イーリスの都に到着したルルイエたちは、一番賑やかな通りに宿を取った。
ヘグンは、とにかく他所から来た旅行者の多い場所にいることが、重要だと言ったのだ。
都までくれば、アイラの民への敵意はずいぶんと減ったように見える。だが、まったくないわけではないし、魔力を持つ者に対する忌避感は、アイラの民への敵意への何倍も強いのだという。
「あなたは、聖女であって魔法使いではないと言うかもしれないが、イーリスには聖女という概念自体がないので、それもまた魔法とひとくくりにしてしまうだろう。なので、なるべく人の多い場所で過ごし、出かける時には、私かラスを同行するようにして下さい」
ヘグンは、宿を決める前、厳しい口調で告げたのだった。
そんなわけで、ルルイエたちが泊まった宿は、多くの旅人で賑わうかなり大きな宿屋だった。
いつもどおり、ルルイエとジャクリーヌは二人で一つの部屋を取り、ヘグンとラスも同じく二人で一つの部屋を取った。だがその部屋は、これまで宿泊したどの宿よりも広くて、調度類の品質は良かった。
ルルイエもジャクリーヌも、エーリカではそれなりにいいくらしをしていたこともあり、調度の品質などは一目でどの程度のものか理解できる。とはいえ、これまではさほど気にしたこともなかったが、今回ばかりは、どちらも目を見張ったものだ。
そうやってひとまず宿に落ち着いた翌日、朝食のあとにルルイエは言った。
「わたくしはこのあと、昔母と住んでいたあたりに行ってみようと思っています。下町ですから、あのころいた人たちが、今もまだくらしている可能性は高いと思うのです」
「下町……ですか。はっきりと住所などは、わかっているのですか?」
ジャクリーヌが尋ねる。
「そこまではっきりしているわけではないですが、たしか都の東側だったと記憶しています」
「東側というと、貧民街ですね」
ルルイエの返事に、ヘグンが言った。そして彼は続ける。
「今私たちがいるのが中央の目抜き通りで、この通りを中心に西へ行くほど裕福な者たちの住居となり、東へ行くほど貧民たちの住居となります。都の一番西には城とそれを囲む広場があって、その周辺に城勤めの貴族たちの屋敷があります。対して、一番東は貧民窟――最下層の者たちがくらす、この街でおそらく、最も危険な地区です」
「記憶では、最下層とまではいかなかったと思います。外で子供ばかりで遊んでいたような記憶もありますし、危険な地域ならば、母がそれを許さなかったはずですから」
ルルイエは、記憶を探るように額を押さえながら、それへ返した。
「なるほど、わかりました。……では、私もお供します」
ヘグンはうなずくと、ラスをふり返る。
「おまえは残って、情報収集だ」
「はい」
ラスがうなずく。
そんなわけで、ルルイエとジャクリーヌはヘグンを護衛に宿を後にした。
ルルイエの記憶をたよりに彼らが向かった場所は、都の東区域の中央よりやや東寄りの、平民たちの中でもどちらかといえば貧乏な者たちがくらす地域だった。
通りはそこまで汚れてはいないが、住民たちは継ぎの当たったくたびれた衣類に身を包み、顔や髪などはちょっとすすけた感じだった。
とはいえ、旅の途中で立ち寄って来た村や町も似たようなものだったので、ルルイエとジャクリーヌはさほど気にしていない。
「あ……。たしか、このあたりです」
しばらくするとルルイエは言って、たしかな足取りで更に狭い小路へと入って行く。
やがて現れたのは、何軒かのボロ家が連なって建つ長屋だった。
「すごいわ。昔とちっとも変ってない……」
その建物を見やって、ルルイエが感嘆の低い声を上げる。
その時だった。
「セラ? セラディーナじゃないの?」
と、背後から驚いたような女の声がかかった。
ふり返ったルルイエの前には、三十半ばから四十代のどれとも取れる女が立っていた。
「あ……」
女はルルイエの姿に、虚をつかれた顔になる。
一方ルルイエは、小さく目を見張り、破顔した。
「リゼおばさん? 母の友達だった、リゼおばさんですよね。わたくし、セラディーナの娘のルルイエです。当時はルルと呼ばれていました」
言われて女は、まじまじとルルイエを見やる。それから、半信半疑の体で問うた。
「あんた、本当にルルなのかい?」
「はい!」
ルルイエは、笑顔のまま大きくうなずいた。
女は、ルルイエの母セラディーナの友人で、この近くで食事処をやっているリゼライエ――通称「リゼおばさん」だった。
ちなみに、この国に限らず、東方世界では平民たちは名前を略して呼ぶ習慣があった。
名前自体は子供が生まれた時に、家長や地域の長となる者がつけるしきたりだが、彼らは貴族に習って長い名前をつけることが多い。だが、格式を重んじることのない平民たちは、長い名前をそのまま呼ぶのはまどろこしいと、略してしまうのだ。
結果、セラディーナはセラ、リゼライエはリゼ、ルルイエはルルと呼ばれることになる。
ヘグンやラスも、実際にはもっと長い名前なのだが、普段はそれで通しているという。
それはともかく。
ルルイエたちは、リゼライエの食事処へと案内された。
ルルイエの方にも聞きたいことはあったが、リゼライエもそれは同じだったからだ。
リゼライエの店は、狭い小路の一番奥にあった。
店はまだ開店前なのか、それとも休みなのか、誰もいない。
厨房とカウンター以外には、椅子が四つずつ備えられた丸いテーブルが四つあるだけの、狭くて小さい店だった。
リゼライエは、カウンターの傍の席に彼らを案内すると、厨房に入ってお茶を入れる。
四つのカップを盆に載せて戻って来た彼女は、まずはルルイエにセラディーナの消息を聞きたがった。
ルルイエは、隠してもしようがないので、母がもう何年も前に亡くなったことを告げる。
「なんてこと……。他の土地へ行ったら、少しは楽をして長生きできるだろうって思っていたのに」
聞くなりリゼライエは、愕然とした顔で言った。
その彼女に、ルルイエは言う。
「母は、病気だったんです。伯母は手を尽くしてくれましたが、どうにもなりませんでした。……それよりもわたくし、おばさんに聞きたいことがあるんです。わたくしの父というのは、どういう人なのですか? 母はなぜ、わたくしを連れて、国を出たのでしょう?」
問われて、彼女はしばしためらっていたが、やがて立ち上がって入口に鍵をかけて戻って来ると、もとどおり、ルルイエの正面に腰を下ろした。
「セラが何年も前に死んで、あんたもこんなに大きくなったんだ。そろそろ、潮時ってやつだろうかね……」
呟くように言って、彼女は話し始めた。
+ + +
あんたの父親は、ランダ――ランダギアスといって、あたしやセラより二つ三つ年上だった。
もともとは、もっと東の方のセビーリアだったかの生まれで、父親は騎士様だった。ただ、何かいざこざに巻き込まれて、逃げるように国を出て、どんどん西へ移動して、イーリスにまでやって来たんだって話だった。
そのランダと知り合ったのは、あたしらが十六ぐらいのころだったよ。
親父さんは強面だったが、ランダは優しい顔のほそっこい男でね。あの長屋に越して来た時には、若い娘たちはみんな色めき立ったもんさ。
といっても、当時この長屋にいた若い娘ってのは、あたしとセラと、あとはもう嫁入り先の決まってるあたしらより年上の女が二人ぐらいで、その他はもっと年下の、半分子供みたいな連中だったけどね。
親父さんは騎士様だった経験を生かして、町の警備隊に入った。
ここの更に東は貧民窟で、ぶっそうな事件も多かったから、警備隊はいつも腕のたつ男を募集してたからね。
対してランダは、読み書き計算が得意だからって、もっと西側にある商人の店で働き始めた。
で、一年もしない間に、セラといい仲になって、所帯を持った。
そう、セラの姉さんって人が西方世界にいるって聞いたのは、そのころだね。
長屋に住んでたのは、セラとその母親だけだったから、姉がいたのかって驚いたもんだけど。
聞いたところじゃ、その姉さんって人は、もとは貴族だか商人だかの屋敷で働いて、母親とセラを養っていたらしい。それで、その屋敷に客として来た西方世界の商人に見初められて、嫁に行ったってことだった。
嫁入りに際しては、相手方からたっぷり支度金をもらったとかで、姉さんって人はその半分をセラと母親に残して行ったらしい。おかげで、病気がちの母親は家で養生しながらセラと二人、不自由なくくらしてられたんだ。
とはいえ、そんな遠くにいるんじゃ、何かあっても頼ることもできなじゃないかとは、思ったもんだけどね。
セラのお腹にちょうどあんたがいたころ、セラの母親が亡くなった。
セラにとっては辛いことだったとは思うけど、一人じゃなかったから、それは本当によかったとあたしらは思ったもんさ。
その後のセラとランダは、幸せそのものだった。
あんたは無事に生まれたし、そのあとも元気にすくすく育って行った。
実際、あんなことさえなけりゃ、今も彼女はここで元気にくらしていたのかもしれないと思うよ。
あんたが三つぐらいの時だったか。
ランダが、魔法使いだったと知れたんだ。
怪我をして、死にかかってる子供を魔法で助けたんだよ。
普通なら、周り中から感謝されて、めでたしめでたしで終わるような話さ。
けど、この国では、魔法使いは犯罪者と同じなんだ。
子供の親も、周囲で見ていた連中も、感謝したり喜ぶどころか、兵士を呼んだのさ。警備隊の者でもない、国に雇われて犯罪者を取り締まる、兵士をね。
ランダは、その場で捕縛されて連れて行かれて……その日のうちに、処刑された。
目抜き通りの広場で、まるで見世物のようにしてね。
そりゃあ、ひどいありさまだったよ。
そのあと、セラとあんたには、国の監視がつくようになった。
正確には、あんたが監視されてたんだと思う。
セラやその家族に魔力を持つ者がいないことは、ちょっと調べればわかることだからね。けど、あんたは、魔法使いだったランダの血を引いてる。だから、魔力を持ってるかもしれない。――連中はそう思ったんだろうね。
そしてセラはそのことに、耐えられなくなった。
「わたし、西方世界へ……姉さんのいるエーリカへ行こうと思うの」
セラがあたしにそう言ったのは、ランダが死んで一年ぐらいになるころだった。
「このままこの国にいたら、きっとルルもあの人みたいに殺されてしまう。……手紙で姉さんに相談したら、エーリカへおいでって言ってくれたの。姉さんは今、エーリカの聖女様で王妃様なんですって。わたしやルルの住む所ぐらいどうにでもなるから、おいでって」
セラはそう言ってた。
正直、商人の嫁になったはずの姉が、なんで聖女様とか王妃様とかになってるのかは、あたしにはよくわからなかったけど……たぶん、ここにいるよりはマシなんだろうってのはわかった。だから、賛成したよ。
そして、それからしばらくして、セラはあんたを連れて、ここを出て行ったんだ。
+ + +
リゼライエの話を聞き終え、ルルイエはいつの間にか詰めていた息を吐き出した。
母が、父の話をまったくしなかった理由が、少しわかった気がした。
「父の……父のお父さんという人は、どうなったんですか?」
ルルイエは、低い声で問う。その声は、少しかすれていた。
「そっちも捕らわれて処刑されたよ。異国人だし、魔法使いの親も魔力持ちかもしれないって疑われてね」
リゼライエは言って、小さくかぶりをふる。
「この国のお偉方は、徹底してるのさ。……そりゃ、あたしだって魔法使いは得体が知れないって思わなくもないが、ずっと東の方の国じゃ、尊敬されているんだし。なにより、ランダはいい奴だった。その時だって、自分が魔法使いだってバレるのもかまわず、子供を助けたんだ。なのに……」
唇を噛んで口をつぐむ彼女に、ルルイエもまたたまらず目を伏せた。
そのあとルルイエたちは、少しリゼライエと話して、そこをあとにした。
彼女の話によれば、最近はこのあたりも人が減って、長屋も住む人はいないらしかった。リゼライエの店は、今は夜だけ居酒屋として開けているのだそうだ。
人が減った理由は、やはり数年前の戦争のせいらしかった。
リゼライエの口ぶりでは、アイラと同盟を結びながら敵陣営に寝返ったことで、イーリス国内はずいぶんと大変だったらしい。戦争の終盤は、軍人だけではなく、貴族や平民からも強制的な徴兵が行われたそうだ。貴族の中には金品と引き換えに徴兵を逃れる者もいたが、平民の多くはそうしたすべを持たず、言われるままに出兵した。結果、多くの者が亡くなり、敗戦と共に国内は荒廃して行ったらしい。
そうした事情から今でも、イーリス国内には寝返りを画策した王たちに怒りをぶつける者たちと、アイラを恨む者たちがいるのだそうだ。
「ルルイエ様、大丈夫ですか?」
狭い小路を抜けたころ、ジャクリーヌがルルイエに声をかけた。
「大丈夫です。ただ、父の死の理由が思いがけないものだったので、驚いてしまって……」
ルルイエは、無理に笑顔を作ろうとしながら、それへ返す。
彼女自身も、漠然と父は幼いころに亡くなったのだろう、とは思っていた。
父の記憶自体、とてもおぼろげだったし、母とこの国を出た時にはもう父はいなかったのだ。
幼いころに、何度か父について尋ねた気もするが、母から答えをもらった記憶もない。
だから、リゼライエに父について聞きたいと言った時、覚悟はできていたつもりだった。
けれども、彼女の話は思っていた以上に、ルルイエに衝撃を与えた。
病や怪我で死ぬのと、罪人扱いされて処刑されるのでは、感じ方が違うのだと、彼女は知った。
それでも彼女は、ジャクリーヌとヘグンには笑顔を見せようとする。
ジャクリーヌは、そんな彼女を痛ましげに見やって、唇を噛んだ。
そんな二人に、ヘグンは殊更明るく声をかけた。
「目抜き通りに出て、どこかで温かいものでも飲みましょう」
「そうですね」
ジャクリーヌが、なんとなくホッとした顔でうなずき、ルルイエをふり返る。
「ええ、そうしましょうか」
ルルイエもうなずいた。
三人は、そのまま目抜き通りの方へと、足を向けた。