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終章

終 ノクティア・ヘイズヴィーク

 国の各所機関までもが動いたヘイズヴィークの大事件から早い事、三年の月日が流れた。

 季節は長い冬を終え春に。ノクティアがヘイズヴィーク領にやってきて、早いこと五年近い月日が流れた。


 バスケットの中には、サンドイッチに甘い焼き菓子、果物などの軽食。調理場の使用人からそれを受け取ったノクティアは礼を言って離れに戻る最中だった。


「おや、ノクティア様お出かけですか?」


 声をかけたのは、エイリクだった。彼は、にこやかに笑むのでノクティアもつられるように微笑んだ。 


 ……エイリクはあの事件の際、重傷を負い随分長い事入院をしていた。


 完治は難しく歩行困難の障害が残るかも知れない。そんな風に言われていたが、元騎士という根性もあるのだろうか。歩行訓練を繰り返し、彼は今では不自由なく動けるまでに回復した。

 そんな彼は今現在も使用人頭を務め、この屋敷の使用人たちをまとめて教育を行っている。


「そうなの。今日は天気が良いから、ソルヴィとお昼はお外で食べようって約束しているの」

「そうですか、いつもの場所ですかね? 馬を出して送りましょうか?」


 訊かれるがノクティアは首を振る。


「折角ヒースが綺麗な季節だもん。ゆっくり歩いて向かおうと思うの」


 そんな風に言うと、彼は微笑み、ノクティアはその場を去った。 


 そうしてノクティアは一度離れに戻る。ドアを開ける同時「わぁ!」と足下に小さな男児が抱きついてきた。

 自分と同じ白金髪。そんな子どもはぱっと顔を上げると、夫と同じ蜂蜜のような金の瞳を輝かせる。


「ママ! かーかーと遊ぶの飽きた!」


 そう言う子どもを抱き上げて、ノクティアは呆れ笑い。

 かーかー。子どもが示す存在にノクティアは視線を向けると、二羽の白いカラスはソファの背もたれの上で伸びきっていた。


 部屋の奥の方でソフィアもぜいぜいと息を吐いて「ノクティア様ぁ」なんて泣きそうな声を上げている。


 ここ最近〝少しだけ見ていて欲しい〟といってこれだ。ノクティアは猛獣騎士の血を半分分けた我が子の体力のすさまじさに苦笑いを浮かべる。


 息子の名は、ルグナル。

 ルーンヴァルドの言葉で勇敢な月夜の戦士を意味する。

 生まれたのは、真冬の満月の深夜。その日見た月は、ソルヴィの瞳のように蜂蜜のような琥珀色。生まれた子も同じ瞳なので、そういった由来だった。


 そんな息子は、現在二歳と数ヶ月。何でも口に入れたい年頃だ。羽根を食まれたのだろうか。ヴァルディの羽根は涎でべたべたになっていた。


『ノクティアぁあ……やべぇよ、生後たった二年そこいらでおまえの息子どんどん旦那に似てきてんぞ、追うのが早い』


 まぁ旦那は僕の羽根は食べないが。と、ヴァルディは苦笑い。


『旦那様に似て逞しくなってくれそうですが』


 なんて、スキルは笑い声を溢していた。


 そんな二羽の近くでマリィローサはクスクス微笑み『ルグ良い子、とても元気』と鈴が鳴るような愛らしい声で言う。


 開花と誕生から半年ほどでマリィローサは喋るようになった。しかし驚かされたのは、約二年前に生まれた自分とソルヴィの息子に実体を持たないマリィローサの存在が見えている事だった。


 マリィローサは二羽のワタリガラスとは違い完全な自然霊だ。神秘の力も持つリョースでも見えない。

 この旨を今現在、二つ先の領地の修道院に拠点を置くリョースに手紙を送って訊いてみれば、〝穢れと曇りの無い心を持つ子どものうちは見える事もあるだろうか〟と。


 そして、息子ルグナルを妊娠したばかりで、起きたあの事件で恐らくマリィローサがノクティアの母体を守り続けた事もあって、繋がりを持ち見えるのではないのかとの説を言っていた。


『ノクティアに寄り添っていてくれたのね』

『ノクティアとおなかの子を守って癒やしてあげてちょうだい』

 処刑場の鉄格子の中に監禁された時にスキルが思えばそんな事を言っていた。なので、きっとその時から関係深いのだろうかとも思う。


そんな彼女はルナールを「ルニ」と愛称で呼び、ルグナル自身もマリィローサだけに関しては「マリィ」と呼んでいた。 


 そもそもマリィローサの生まれた蔓薔薇自体が、自分の父母にそして敬愛した花の賢女から譲り受けた苗木など、とても縁がある。

 目に見えない不思議な縁というものは確かにこの世界に繋がっている。そんな風に思いつつも、ノクティアは待ち合わせをすぐに思い出した。


「さ、もうお昼になっちゃう。ルグナル、パパがお腹を空かせていると思うからもう行こう! ソフィア。私、ちょっとお出かけしてくるね」


 そう言って、ノクティアは片腕で息子を抱いたままウッドデッキから出る。ソフィアは赤い新芽を付け始めた蔓薔薇のアーチまで見送ってくれた。



 ……侯爵家はこの三年で随分と変わった。フィルラ派の使用人の多くが捕縛され、その後の裁判で離島の労働に駆り出されたなどと聞いた。

 イングルフ派の使用人は半数以上が戻ってきた。戻ってきたが残りは初老も近づく年齢を理由に、そのまま退職してしまった。


 そう。この屋敷はあれ以降、人員不足だった。屋敷自体の管理にどうしても使用人は必要で、住み込みの求人を出したところ、新たな使用人は少しずつ増えつつあった。 


 ノクティアの周りにも当然変化はあった。


 ソフィアは現在も屋敷にこうして残っているが、彼女は昨年結婚した。夫のジグルドは、当主の側仕えという事もあって、二人とも現在もこの屋敷の敷地内で暮らしている。


 片や、イングリッドは一年以上前から休職している。 

 そんな彼女は現在、麓町にアーニルと暮らしており、この春、女の子を出産した。


 アーニルはヘイズヴィークを拠点として、現在は時折王都との往復をしながらも、ヘイズヴィーク近郊の自警団の育成などに力を入れていた。というのも、あの事件でこの近隣地域の自警団も崩壊していたからだ。


 だが、貧しく汚れた箇所こそ、原石が隠れている。

 そんな部分に目を付けた彼は、ソルヴィとともに協力し、貧困者の雇い先を作る他、自警団への勧誘を行っていた。


 そして、ノクティアやイングリッド、ジグルドの育った場所。ルーンヴァルドの汚点とも呼ばれる道無き者たちの吹きだまり──ロストベインは解体されつつあった。 


 ヘイズヴィークはフィヨルドの海に面している。漁業も盛んな事から、冬期の保存食を作るべく、缶詰工場を設立し労働者を雇い始めた。

 そこで積極的に勧誘し雇ったのが、貧困街出身者たちだった。そして若く、体力ある男たちを自警団へと宛がった。


 年寄りに関しても、できるだけ雇用を増やそうと、ソルヴィとアーニルは教会省にも協力を仰ぎ、ルーンヴァルド各所の修道院の畑の管理の手伝いや若き修道女や修道士たちの相談役などといった役を置いた。


 他に生きる道が無かった。だからこそ道を作った。たったそれだけではあるが、侯爵や聖騎士にここまで手厚い待遇を受け、彼等は徐々に真っ当な人間に戻りつつあった。


 また三年前の事件の事もあって、ノクティアは現在、教会省と密接な繋がりがあり、こういった話をリョースから手紙でよく聞いていた。 

 貧困街の入り口で当たり屋行為を散々にしていたお婆さんが意外にも修道女たちから大人気だとか。 


 また、エリセ……否、エルザも元気にしているらしい。


 彼女は、リョースの付き人にはなっているが、孤児院でも仕事をしているそうで、孤児たちに文字の読み書きを教えていて、教師として慕われているそうだ。

 笑顔も増えて、本来の彼女の素直な優しさが見えると彼は綴っていた。


 ノクティアとルグナルは屋敷の裏手の丘陵をゆったりと上る。そこは一面に淡い紫のヒースが咲き乱れていた。

 なだらかな丘陵で上るのはそこまで辛くは無い。それに自ら歩きたいとルグナルが降りてくれたので、ノクティアは息子の小さな手を握って歩んだ。


 ややあって目的地へと辿り着く。そこは、ヘイズヴィークのフィヨルドの湾を望む場所。侯爵家の墓地だった。

 代々の領主がそこには埋葬されているが、二つだけ海とこのヒースの丘陵、侯爵家を見下ろすように外れに隣に寄り添うように真新しい石碑が建てられている。


 そこにはイングルフ・ヘイズヴィークとノクティアの母、リルフィアの名が刻まれていた。


 この墓標はソルヴィとエイリクが建ててくれた。

 埋葬する場所もなく海に沈み、ヘルヘイムに向かった母の墓。そしてヘルヘイムで娘を案じ続けて生かして欲しいと泣いて頼んだ父の墓を。

 ノクティアはその墓標の前で祈る姿勢を取ると、隣でルグナルも同じ姿勢を取った。


 そうしてややあってだった。丘陵から誰かが、こちらに上ってくるのが見えた。しかしもうその背格好だけで分かる。


「パパだ!」


 おかりなさい! と、そう言って叫ぶなり、ルグナルは駆け出し、ソルヴィのもとへ向かうと抱き上げられた。


 蒼天の青と、海の青、淡い紫の花の景色。母が愛した全て。そして母と父が叶えたかった夢が今自分の手の中にある。

 息子を肩車して丘陵を上ってくるソルヴィはノクティアに手を振った。


「ノッティ! ただいま!」


 愛を教えてくれた人は、何年経っても相変わらず愛おしげに自分を呼ぶ。泣きそうな程に幸せな今を生きている事にノクティアは微笑み、手を振ると彼の元へ駆け寄った。

---


 ──ノクティア・ヘイズヴィーク。

 侯爵の庶子として生まれ、愛を怯えた彼女は、冥府の女神に愛されたヒースの聖女として、食器の絵付け作家として、ヘイズヴィークの民たちに愛された。

 彼女のその後の人生は、家族愛、友愛……と、多くの愛に溢れたいたそうだ。


「私はね、誰も愛さない筈だったの。なのに、あの人があまりに健気で素敵なんだもの」


 ……若かりし日は、それはもうヒグマのような旦那様だった。雄々しく強く頼もしい。この国でヒグマという生き物は、森そのものの化身とも喩えられる。

 そう、あの人は深い優しさのある人。夫のソルヴィは私の愛しい〝猛獣騎士〟と。

 年老いた彼女は、孫たちにそんな風に語って優しく微笑んでいたらしい。



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