居間に戻ったオレは、大きく空いた壁の穴を見て頭を搔いた。これの処置をどうするか考えただけでも頭が痛くなった。
とりあえず、ビニールシートでも被せておくか。
そんなオレの心境など知ってか知らずか、レラは居間の惨状を見回すと、大袈裟に驚いた声を上げながら、まるでウサギの様にピョンピョンと跳ね回ってはしゃぎ始めた。
「うっひゃあ!? 師匠、一人暮らしだからって、ちょっと気が緩み過ぎだよ? 散らかり過ぎて、まるでオークでも暴れ回った後みたいだね」レラは他人事のように嬉しそうにケラケラと笑って見せた。
そうだね。確かにレラ、お前さんの言う通りだ。壁には大穴が空き、テーブルはひっくり返り、床には割れた皿の破片が散乱していた。まるでゴブリンの襲撃にでも遭ったかのような惨状だ。いや、壁に穴を空けるなんて芸当はゴブリンには無理だろうから、お前の言う通り、オークかオーガあたりが暴れ回った可能性が大だ。そう、事情を知らない者ならば誰しもがそう思うだろう。
「お・ま・え・が、やったんだろうが!?」レラを真正面から捕まえると、握り締めた二つの拳でレラのこめかみをグリグリしてやった。
「痛い痛い痛い! 勘弁っすよ、師匠! 笑ったりしてごめんなさい!!!」ぎゃああああ! と泣き叫ぶも、懲らしめる為にもオレは力を緩めずレラにお仕置きをし続けた。
へえ、これは意外だ。レベル10のオレの攻撃がレベル999以上のレラに通じている様に見えるぞ? 痛そうに顔を歪めながら、悲鳴を張り上げている。どう見ても演技ではなく本気で痛がっている様だった。
これは良いことを知った。ならば、もうちょっとだけお仕置きをしてやろうか。
一応、オレたちの間には師匠と弟子という上下関係が存在しているのだ。ここで甘い顔を見せていては、いずれ見くびられる原因になるだろう。ここは心を鬼にして、もっとレラの悲鳴を聞いてやることにした。
一つ勘違いしないでもらいたいが、オレは別に美少女の悲鳴や喘ぐ声が聞きたかったわけではない。あくまで、これもしつけと修行の一環なのだ。そう、自分に言い聞かせた。
「師匠! もう悪ふざけしないから、許してください……お願いだよ」涙ぐむと、喘ぐようにレラはそう呟いた。
おっと、ちょっとやり過ぎたか? ここで泣かれでもしたら色々とまずい。仕方がない。ここらへんでお仕置きは勘弁しておいてやるか。
「分かればよろしい。でも、お前が鎧兜を脱いだだけで、まさか部屋がこんな惨状になるとはな」オレはレラから手を離すと、周囲の惨状を目の当たりにして再び深く嘆息した。正直、どうしていいか考えもつかず、途方に暮れた。
「まあ、起こってしまったことはしょうがないね。頑張ってお片付けしましょ、師匠」
それをお前が言うのか? 一瞬、怒りが込み上げてきたが、これ以上、調子に乗ってレラを折檻するわけにはいかない。万が一、逆上して反撃でもされたら、たった一発のパンチをもらっただけで、この脆弱な肉体は砕け散ってしまうだろう。もしかしたら、粒子分解してしまう恐れもある。それだけ、オレとレラのレベル差は圧倒的だった。むしろ、同じ次元で考えてはいけないかもしれなかった。
「とりあえず、レラはその鉄の塊をどうにかしろ。家の表の何処でもいいから片付けてくれ」床に転がった兜などの魔王装備シリーズを指差しながら、オレはレラにそう指示した。
「了解しました、師匠!」そう言って、レラは鉄塊のごとき兜を片手で軽々と持ち上げた。
なんという馬鹿力か。あ、そっか。こいつは、この鉄塊をフル装備して平然と動いていたんだった。オレなら持ち上げようとしても、一ミリたりとも動かすことは出来ないだろうな。やっぱり、こいつは愛らしい見た目とは違って化け物だ。
そんなことを考えながら、ひっくり返ったテーブルを元に戻そうと前に進んだ時だった。
「オワッ!?」突然、浮遊する様な感覚を味わった後、一瞬でオレは謎の空間に落下した。
足から下に落下した後、鉄の塊のようなものに全身を打ちつけ、激痛が全身に走った。
いったい、なんだというんだ、この穴と鉄塊は!? 痛みを堪えながら、薄暗い足元に目を凝らした。
よく見ると、それは魔王の鎧であった。そこでハッとなり思い出した。
そうだった。確か、目覚めた時にも確認していたのだが、レラの着ていた魔王の鎧が床を突き抜けて下に落ちていたんだった。
これはうっかりだった。つい、そのことを忘れて穴に落ちてしまったらしい。
「師匠、大丈夫っすか!?」
「ああ、大丈夫。問題ない」本当は腹部を思い切り打ってしまい、激痛にのたうち回りたかったが、レラに心配かけまいと虚勢を張って見せた。
「ボクの手につかまって」そう言って、レラは手を差し伸べて来た。
オレは素直に好意に甘えると、レラの手につかまった。小さいが皮膚は固くゴツゴツしていて、手のひらから力強さが伝わってきた。
レラはオレの手を握り締めると、ひょい、と軽々とオレの身体を持ち上げて、一瞬で上に引き上げてくれた。
「一瞬、死んだかと思っちまったぜ。いやー、ビックリした」ははは、とオレは誤魔化すように笑って見せた。
「あれ? 師匠? それはなに?」レラはオレの右手を持ち上げると、覗き込むように右手の甲を見つめて来た。
「ああ、これか? 見た通りただの霊子結晶だよ」
オレの右手の甲には霊子結晶が埋め込まれていたが、そこに光は無く、完全に機能を停止していた。
「霊子結晶? あれ? でも、師匠の霊子結晶って左手の方になかったっけ?」
「言っていなかったっけ? オレは霊子結晶を二つ持っているんだ」そう言って、レラに左手の甲に埋め込まれた霊子結晶を見せた。それは右手にあるものとは違い、オレンジ色の光が静かに明滅していた。これはステータス機能が待機している状態で、起動すればオレンジ色から青白い光に変化する。見たところ、霊子結晶に異常は見られなかった。
「うーん、確か霊子結晶って一個しか出現しないんじゃなかったっけ? それはボクの記憶違いなのかにゃあ?」目を点にして首を傾げて見せた。頭の上に疑問符が浮いているのが見えた。
「ああ、そうだよ。普通のハンターなら霊子結晶は一つしか持っていないはずだ」
そう、レベルやランクに関係せず、普通のハンターならば、の話だ。どうやらオレは、その普通の中には含まれていないらしい。
「なら、どうして師匠は二つも持っているの?」
「それは女神にでも聞いてくれ。十年前の覚醒戦争の時に覚醒した時からあるんだからな」
その理由はオレも知りたいくらいだ。何故、女神はあの時、オレにだけ二つも霊子結晶を授けたのだろうか。しかも、最初から壊れて動かないときている。意味ないじゃん、それ。
「へーえ、お得だね」ふふ、とレラは嬉しそうに微笑んだ。
お得って、お前さんね。スーパーのバーゲンセールじゃないんだからさ。
「でも、こっちの霊子結晶は最初から機能を停止しているみたいで、なにをしても動きやせん。これもバグの一つだろうよ」
ハンターは覚醒した証として、必ず一つだけ霊子結晶が身体の何処かに出現する。それは一人につき一つしか出現した記録は無く、二つ以上霊子結晶を持ったハンターの事例は確認されていない。
そう、オレを除いて、ではあるが。
普段、オレはそのことを隠す為に、外では右手だけ手袋をはめている。この事実が明るみになったところで別にどうというわけではないのだが、バレたらバレたで相当面倒なことになるのは明白だった。多分、検査と称してハンター協会に拉致されて、身体の隅々まで調べ上げられるに違いないのだ。
元々、オレはレベルの上限がたったの10というバグだらけの存在なのだ。これ以上、自分の悪評を広めるのだけはごめんだった。
「へーえ、霊子結晶を二つも持っている人を始めて見たのにゃあ。流石はボクの師匠。なにからなにまで規格外なんだね」
それ、ちょっと引っかかる物言いだね? もしかして、規格外と書いてバグと読むのかな? まあ、否定はしませんけれどもね。
「二つあっても、動かなければただの石ころだよ。使えないなら邪魔だし、いっそのこと剥ぎ取ってしまおうか?」
「流石にそれは止した方がいいと思うよ? なにが起きるか分からないし」
「分かっている。冗談だよ、冗談。誰がそんな恐ろしいことをしますか」
「それが賢明だね」
その時である。頭上から軋むような音が聞こえるのと同時に、オレは頭に強い衝撃を受けた。
なにが起こった!? 頭に激痛が走り、オレはとっさに手を額にあてた。すると、手のひらに生暖かい感触が広がった。何事かと額に当てた手を見てみると、そこに血がべっとりと張り付いていた。
視線を落とすと、天井にぶら下がっていたはずの照明器具が床に落下し、蛍光灯が砕け散っているのが見えた。
どうやら、落ちた照明器具がオレの頭を直撃したみたいだ。運が悪いことに額を切ってしまい、それで大袈裟に出血してしまったらしい。ドロドロと血が溢れ出しているみたいで、生暖かい血が頬を伝い、床にポタポタと落ちていくのが見えた。
今日は朝からついてないな。乾いた笑みが口から洩れた。
「うぎゃああああああ!!! 師匠が、師匠が死んじゃうよおおおおおおおお!!?」レラの絶叫が室内に響き渡った。
見ると、レラが顔を蒼白させながら酷く狼狽えた様子を見せていた。
どうやら、オレの額の出血量を見て驚いてしまったみたいだ。
でも、この程度の傷、ダンジョン内なら日常茶飯事だろうに。むしろ、傷の部類にすら入らない程度のものだ。見た目ほど酷い状態ではない。ただ、これがもし戦闘中ならば、出血によって視界が遮られ、戦闘に支障をきたしていただろう。でも、ここはダンジョンではない。オレの家の中なのだ。幼いながらもベテランハンターだってのに、ちょっと狼狽え過ぎじゃないですかねぇ?
「落ち着け、レラ! 全然大丈夫だから! こんなの、ヒールをかければ一発で治っちまうよ」
「ヒール? そうだ、早くヒールをかけなきゃ!!!」そう言って、パニくった状態で、レラは何故か両手をオレにかざしてきた。
その瞬間、オレは時間が静止したような錯覚を受けた。目の前に、大きな鎌を持った死神の幻影を垣間見た。最悪の事態が脳裏を過り、全身が凍り付いた。
「ちょ、おい、待て。お前、まさかオレに
「ヒールレベル1。死なないで、師匠!!!!」レラの両手から、ドス黒い瘴気の様なマナが溢れ出した。
いや、まさに、お前に殺されそうになっているんですけれども!?
次の瞬間、レラの両手からヒールという名の消滅魔法が放たれた。
「あれ? もしかして、オレってば、ここで退場するのかな?」走馬灯を垣間見た後、オレは静かに呟いた。
ドス黒いマナがオレの全身を包み込んだ直後、爆音が轟いたのであった。