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第八話 【一条善樹】作戦

そばで見てて

 誰もいない殺風景な下宿先の部屋に帰り、玄関の扉を開く。ひゅっと風が吹き抜けて、善樹は目を瞠る。


「ただいま」


 ……。

 誰からも返事はない。当たり前だ。善樹は大学生になってからずっと一人暮らしだ。風磨と共に生活をしていたと思い込んでいただけで、自分はずっと一人だった。

 洗面所へ向かい、石鹸で手を洗う。鏡に映った自分は紛れもなく自分でしかない。風磨が亡くなってから、鏡や窓に映った自分の顔を見るたびに、彼がそばにいる気がしていた。それくらい、善樹と風磨は顔がそっくりで、両親に間違えられることも多かった。


「まさか自分が、間違えるなんてな」


 滑稽な過去に苦笑する。

 風磨、お前もおかしいだろ。

 僕のこと、ずっと馬鹿なやつだって思ってただろ。そっちで笑ってるんだろ。

 お前はさ、なんでRESTARTで働きたいって思ったんだろうな。


「なあ、教えてよ」


 鏡にそっと手を伸ばし、映り込んだ頬に触れる。つるりとした感触が生々しく、今彼がここにいない現実を善樹に突きつけた。


「もし本当に風磨がRESTARTの人間にやられたんならさ……兄ちゃん、闘わなくちゃいけない。見守ってくれる?」


 たった数分の出生時刻の差で兄や弟だなんて、馬鹿馬鹿しいと思っていた。

 それでも、風磨から「兄貴」と呼ばれるたびに、自分は兄なんだ、兄として弟を守らなければと使命感を覚えたのは事実だ。風磨が周りの人間から理解されなくったって、自分だけは絶対に見捨てたくない。血を分けた双子のことを、自分だけは理解したいと切に願っていた。だから彼がピンチの時は必ず駆けつけたし、何か悩んでいることがあったら共有してほしいと思った。宗太郎たちに言わせれば、それも偽善なのかもしれない。

 でも、それでも僕は。風磨のことを守りたい。今も昔も変わらず、風磨は大切な弟だから。


「風磨、お前が僕を兄にしてくれたんだ」


 不甲斐ない兄かもしれない。勉強ばかりで、人の気持ちを分かってやれない人間なのかもしれない。

 でもさ、たった一人の弟のことぐらいは、分かりたいと思うんだ。

 鏡の中の自分の顔が、切なく歪むのが分かった。瞼の裏が湿り気を帯びている。成人してから、涙を流すことなどなかった。淡々と、目の前のやるべきことをこなす日々に、心を強く揺さぶられることがなかったのだ。風磨が亡くなった時は、信じられない気持ちでいっぱいで、空っぽになった心が、泣き叫ぶことさえしなかった。


 一緒に闘ってくれる?

 先ほどの美都の言葉が頭の中に強く思い浮かぶ。

 闘おう。美都や、仲間と共に。大切な弟のために、自分は立ち向かうのだ。たとえ相手が大企業だとしても、尻込みなどできない。美都たちと約束したから。


「そばで、見てて」


 絶対に気のせいだと分かっているつもりなのに、風磨が背中をぽんと押してくれているような気がしてはっとする。守られているな。風磨に対して初めてそんなふうに思った。


 シャワーを済ませ、部屋に戻ると余計なことは考えずに電気を消した。マンションの下ではブーンという車のエンジン音が今なお鳴り続いている。眠らない東京の街。今日も忙しなく過ぎていくいつもの一日であったはずなのに、善樹の周りだけが四角く切り取られているような気がした。これから立ち向かうのは孤独であって、孤独ではない。目を閉じて、瞼の裏に浮かぶ美都のまっすぐなまなざしを、記憶に刻みつけるようにして眠りについた。



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