフリートに同情しないわけではない。
自身が望まなかったにも関わらず、臣下達によって勝手に婚姻を決められたことに対して、未だに反発を抱いていることは知っている。
本来、兄王子が継ぐであろうはずだった王位は遠いはずのもので、それゆえに誰よりも手を掛けられなかった末王子。
だとしても他の貴族の末っ子に比べれば大事にされていたはずだが、王家の中で比較するのならば不満を持つのもよくあることだ。
そんな王子に与えられた王の座。
いや、与えられたというよりは押しつけられただけで、本人が望んでいたかはわからない。
王太子教育など不要と判断され、期待もせずに育てられたのに今や王である。
清濁併せ呑むにはヴィルフリート陛下は若すぎたし、未熟でもあった。
それゆえに王という失敗が許されない存在になった彼には、不満や苛立ちをぶつける相手が必要で、そしてそれに望まない相手であったディートリンデを選んだのだ。
とっくに少年期を終わらせた今も変わらずに。
「彼の国メディシスよりガブリエル王女を迎える以上、お前達が押し付けてきたディートリンデをどうにかする必要がある。
メディシスは先進的ゆえ、側妃という制度を廃止した国なのだ。
そんな国の王女を迎える以上、私の横にいるのは正妃以外は認められん」
「さようでございますね」
ヴィルフリートが隠し切れない悪意のある笑みを浮かべたのを、こちらは公務用の微笑みを絶やすことなく見ながら、心の中でだけ溜息を落とす。
メディシスが側妃を廃止したのは王位継承権を持つ外戚者が多く、土地を分け与えるのに制限をつけなくてはならなくなったからだ。それに王族を語る詐欺も横行しているのが理由に過ぎない。
側妃廃止も暫定的なものでしかなく、緩やかに王族の関係者を名乗れる者が減少すれば、再び王族の子孫を繋ぐために側妃は召し抱えられるだろう。
陛下の後ろに控える者達も残念なものを見る目に変わっていたが、どうにか溜息は落とさずにいてくれた。
せっかく集め育てた優秀な人材だ。不敬罪などで放逐したくはない。
ディートリンデ達の後ろにいる文官達がどういった顔をしているかはわからないが、ヴィルフリートが何も言わないのなら、少なくとも表情には一切出ていないのだろう。
「形ばかりの婚姻とはいえ適齢期も過ぎた今、ここで離縁されてもお前に相手などいないだろうな。
だからといって未練たらしく縋ったりはしないでもらいたい」
ディートリンデは言われた言葉に、はて、と首を傾げそうになった。
この婚姻には政略的な意味しかない。まるでディートリンデが嘆き悲しむかのような言い方をしているのが不思議で仕方がないのだ。
思わず父親である宰相を見上げたが、僅かに肩をすくめただけだった。
どうやら父にはヴィルフリートのお考えはわかるようだけれど、諫める必要がないと判断したらしい。
陛下の後ろにいた護衛騎士や侍女も一様に首を傾げているので、おそらく他の方にも陛下の考えることはわからないのだろうと、ディートリンデは安堵してからヴィルフリートへと視線を戻す。
「ガブリエル王女から話を聞いたが、メディシスの王妃は公務を正午前には片付けられ、お茶会や慰問と精力的に活動されているらしい。
王妃教育を受けても日々公務に追われて何もできない有様のお前とは大違いだ。恥を知れ。
宰相の娘だから優秀ということで仕方なく婚姻したが、六年経った今でも王妃の公務ぐらいを簡単に捌くこともできない者など、妃としての器がないと言えるだろう」
もう一度父親を見る。
今度もディートリンデとは一切目を合わさない。むしろ力一杯視線を逸らされた。
これは後で話をする必要があるとディートリンデが思う中、積年の鬱憤を晴らそうとしているのかヴィルフリートの話は止まることがない。
「だが、お前も私の民の一人。多少の憐れみぐらいは持ち合わせている。
ディートリンデ、お前が今まで至らなさを謝罪し、膝をついて許しを請うならば考え直してやらんこともない」
「いえ、考え直して頂く必要はございません」
思わず本音で返事をすれば、隣に座る父も深く頷き、すかさず手元の書類を挟んだテーブルの上に載せた。
「陛下のお気持ちは存じておりますので、さすれば我が娘ディートリンデとの離縁届に署名を」
途端にヴィルフリートの目が見開かれた。
表情がわかりやすい顔に浮かぶのは驚愕だろうか。
「離縁、だと?」
一体何を驚くことがあるのだろう。
今まさに正妃以外は認めないと言ったばかりだというのに。
本当に陛下のことがよくわからない。
「はい、離縁です」
ディートリンデが側妃を務めるのは正妃を迎えるまで。
正妃がくれば役割を終える。だから今その話をしていたのではないだろうか。
三度父親を見れば、もはや隠そうともせずに溜息をついているところだった。
「そんな、急に言われても困る」
「何を言われるか。正妃をお迎えになると決められた時点で離縁は決まっていたこと。
準備は進めておりましたので、後は陛下の署名だけです」
宰相はにべもない返事をしてから、ずいっと書類を陛下の前に滑らせる。
「既にディートリンデはガブリエル王女殿下への引継書を完成させております。
周囲に対する離縁の根回しも済ませ、神殿でも婚姻届けを原型を留めないほどに裁断する手筈まで整えて待機しておりますれば、残す作業は一つだけ」
さいだん、とオウム返しに言葉を吐いたヴィルフリートは助けを求めるように周囲を見渡せば、誰もが目を合わさない中と知って幾分小さくなりながらも怒りを露わにしながら二人を睨みつけてくる。
「だが、そうなると王妃の執務はどうなる?」
「それは正妃となるガブリエル王女殿下の役割です。
側妃でなくなる以上、私が国の機密事項に携わる権限はございません」
当然の話だろうと返したが、どうにも陛下は納得しない様子で、何がそんなに気に入らないのかと思いながら壁の時計を見れば、話し合いを初めてから既に半刻は過ぎている。
もう少ししたら父は会議だし、ディートリンデも婦人会への参加が予定として組まれている。
何の予定も入っていない彼は時間を気にしなくていいが、こちらは忙しいのだ。
「しかし、ガブリエル王女はシュトラヴェルグにまだ馴染んでもない」
「失礼ながら陛下」
父がヴィルフリートの言葉を遮る。
「重ねて申し上げますが、王妃の公務は正妃の仕事です。
陛下が側妃を容認しないメディシスの要求を受け入れた今、ガブリエル王女の心証を損ねないためにはディートリンデと離縁の選択しかございませんし、そうなればここにいる義務も必要もございません。
王女殿下の輿入れにあたって、自国の血を入れたいメディシスの思惑など何も考えずに受け入れたのは陛下でしょう。
我々が反対しても、御身の独断にて強行したのをお忘れなく」
怒ることもなく諭すように父が語る。
「陛下、王家直系の血筋は陛下唯一人。
正妃となるガブリエル王女殿下が子を為さなかった場合、この国は滅ぶことをお忘れではありますまい」
ひゅっと息を呑む音がした。
「そして子を為したとしても陛下が早逝した場合、後見役としてメディシスが介入してくるのは理解された上で受け入れたのだと思っているのですが、どうされるおつもりだったのか」
何も考えていなかったとまでは言わないが、きっと限りなく近い状態であったのだろう。
ヴィルフリートからは何の言葉も返されない。
「陛下、私は国の為と思って娘を差し出しました。
数年という期間で立て直された国を見て、宰相として自分の判断は間違っていなかったと、娘の才能を遺憾なく発揮させられたのだと誇りに思っております」
けれど、と父がヴィルフリートの前に自身の万年筆を置く。
早く書けという強迫だ。
「父親としては失格だったと思います。
形ばかりの妃であろうとも、せめて愛は無くとも互いを認めて尊敬さえできるのならばと思っていましたが、まさかここまで娘が蔑ろにされるとは思いもよりませんでした。
今は娘に対して申し訳なさしかない」
語る父の目はヴィルフリートを射抜かんばかりだ。
「それは、宰相が後ろ盾のための政略結婚だと言ったから……」
「ええ、当然です。王族のみならず貴族ではよくある話ですから。
けれど、そこから家族という関係を構築できるかは本人達の努力次第です。それが出来ない相手ならば必要ないでしょう」
そう、ディートリンデにはもう必要ない。
「陛下が何を言おうとも、ディートリンデとの離縁は決定事項です。
ここで離縁を引き延ばすのは結構ですが、陛下が選ばれた唯一たるガブリエル王女殿下との婚姻自体が無くなりかねないことをお忘れなく。
どうしようもなかった六年前とは違うのです。王女殿下との婚姻は、成人して一人前だと仰られた貴方が選んだのですよ。
それともこちらの有責でこの話はなかったことにして多額の賠償金を支払い、国内で幼いご令嬢が育つのを待つか、既に婚約している高位貴族の令嬢を無理矢理婚約解消させて召し上げるか、いっそのこと身分を問わずで愛人を召し抱えられますか。
過去に前例はございますが、六年前と同じように血で血を洗う王位継承権争いが起きる可能性をお忘れなく。
さあ、陛下。どういう状況になのか理解できたのでしたら、こちらに署名を」
万年筆に触れた手が僅かに震えたのが見て取れた。
書くことを躊躇うヴィルフリートを意外に思うのと同時に、ゆっくりと署名がされるのを思っていた以上に冷静な態度で見守れる。
もしかしたら多少の情が湧あるかと思っていたが、この六年で表立った公務以外で顔を合わせるしかなかった相手は、もはや夫ではなく仕事を一緒にしていた文官達よりも縁が薄い存在でしかないのだと改めて気づかされるだけ。
薄情だとは思う。
それでもこれが双方の行動と選択による結果なのだから、受け入れてもらうしかない。
いつもより乱れた文字で書かれた名前を確認し、父が書類を念入りに確認した後に頷く。
これで側妃という務めは終了した。
「それでは本日中に城内より退去させて頂きます」
「お前は、それでいいのか?」
縋るような目が六年前を思い出す。
無力であることを隠そうともせず、不安そうだった少年王。
王族たる義務を受け入れられず、環境の変化に逃げ、周囲の人々を恨むことによって自我を保っていた彼を見て、父が後ろ盾になるのも、等しいだけの権限を持った人間が公務を手助けする必要があると判断したのは間違いないと思っている。
その上で実戦での王太子教育で成長できるかは本人の資質の問題でしかない。
スペアですらなかった彼に期待するのは間違いだと、誰もが王家の血を残すという目標さえ達成すれば良いと考えている。
だから感情のままに人を傷つけることを厭わぬ鈍感さと、そのくせ自身が害されることを極端に怯える繊細さを持ったままで許され、代わりとなる優秀な人々に支えられて彼の王朝は続いていくだろう。
そこにディートリンデがいないだけだ。
「六年前のあの日から、既に決まったことでございます。
陛下の支えとなるべく公務を滞らせることがないよう精進して参りましたが、常日頃から妃の器ではないと言われてしまうほど、私に至らぬところがあったのでしょう。
私も年に数回、それも公務でお会いするぐらいの方に情を持つこともございませんでしたし、父と私が選んだ側近達は誰もが優秀ですから新しい王妃殿下をお支えしてくださいます。
ゆえに一切の憂慮はございません」
ディートリンデの言葉にヴィルフリートの顔色が悪くなる。
「それは、あまりにも、薄情ではないか」
きっとヴィルフリートの胸中にあるのは裏切られたという気持ちだ。
自分は劣等感にも似た苛立ちと不満から人を試すように突き放すことが許され、他者には絶対的な愛情や好意を求める。
それを諭そうにも、変わらないままの彼は受け入れないだろう。ならば父とディートリンデを悪しき存在だと恨んだままでいい。
せめて、自分が選んだと思っている美しい王女殿下と支え合って、この国の未来を築いて頂きたいと思うばかりだ。
「引継書は陛下も確認されることをお勧め致します。
それでは、ガブリエル王女殿下と幾久しく輝かれることをお祈り申し上げます」
側妃ディートリンデとして陛下に見せた最後の挨拶は、妃として模範になるような美しいものだった。
***
「お嬢様、間もなく出立のお時間ですよ」
ここ数日、数年ぶりに聞いている、お嬢様という呼び方が妙に擽ったい。
窓から見える中庭には、数台ある馬車の大半に荷物は括りつけられており、旅行というよりは夜逃げでもしそうな状態だが、あながち間違いでもない。
「お父様は戻られたの?」
「間もなく到着されると先触れがございました」
玄関へと向かう途中の廊下や階段の装飾は、まるで空き家のように全て売却されている。
きっちりと閉められた扉の向こう側、いくつもある部屋の家具なども全て処分した。
玄関では旅装束の母親と兄が家令と話し込んでいる。
「あの人は陛下を叩きのめせたのかしら?」
おっとりとした口調で物騒な言葉を口にする母親に、城から一足先に戻って来ていた家令が満面の笑みで返す。
「それはもう。どのようなお話をされたかは旦那様に直接聞かれるとよろしいでしょう。
まあ、陛下は暫く何かする気にならないでしょうから、今が一番の好機かと」
「それは僥倖ね」
そうしている間にも荷物は積み終わり、後は見送りの人がちらほらいるばかり。
既に多くの使用人達が紹介状を手に礼をして去っている。
今日まで残ってくれた使用人は本人達の希望でディートリンデ達家族についていく者ばかりだ。
そして父が城から戻れば、そのまま出発となる。
馬車に乗り込んで手を振れば、見送る人々が手を振り返してくれた。
母の生家である伯爵家にタウンハウスを買い取ってもらい、陛下がガブリエル王女殿下との交流を深めている間に、爵位返上の手続きを進めた。
こういった重要な手続きの最終承認は陛下や妃だけではなく、後見人だった宰相でも可能としており、これが宰相としての最後の仕事だったらしい。
「これで久しぶりに家族水入らずで過ごせるな」
満面の笑みで父が言う。
その言葉通り、馬車の中にいるのは家族だけだ。
長らく国のためにと働いてきたシュタウゼン家で家族が揃うことがなかったが、ディートリンデが離縁した今は違う。
「お父様、よろしかったのですか?」
ここまで手をかけたのに、あっさりと手離したことはディートリンデには少し意外だった。
馬車の向かう先は国外だ。
「我々がいたら、いつまで経っても陛下は反抗期の子どものままだろうからね。
いつまで経っても許されると思っている。
私にできる最後の親心みたいなもんだ」
茶目っ気たっぷりに片目を瞑った父に苦笑する。
不敬ではあったが、同時に言い得て妙な言葉でもあった。
父とディートリンデがいるから彼は変わらないのかもしれない。後見役となったあの日よりも前から彼が抱えていたのは、満たされたことの無い甘えと依存だった。
王族としての責任はそこまで求められない代わりに、見向きもされたない存在だった彼に当てられた王という立場が一体どれだけの重圧と与えただろうか。
けれど、当時は仕方のないことだと思っていたが、何もかもを臣下が取り仕切る今のままが当たり前でいいわけでもない。
正妃を迎え入れるのだ。これを機に多少なりとも公務をしっかりこなしてもらわなければならない。
「辛辣な表現で悪いが陛下に賢王としての器はない。
だからこそ優秀な人材を揃えたが、だからいって何も考えず、全てが周囲のせいだと甘ったれる年齢はとうに過ぎている。
子どもを終えた成人男性が、反抗期を理由に誰かを虐げることは許されることではないんだよ。
まあ、死に物狂いで何かを為すことも知らなければ、適度に手を抜く加減も知らないゆえに忌避する性格は不安要素だが、そこはガブリエル王女殿下が上手くやってくれるさ。そのために彼女を選んだのだから。
とにもかくにも血筋の存続が最優先の中で、最悪、陛下が何もできなくても周囲に優秀な臣下を配置したのだし特に何か言われる筋合いもない。
まあ、努力した姿を見せる必要はあるし、ガブリエル王女殿下が怠惰を許すはずもないが」
そうだ、彼はもう不安と疑心で周囲を窺っていた子どもではないのだ。
「これからの陛下に必要なのは、自身と妃とで背負う責任への覚悟だ。
いつまでも私とディートリンデがいるからでは、成長しなくて困る」
自分が亡くなった後のことまで考えたくはないのだとうそぶいて、食べ納めだと王都で流行しているチョコレートの箱を取り出してくる。
「大丈夫。父上があそこまでお膳立てはしてあげたのだから、後は周囲が上手に尻を叩いてくれますよ」
一番乗りでチョコレート摘まんだ兄がにかりと笑った。
ディートリンデも口に入れれば、チョコレートが口の中で溶けていく。
思ったよりも苦味のそれは、不思議と口によく馴染んだ。
国外に出ることを見越して、多忙を理由に妻を迎え入れることが無かった兄だが、新しい地では真面目に婚約者を探すことになるだろう。
爵位は返上したが、衰退しそうな国を立て直した父の手腕を求める国は多い。
シュトラヴェルグの南、大陸最大の貿易都市を持つグルノワースは侯爵領に隣接していた国であり、かつての婚約者がいる地でもある。
伯爵位と相応の役職をと誘いを受け、さして交渉せずに応じたのも、ディートリンデの元婚約者の存在ゆえだ。
「ディートリンデは久しぶりに会うことになるな。
あちらに着いたら早々にドレスを仕立てよう」
「あら、いいのですか」
「ああ、緑のドレスばかりなのを見たら調子に乗るだろうからね」
途端に馬車内に笑い声が湧き、顔を赤く染めたディートリンデが窓の外へと視線を向ける。
六年前に側妃となったが、結婚適齢期であったディートリンデには貴族令嬢として当然のように婚約者がいた。
14歳になる頃には婚約を結び、大切に絆を結んできた相手だ。
父から請われなければ嫁いでいたはずの相手が、ディートリンデをずっと待ってくれている。
その想いを忘れないようにと相手の瞳の色を常に身に纏っていたが、さすがに再会のときにまで緑のドレスでは確かに気恥ずかしい。
「陛下がいらぬ気まぐれを起こさぬようにと、側妃の間は襟の詰まった露出の少ないドレスばかりだったからな。
好きなものを仕立てなさい」
無邪気にはしゃぐディートリンデを見て、母親は優雅に微笑む。
「リディのドレスを仕立てるお店はいくつか見繕ってもらっているの。
あちらに着いたら、さっそくお店に行ってみましょうね」
どんな街なのか、どんな店があるのか。会話は尽きることなく、暫くして馬車は王都の門を潜った。
***
ヴィルフリートは国王だ。
第三王子にしては王族の責任を求められぬままに、王位継承権から遠い場所で過ごしていた少年期の終わりは、凄惨な王位争いによって鉄錆色に彩られた。
唯一生き残った王家の直系。
このままではいずれかの派閥の傀儡になるだろうと、四歳上だった宰相の娘であるディートリンデとの婚姻をまとめられたのはすぐのこと。
ディートリンデという娘は黒い髪と紫の瞳こそ賢そうだったが、同時に酷く地味だった。
兄王子二人の婚約者はどちらも公爵令嬢で大輪の薔薇や清楚な百合のようだったし、母であった王妃はシュトラヴェルグの黄金と呼ばれるまでに輝ける美しさを持っていた。
それなのに自分に押し付けられたのは、分厚い眼鏡をかけて常に襟の詰まった緑のドレスばかり着た、年増で頭でっかちなだけの貧相な女。
当然初夜を過ごすことなんて考えていなかったし、隣り合う寝室で過ごすことすら嫌だった。
婚姻が成立した夜に、ディートリンデの部屋を適当な客室にでも移動させるよう言い付け、それから寝室に通じる扉には鍵をかけて一切を拒絶した。
そうすればヴィルフリートとの婚姻を勝手に進めたことを謝罪するだろうと思ったのだが、ディートリンデは翌日から妃の執務室に通い始め、以降は公務以外で顔を合わずことは一切なかった。
そうして国の立て直しが進み、ようやく内政も安定しだした頃、三つ向こうの国から王女との縁談が舞い込んだ。
親書を携えて訪れたのはガブリエル王女本人で。
ヴィルフリートより四つ下の彼女は、愛されて育てられた砂糖菓子のような王女であり、同時に王族の矜持で研鑽を怠らない淑女であった。
白金にも似た髪と今時分の晴れた空にも似た淡い水色の瞳。
小柄な体は華奢で、誰もが想像するようなお姫様像を形にしたような王女だ。
城内の誰もが可憐な王女殿下の来訪を喜び、ヴィルフリートも喜びに打ち震えながら彼女を迎え入れた。
これでようやく自分も一人前になれるのだ。
今まではずっと、ディートリンデがいるせいで一人前だと認められないのだと鬱屈とした気持ちを抱えていたが、美しい彼女を迎えれば王として自信が持てる気がした。
守られるのではない、これからは守る立場になっていくのだという高揚感を胸に抱いて。
それなのに突き付けられた離縁届がヴィルフリートを不安にさせた。
あんなに浮かれていた気持ちが瞬く間に萎んでいく。
四歳上だったディートリンデとの間に子どもはいない。というより拒絶した初夜から閨なんて一度も無かった。
ヴィルフリートが同室を厭うあまりに別の部屋へ移動させるよう命じた通り、どこか一室を与えられたことは知っているが、一体どこで寝ていたのかなど全く知らない。
正妃の公務を代理としてこなしていたが、働いている様子を見に行ったこともなかった。
一体どんな仕事を、どんな配分でしていたのか。
正妃の公務が何かなど全く知らなくても、ディートリンデが全てを片付ける。
ヴィルフリートはただ結果を聞くだけでいい。
これが当たり前になっていた自分に、正妃となるガブリエル王女を気遣えるのか心配になったのだ。
ならばディートリンデを暫く傍に置き、あの可愛らしい人が王妃らしく振舞えるまで公務を手伝わせればいい。
命じれば今まで通りに働いてくれるだろう。そう算段を付けて、安心していた矢先の離縁である。
宰相から淡々と繰り出される言葉は耳に痛いものでしかなく、ヴィルフリートの反論をことごとく叩き落とし、最終的にはヴィルフリート自身が選んだ結果だとして離縁は成立した。
そうしてヴィルフリートとの離縁から日を置かず、ディートリンデは他家へ嫁ぐ準備を始めたのだと知る。
思わず不貞だと口にしたら、周囲の臣下達は溜息を落としながら離縁が成立しているのだとやんわり意見し、ディートリンデが再び側妃に戻ることはないのだとガブリエル王女殿下に表明するために必要な婚姻だと諭してくる。
それが面白くなく、そんな婚姻でディートリンデが幸せになれるのかと聞けば、再度深いため息が落とされた後には、誰もが目を逸らして仕事に戻らねばと執務室を出ていった。
反論は無かったのだから自身の言葉が正しいのだと残された宰相へと顔を向ければ、ゆっくりと立ち上がった彼が近づいてきた。
「陛下、娘は既に離縁した身。
名前で呼ばれると王女殿下からも誤解されますので、止めてもらえませんか」
「離縁したとはいえ元は側妃なのだから、何もおかしいことはないだろう」
「いいえ。離縁した以上、ディートリンデは侯爵家の人間に戻っております。
もはや赤の他人でしかないので、シュタウゼン侯爵令嬢と呼ぶのが一般的です」
いかにも常識を説いているのだといった素振りに苛立ちが募る。
「こちらが望んでいないのに押し付けたかと思えば、唐突に離縁を成立させる。
そんなお前に常識を問われるとはな」
いつだって彼らはヴィルフリートの都合なんて考えない。
自分達の都合で勝手に決め、押し付けたかと思えば、ヴィルフリートの段取りなど気にせずに去って行く。
何もかもが思うようにならない。
「陛下、ディートリンデと離縁の話し合いをした際にも申し上げましたが、離縁は陛下の選んだ道によって生まれた結果です。
ガブリエル王女殿下との婚姻を決めた時点でわかっていたこと。
陛下以外の臣下は全て理解し、ディートリンデと離婚しても問題ないようにと準備をして参りました」
いつもの説教かと、思わず表情に出たことなどヴィルフリートは気づいていない。
そしてそれに宰相が気づいていることも。
宰相が横にいる補佐に書類を渡せば、彼は恭しく受け取って中身を確認し始める。
すぐに小さく頷いて部屋を出ていった。
「とはいえ打って響かぬものならば、陛下の厭われる説教もここまでにしましょう。
本日限りで宰相を辞し、爵位も返上するよう手続きが完了致しました」
言われた言葉に理解が追い付かず、ヴィルフリートは口を開けて閉じ、そうしてから口を開けども何も出てこない。
宰相が、ではなくシュタウゼン侯爵、いや平民となったシュタウゼンという男が笑みを浮かべる。
何もかもが急すぎる。
「そんな、だって」
文章にすらならない単語の欠片が零れ落ちていくが、それを意に介した様子もなくシュタウゼンは立ち上がると外套を手にした。
それ以上に何かを持ち帰ろうとする素振りすら見せず、ディートリンデと同様に彼も準備をしていたのだと窺いしれる。
「陛下が明日なさらなければならないことは、すみやかに新しい宰相の選定することと返上された侯爵領を王領にするのか、他貴族に割り当てるのかを判断することです。
正妃の仕事は主要なもの以外は諦め、婚約者として程好い量だけガブリエル王女殿下にお願いすると良いでしょう。そのあたりはガブリエル王女殿下の方がよく知っているでしょうから相談なさるとよい。
いなくなるのは私とディートリンデだけ。他に優秀な者達が残っております。
たかが二人いなくなるだけで、この国が立ち行かなくなるようなことはございません」
「お前達は何処に行くつもりなのだ」
「ああ、ご心配なさらなくとも、この国の重要機密は漏らさないと誓約書に署名はしております。
ディートリンデも城を辞す時に一筆書かせておりますのでご安心ください。」
そうではない。そんなことではないのだ。
「そういうことではなく、私は、」
陛下、と遮った宰相の表情は見たことのないもので作られていた。
「ガブリエル王女殿下に相談する前に少しだけでいいのです。
自分でどうするべきかを考えてみてください。
そして困ったなら人に相談を。私の助言を聞いて頂けるなら、外交大臣のホーエンツォレルン伯爵がよろしいでしょう。
彼なら良いアドバイスをしてくれるでしょうから」
帽子を目深にかぶれば、表情はもう見えない。
「陛下、どうぞ健やかにお過ごしください」
翌日、早々にガブリエル王女を連れて、王妃の執務室へと向かう。
「すまない。ディートリンデが城を去って早々に負担をかけてしまうのだが、貴女ならば容易いことだろう」
「国が違えば文化や作法も異なります。
すぐにお役に立てるかはわかりませんが、この国に嫁ぐのですから精進致しますわ」
謙遜めいたことを言っているが、彼女ならばすぐに馴染んでくれるはず。
忘れそうだった王妃の執務室までの道を従者に案内されながら、午後はどう過ごすかを考える。
今日は王妃の執務室を見るだけとし、明日から本格的に公務をしてもらおう。
ならば、今日の午後は二人で庭園を巡り、いつものようにお茶をして時間を過ごすか、それとも遊戯室で流行りの盤上遊戯でもしようか。
ああ、人数が必要なものは後日貴族を招いてもいいと考えながら、危うく正妃の公務室を通り過ぎそうになって足を止めた。
従者が扉を開けば、広いはずの部屋が狭く見える光景が広がっていた。
開いた扉の先にあったのは白色と濃い茶色で統一された部屋だ。
不要な物は取り払われたのかは知らないが、壁の一面に書棚が埋め込まれ、整然と机が並んでいる。
一番奥にで誰も座っていないのがディートリンデの机だったのだろうか。
これも他の文官よりも少し大きいだけで、美しい装飾が施されたわけでもない地味なものだ。
その脇には小さな応接セット。
近くに水差しとグラスの置かれたローボードが置かれ、焼き菓子も少しばかり並べられていた。
「随分とすっきりとした、シンプルなお部屋ですのね」
遠回しに言われたのは、簡素だということ。
「ディートリンデは華やかなのは好まなかったのだ」
慌てて言えば、そうですかとだけ返ってきた。
ヴィルフリート達の視線を気にせずに誰もが黙々と働く中で奥の机に向かえば、薄い引継ぎ冊子が二部置かれているのに気づく。
表紙に几帳面な文字で『引継書』とだけ書かれていた。文字の色は深い緑で、ディートリンデのドレスを思い出して自然と渋い顔になる。
それにしても、やはり大した仕事などしていなかったのだと思うヴィルフリートに、近くの文官が現在のお立場で読まれて問題ないものがそちらですと言い、残りは成婚されてからだとサイドテーブルに置かれたのは相応に厚みのあるもの三冊。
それはヴィルフリートが王となるときに宰相から渡されたものより遥かに厚く、何故という思いと言葉にならない不安が胸中に湧く。
「思っていた量よりも随分と多いかしら」
「あまり仕事ができるわけではなかったからな。
引継書すらも簡潔に書けなかっただけだろう」
ガブリエル王女が机の上の引継ぎ書を手に取って、ぱらりと表紙をめくる。
「簡潔で、それにとてもわかりやすい。
ディートリンデ様は側妃としてだけではなく、文官としての才もおありでしたのね」
だが、もう一冊を手にした時に、不意に眉を顰めた。
「これは……」
食い入るように読み始めた冊子に何が書かれているかは知らない。
ディートリンデから確認するようには言われていたが、側妃が用意したものだから、王であるヴィルフリートが確認する必要がないと思ったからだ。
けれどガブリエル王女はヴィルフリートへと冊子を差し出した。
「これは陛下の分ですわ」
思わずヴィルフリートの動きが止まる。
引継書はディートリンデからのものだ。それはつまり王妃の公務である。
なのに何故ヴィルフリートの分だと言われなければいけないかがわからない。
そういえば、即位したときに宰相が何か言っていた気がするが、ディートリンデと会うことがなかったから思い出しもしなかった。
「もしや、陛下。ディートリンデ様に公務を押し付けて、私との時間を作っていたのですか」
そこにあるのは驚きだった。
思いがけない言葉によって咄嗟に返事をしなかったのは、嫌な予感から思わず口を噤んだからだ。
「この国のことを知らない私でもわかります。
こちらの引継書にありますのは、全て王が裁定されるはずのものです」
そんな馬鹿な、と言いかけて喉の奥に押し込めたヴィルフリートを見る、ガブリエル王女の瞳に映るのは猜疑心だ。
是と答えれば、わかっていて仕事を押し付けるような悪意ある行動を取っていたと思われる。
否と答えれば、王としての責任能力を問われる。
知らなかったと言えば、ただただ何も知らない無能な王として、ディートリンデに仕事を丸投げしていたということになる。
どう答えてもガブリエル王女に良い印象を与えることはないだろう。
「ディートリンデは父親であった宰相と共に仕事をしていたので、こういった仕事も私に無断で処理していたのだろう」
取り繕うように言葉を重ねれば、無言のままにヴィルフリートを見ていたガブリエル王女が息を吐く。
「だとしたら、ここに記載されております公務は陛下にお戻し致しましょう。
どちらにせよ、私はまだシュトラヴェルグ国の王家に嫁したわけでもありませんので、こちらに記載された公務を担うことはできませんわ」
「そんな、貴女は私の婚約者であるのだから王家に限りなく近いと言える。
どうか優秀だと言われる手腕を発揮して、そこのところを何とか手伝ってもらいたい」
ガブリエル王女が公務をそのまま引き継いでくれないと、ヴィルフリートに戻ったところで手に余ることなんてわかりきっている。
彼女のことはあらゆることから守ろうと思っているが、あくまで包容力としての話であり、そこに公務が含まれるわけではない。
むしろ才女たる彼女ならば、ヴィルフリートがするよりも仕事もスムーズはなずなのだ。
自慢のできる外見を持ち合わせた、王妃としての資質を兼ね備えた存在を隣に置く。
今更当てが外れたことにはなりたくない。
「陛下、失礼ながら私の言葉を聞いて頂けていないのでしょうか。
再度申しますが、ディートリンデ様の書かれた引継書のこちらは正妃・側妃関係なく、本来妃の仕事ではございません。
恐らくは即位当初に陛下の負担にならないようにと、ディートリンデ様が仕方なく引き受けていらっしゃったのでしょう。
だからと言って、それを私が引き継げるかと言われれば無理ですわ」
そんなこと言われても困る。
ガブリエル王女がヴィルフリートの顔を見て、僅かに目を眇めた。
「随分とご不満そうなお顔をされていらっしゃいますわね。
私達は契約は取り交わしたとはいえ、婚約発表すらも行っておらぬ身です。対外的な事も含め、せめてもう少しぐらいはお隠しください。
とりあえずは宰相殿とこれからの相談をさせて頂きます」
そうだ、彼女にそれも言っていなかった。
「宰相は、辞めている」
驚きで目が丸くなったガブリエルの表情は、さすがに焦りの色を見せていた。
「今、何と?」
「だから辞めたんだ。ディートリンデとの離縁の後に」
手にした引継書が強く握られたのか、皺が寄る。
「何てこと!今すぐ呼び戻してください!」
「無理だ!」
彼女の焦りが伝染したのか、ヴィルフリートの声も上擦る。
「先日にも爵位を返上した。
今頃国を出たと思うが、行く先はグルノワースとしか」
言葉を返せば、ガブリエル王女の顔から表情がすとんと落ちた。
怒りも苛立ちすらも無い表情なのに、どうしてかヴィルフリートの居心地は非常に悪い。
ずっと昔、側妃であった母に兄王子たちを支えるよう言われたとき、そういうのはできる人がやればいいのだと返した時の顔によく似ていると気づく。
あの時は何も言わずにヴィルフリートを見つめる母が恐ろしくて、逃げるように部屋を出ていったのだが、今ここで逃げるのは非常に不味いのだとは察している。
時間にして数秒なのか、それとも数分か。
張り詰めた空気を感じながら何も言えず、ただただガブリエル王女を見ていれば、大きな溜息を落とされた。
「……今更、婚約を破棄などできませんでしょうね」
その言葉に身をすくませながらも、見限られることはないのだと安堵する。
そうだ、既に書類上での婚約は結ばれた。
ならば彼女はヴィルフリートを支える為に努力をするべきなのだ。
「私は、私の範囲内での仕事は責任持って取り組ませて頂きます。
けれど、そこまでです。本来の陛下がされるはずの公務については、宰相補佐殿か他の方にご相談ください」
だが、そんな思いはバッサリと切り捨てられる。
「そんな、貴女は優秀だと聞いている。
宰相がいないのは確かに不安だろうが、貴女の公務についてはディートリンデがいなくなっただけであろう。
ディートリンデが出来たなら、貴女にも出来てもらわないと困る」
ここで言われ負けたらヴィルフリートの肩に公務の重みが大きく圧し掛かることになる。
それだけは避けなければならない。
なのにガブリエル王女の意志の強い瞳に何も言えなくなった。
「私にできるのは王妃としての公務のみ。
ここでの生活に慣れれば、いつかは陛下の公務を手伝うことは可能でしょうが、それでも数年はかかるでしょう。
それまでは陛下のお仕事だと思われるものは全てそちらに回します」
強い眼差しは伏せて引継書を見つめたかと思えば、さっと机に向かって足を踏み出した。
机に備え付けの椅子に座り、目を瞑るガブリエルから放たれる言葉が恐ろしい。
「陛下がディートリンデ様をどう思われていたのかは想像の域でしかありませんが、余りにも情の無いものであったことは察することができます。
詳細を事前に調べ切れなかった私の不備もありましょうが、これだけは申し上げられます。
ディートリンデ様と離縁されるべきではなかった、と」
置かれたままだった万年筆は離縁届に署名した時の物だ。
まるでいらない物のように置いて行かれたそれが、なんとなく自分のようだと思い、ヴィルフリートは首を横に振る。
捨てられたのではない。自分が捨てたのだと言い聞かせながらも、どうしてこんなに不安なのか。
「陛下、これからは陛下と私で公務を執り行わねばなりません。
何も知らない貴方と私で」
ガブリエル王女からの言葉は裁判の沙汰が待つかのよう。
「陛下の仰られることを鵜吞みにせず、先にディートリンデ様のご状況をお伺いできたならば。
言ったところで詮無きことですが、この国に一番必要な方だったのに」
下されたのは逃げることを許さない、自分の犯した間違いだった。
***
ガブリエル王女との婚約式は恙無く執り行われることとなった。
王族同士の婚約となれば、周辺国の王族や所縁ある高位貴族を招待しての盛大なものとなる。
一年掛かりの準備を経て、互いの色の豪奢な礼装とドレスを仕立て、国の民は王の結婚による恩恵を受けれるかもしれないと浮足立った状態へと変わっていく。
ヴィルフリートの色を身に纏うガブリエル王女は美しかったが、この頃には既にヴィルフリートの中での彼女は可憐な姫君ではなく、容赦なく公務へと駆り立てる悪魔のような存在と変わっていた。
彼女の見た目は物語の挿絵のような王女様といった風貌だが、中身はディートリンデと比べられない程に苛烈だった。
ヴィルフリートを容赦なく叱咤して公務へと向かわせ、それが終わるまでは会おうとしない。
会ったとしても公務の内容を聞き、それに対する判断に至る背景や考えといったものを確認する姿は教師役のよう。
基盤作りのためだと言って他の貴族夫人達とのお茶会は行うが、ヴィルフリートがお茶をしようと誘っても忙しいとにべもない返事ばかりをする始末だ。
以前に比べて倍以上に増えた公務を執務官に振り分けるように提案しても、これでもまだ少ないのだと一言で却下される。
どれも王の裁可が必要だと言われるので、せめて良いと決めるだけでいい状態にしてほしいと譲歩しても、それではヴィルフリートが判断したことにならず、先々で私利私欲に走る臣下のいいようにされるだけだと却下されてしまう。
「陛下は少しばかりお考えが足りませんのね」
もはや隠すことなく溜息を落とす姿にガブリエル王女との婚約をなかったことにしたいぐらいだが、既に他国に向けて婚約式の招待状を送っていることから何を言われたものかわからず、それを恐れて二の足を踏んだまま今日に至った。
口を噤んで横に立つ彼女は美しい。
けれど今日が終われば駄目出しをしてくるのだろう。その桃のように瑞々しい唇から。
大広間にある王の席に着いて程なく、国賓からの挨拶が始まった。
先ずはガブリエル王女の生国であるメディシスからだ。
娘が嫁ぐとあって国王夫妻が参加している。
「我が娘との婚約、誠にめでたい限りですな」
恰幅の良い王と、儚げな雰囲気の王妃。ガブリエル王女の容姿は母親似だ。
「良き国母になってもらいたいと考えております」
それは間違えない願いだ。
含まれたニュアンスを考えなければだが。
「ガブリエルが王妃である間、メディシスはシュトラヴェルグの王への協力を惜しまないと約束しましょう。
なに、娘は良い国母になり、シュトラヴェルグを支える礎の一柱となるでしょうな」
満足そうに頷いたメディシスの王夫妻はまた後程と早々に退散する。
そこからは挨拶が続くだけの時間になる。
周辺国から少し離れた国まで。
従者に言われて国と名前までは頭に叩き込んでいたが、どんな国かまでは把握できておらず、代わりにガブリエルが声をかけては話が弾む。
茶葉や畜産に始まり、新しい論文、流行のドレス、果ては冷害対策といった話題が次々と上げられた。
その度に挨拶にと訪れた人々は満足そうに笑顔になって去って行く。
ヴィルフリートではない、ガブリエルを見て。
これではまるでヴィルフリートが添え物のようではないか。
そう叫びたくなるのを堪えて、笑みだけ貼り付けた顔は相槌を打つだけ。
最後に挨拶に来たのはシュトラヴェルグの南、大陸最大の貿易都市を持つグルノワースだ。
そこの王太子夫妻がヴィルフリートの前に現れた時、伴われていたのはディートリンデだった。
複雑に編み込まれた黒髪は艶やかに照明の光を反射し、露わになった額の下にある、眼鏡で隠されていたはずの瞳はアメジストのよう。
側妃であった頃は首元まで刺繍で覆ったくすんだ緑のドレスばかりであったが、胸元が大きく開かれた深い森の色をしたドレスは裾が広がるにつれて銀へと変わっていく。
一緒に頭を下げているのが新しい夫だろうか。瞳の色を暗い緑に染めた男だった。
夫の衣裳が黒と紫なのだ。互いの色を纏うのは仲が良いというアピールのようにも見える。
自分の傍にいた時とは違う、艶やかな姿。
ヴィルフリートに挨拶へと向かう前に、夫婦で目を合わせて笑い合う表情は柔らかく、それに対して無性に苛々する。
側妃の時もあれぐらい美しく装い、妻として従順にかしずけば、少しぐらいは情をかけてやったかもしれないのに。
「グルノワースを代表し、シュトラヴェルグ国王が婚約者を迎え入れられたことをお祝い申し上げる」
「ああ、礼を言う」
国賓からの挨拶だというのに、気もそぞろになってしまう。
横に立つガブリエルの扇が意図的に当たった気もするのだが、そんなことはどうでもよかった。
ディートリンデが再び現れたのだ。
今からでも遅くはない。
こちらから声を掛けてディートリンデが謝罪する場を作ってやれば、再び側妃になることを望むに違いない。
いや、今のディートリンデが戻ってくるのならば、今や暴君と化したガブリエル王女との婚約を取り止め、今度はディートリンデを正妃に迎えればいいのだ。
賠償金が発生するだろうが、ディートリンデを正妃にしたら宰相も戻ってくるので、後の事は二人が解決してくれる。
「ディートリンデ」
思わず声を掛ければ顔を上げた彼女の姿は、見惚れる程に美しかった。
年増だと思っていたが、こうして見ればガブリエル王女の可憐さと違う大人の魅力に満ちている。
思えばディートリンデが言い返すことなどなかった。
ヴィルフリートが何か言えば、倍にして返してくるのがガブリエル王女で、何も言わずに全てを片付けてくれるのがディートリンデだ。
そうだ、以前に王妃の執務室でガブリエルが言っていたではないか。
ディートリンデがいたならば側妃で良かった、と。
ならばディートリンデを正妃に迎え、ガブリエル王女を側妃に据える。
ディートリンデの年だと子を多く成すのは難しいだろうから楽しむだけとし、ガブリエル王女に子を産んでもらうのはどうだろうか。
これなら婚約の破棄をして賠償金を払う必要もないはずだ。
さて、なんて言おうかと口を開けた瞬間、
「シュトラヴェルグの王よ。失礼ながら彼女はその名を捨て、今や我が国の民でございます。
どうぞこれからはグリモワルデ公爵夫人とお呼びくださいませ」
微笑みを浮かべたグルノワース王太子妃にピシャリと言われた。
ディートリンデも笑みを浮かべたままで、けれど横に立つグリモワルデ公爵が、唇の端だけ上げたままヴィルフリートを睨んでいた。
「……ディートリンデ」
途方に暮れてもう一度。
周囲のざわめきが小波のように引いていくのに、ヴィルフリートは気がつかない。
陛下、とガブリエル王女の小声が耳に滑り込んできたが無視をする。
「ディートリンデ」
もう一度呼べば、ディートリンデの目が細くなった。
笑っているのではない。
「失礼ながら、夏の黄金たる輝かしきシュトラヴェルグ国王陛下と、春の芽吹きたる太陽の乙女、ガブリエル王女殿下にご挨拶とお祝いを申し上げます。
グルノワース国王が弟たるグリモワルデ公爵の妻、リディエールと申します。
そのように捨てていった名前を拾い上げてくださるなど、陛下のお気遣いに感謝いたしますわ。
けれど使うことのなくなった名前など、どうぞ捨て置いたままにしてくださいませ。
私にはもう必要の無い名前なのですから」
そうしてからガブリエル王女へと視線を移して微笑む。
「こちらに滞在する期間は短いのですが、グリモワルデの名でお呼び頂ければ、この身、王女殿下のお役に立ちたいと存じます」
「ありがとう、グリモワルデ公爵夫人。
以前はなかなかお話ができませんでしたが、滞在中に許されるのでしたら是非一緒にお茶を。
貴女のお話を聞きたいと思っているの」
話ながら優雅な仕草で扇がハラリと広げられる。
「ええ、喜んで。夫と共に参りますわ」
それでは、と王太子は言って王太子妃を伴い、後に続いてディートリンデとその夫も去って行く。
何を言えばいいかわからず言葉の出ないままに見送ったヴィルフリートは、一人残された子どものように、ただただディートリンデを見続けた。
彼女の目が自分に向けられることを期待しながら、それが叶えられることはないのだという事実から目を逸らして。