──焚き火をする場所を作ろう。みんなで時々庭に出て、火を囲って和めるような場所を作ろう。
マス釣り後のソルヴィの提案から、ノクティアと侍女たちはすぐに庭の手入れに精を出した。現在は夏だが、あまり悠長にしていればすぐに秋になって冬になる。
庭のどこに作るかだけ既にソルヴィと相談済みなので、そこを中心に雑草を抜いている。ソルヴィも折角なので手伝いたいらしい。なので、石を敷くなどの力仕事をとりあえず残す事にしてノクティアと侍女たちは、造園に本腰を入れていた。
草の生え放題だった箇所も綺麗になり、スペースもできた。そこに花を植えるのも良いが、調理に使える野菜やスパイスや香り付け、お茶になるようなハーブ類を植えるのも良いだろうという話になった。 そうして庭の土を掘り起こして、小さな畑を作っている最中だった。
納屋から鍬や必要な用具を少し取りに行くとイングリッドが出向いてから幾何か──血相を変えた、ジグルドがイングリッドを抱えてやってきたのである。
何があったのか。ぐったりとして痛みに震えるイングリッドの足に赤々とした血液が垂れていた。
「ジグルドさん何があったの!」
尋常でない状況に、ソフィアは切迫する。そうしてテラスにイングリッドを寝かせるようジグルドに指示するなり、彼女はすぐにイングリッドのお仕着せのスカートを少し捲った。
脛付近に裂かれ血が噴き出していた。また真新しい打撲痕があり赤い痣になっている。
「農具置き場に立てかけてあった農具が倒れてきたみたいだ。騒音と悲鳴に気付いて行けば、姉貴が倒れていた」
納屋にはここ最近毎日のように行っているが、危険性のある農具はきちんと壁に固定されるはずだ。それが倒れてくるなんて。
「何でも資材などが頭上から落ちてきたらしい」
ジグルドの言葉にノクティアとソフィアは絶句する。
上から物が落ちてくる。そんな事があるだろうか。あの納屋に二階はない。棚は幾つもあるが、そんなに物がギチギチに詰められている訳でも無いし、物が倒れてくる事は考えにくい。
これまでの事を考えると、誰かからの嫌がらせとしか思えなかった。
……しかし、こんな事は随分と久しい。
また自分のせいで誰かが傷ついた。ノクティアは悲痛な表情を浮かべるが、今はそんな事に悔しがっている場合ではない。傷を洗って止血を……とにかく動かなくては。
ノクティアは急ぎ、部屋から足の止血をできそうな長さのあるリネンと、傷口を洗い流すために水差しを持ってきた。
「ジグルドさんお願い! 執務室に居る旦那様にお知らせして。そしてお医者さんを!」
ソフィアの指示にジグルドは頷き、急ぎ本邸へと走って行った。
相当痛むのだろう。イングリッドは玉のような汗をかいて、歯を食いしばって呻いている。
こんなに苦しんでいるのが、いたたまれなくて仕方ない。どうにか少しでも楽にできないか……そう思ってすぐにノクティアはハッとする。
「イングリッド、目を開けて。私の目を見て、お願い」
その言葉に促されて、イングリッドは瞼を持ち上げる。やがて、雪を降らす雲にも似た潤んだ灰色の瞳としっかりと合わさった。
(イングリッド眠って……痛みを忘れていい。今はゆっくりと眠っていて)
祈るように願うようにノクティアはイングリッドの手を握って、心で唱える。
すると、彼女の瞳は細まり──スッと眠りに落ちた。
この洗脳を使うのは随分と久しぶりだ。気が動転している時にまともに使えた試しが無いが、今回は成功した。ノクティアはホッと胸を撫で下ろすが、早く止血など最低限の処置をしなくてはならない。
「ノクティア様、今のは……」
ソフィアは驚いた表情でイングリッドの頬に振れながら聞く。
「洗脳だよ。私の名が持つ魔女の力の一つ。ここの使用人に使った事もあるからソフィアは知ってるよね。暫くは眠ってるはずだよ」
苦しそうな表情が和らいだ事だけでも安心した。その合間にノクティアとソフィアは止血の処置を行った。
傷はなかなかに深い。止血をしても血は後から後から滲んでくる。
イングリッドが歩けなくなってしまったらどうしよう。立てなくなってしまったらどうしよう。焦燥と不安が燻り、涙が滲みそうになる。
しかし、もしもソルヴィを癒やしたあの力を借りられるとしたならば……。願わずにいられなかった。
ノクティアは中庭をぐるりと眺める。
「ねぇ! この庭にも居るの! 木の精霊でも花の精霊でも土の精霊でも何だっていい。私に癒やす力を貸して! イングリッドを助けて」
──お願いだから! 強く願い、イングリッドの傷に手を当てたその時だった。
ノクティアの周囲には淡い緑に薄紫、薔薇色……と光がふわふわと漂い始めた。
その光は、イングリッドの傷を照らし癒やしていく。次第に滲み出る血液は止まり、その傷は段々と塞がっていく。
そうして一段と光が眩い程に輝いた途端──甲高い高い囁きがノクティアの耳元を擽った。
〝純粋な子、ちょっとしたお礼よ〟
〝優しい子、少しくらい力になれたかしら。いいわよ、いつだって力になってあげる〟
〝私たちあなたたちが大好きよ〟
──心地よい恵みの夜。と、クスクスと笑って光はスッと消えていった。
今のはいったい。ノクティアが目を瞠るも、その隣でイングリッドの傷跡を見るソフィアは唖然としていた。
「奇跡みたいです……」
ソフィアは目を丸くして、イングリッドの血痕を拭う。ソルヴィの時よりもその完治度は高い。確実に傷は塞がっており、かさぶたができ始めていた。打撲痕は赤から紫に黄色が混じる状態に変わっていて……明らかに治癒が進んでいる。
「ノクティア様。これじゃあ魔女というより……」
魔女というより何だろう。ノクティアは首を傾げる。
「ワタリガラスを従えている時点でどこからどう見ても魔女でしょう。だって呪うの上手だもの」
自分への反動が酷いけど。なんて自嘲気味に言ってすぐに、目の前で青白い蝶が舞い、やがて二羽のカラスに変わる。
『ノクティア。貴女……私たちの想像を越える規格外ですよ』
『うーっすノクティア、おまえ、なんか、その。すげぇな……』
その大人しい方の侍女のねーちゃんの言う通り、おまえさ〝魔女じゃない何か〟に変わり始めている気がする。
スキルとヴァルディはむずむずと羽毛を膨らませて首を傾げて顔を見合わせていた。
「それって良い意味で? 悪い意味で?」
二羽に聞くと『悪くない』と声を揃えて言う。
『ノクティア。今の貴女は普通の人間と同じくらいに魂は修復されています。それに、光が……』
『そー、なんかさぁキラキラ光ってるもんが、ちょっとだけど見えんだよなぁ』
その光は瞳にも似た淡い紫、ヒースの色。角度によっては金に煌めいているのだという。
しかしそう説明されても、自分には魂なんて見えない。前もそんな事があったな……とノクティアは思い出す。
やはりあれもあの晩秋の日。ソルヴィがヒグマから守ってくれた時。あの時はボロ雑巾のようだとか、どぶ川のように濁っているだの言われた気がするが……。つまり、格段に良くなっているには違わない。光が少し見えるなんて悪いようには思えなかった。
「そっか……悪くないなら良かった」
安心してノクティアは微笑んだ。
しかし、やはり自分が理由して誰かに災難が降り注ぐのは最悪な気分だった。眠ったままのイングリッドを見つめてノクティアはため息をつく。
今はもう、復讐してやろうとは思えない。復讐は負が連鎖する。ろくな事が無いと分かった。
それでもできる事なら犯人は特定したい。陰湿で卑劣な行為はやはり許しがたい。
しかし決定的な証拠が無ければどうにもならない。ソルヴィと話し合い、犯人をあぶり出し懲らしめる手段を考える方が良いだろうか。ノクティアは頤に手を当てて眉を寄せた。
※
本邸の一室からは、離れの庭が見える。
フィルラは筒状の望遠鏡を覗き、窓辺で目を細めていた。その少し後ろに、侍女のスキュルダがしゃんとした姿勢で控えている。
「あの赤毛。姉の方が怪我をしたようね。成功したようですスキュルダ」
「はい奥様」とスキュルダは恭しく答えた。
夫が婚前の恋人との間に拵えた子……庶子の事は仕方ないにしても、その仲間の貧困街の者を招き入れるなどやはり気分が良いものではなかった。
いくら領主とはいえ、許せない。確かに騎士として階級が高いにしても、家柄的には低いのだそれも次男で。頭でっかちの青二才。あんな庶子に愛情など持ち馬鹿馬鹿しい。フィルラは心底呆れていた。
しかし……今不審なものを見たかもしれない。
何も無い場所から突然、二羽のカラスが現れたように見えた。
苛々としすぎて変な幻覚でも見てしまったのだろうか。フィルラは眉間を揉み、望遠鏡をスキュルダに手渡した。