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山濤3  おべんと少ねぇ

武帝ぶていさま、山濤さんとうに食物を送ることがあった。

が、その量が毎回とても少なかった。


この故事の理由について、

謝安しゃあんは家の者に聞いて回った。


すると甥の謝玄しゃげんが答える。


「山濤の食が余りにも細かったから、

 じゃないでしょうか。

 それで武帝の感覚としても、

 その食物の量が少ないと

 感じないようになった、とか」




晉武帝每餉山濤恒少。謝太傅以問子弟,車騎荅曰:「當由欲者不多,而使與者忘少。」


晉武帝の山濤に餉れるは每に恒に少なし。謝太傅は以て子弟に問う、車騎は荅えて曰く:「當に欲せるの由の多からざれば、與えしむるの少なきを忘れる」と。


(言語78)




謝玄

淝水ひすいの戦いにおいて、伯父の謝安と共にまず名前が出てくる。経歴を追うと桓温かんおん直系であり、即ち「西府軍」系の人脈を持つのだが、淝水の戦いにおいて謝玄が率いたのは「北府軍」であった。即ち割と謝玄はぽっと出の指揮官であった。にもかかわらず淝水前哨戦で「おかしいぞ、北府軍強くねえか」と前秦軍に言わしめている。「名族の親戚なんだしお飾りのぼんぼんなんでしょ?」と言う疑いをかけていたこともあったのだが、何やらただ事でない統率力の持ち主ではあったようだ。

そしてここでは、陳郡謝家の令息らしい機知も見せている。文武両道、こわいこわい。


これ、武帝と山濤の関係を謝安と謝玄の関係になぞらえてるっぽいね。山濤は司馬昭の簒奪直前に曹氏の監視役としての任を得ていた。そして謝玄ひすいは淝水の大都督の任を謝安より任ぜられた。「身内に対して絶対の忠誠をもって任務を果たしました」という対比マッチングのおはなし、でしょうかね。

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