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第40話 喪失の重み

 王女には、何がどうなっているのか、理解できなかった。

 聖女宮の者たちは、誰もメノウのことを覚えていないのだ。


 あの日王女は、メノウが就寝の時間になっても姿を現さないことを、不思議に思った。

 いつもなら、かならず「おやすみ」の挨拶をしに来てくれるのに……と不満で、結局自分の方からメノウの部屋へと足を運んだ。

 ところがメノウの侍女たちは、メノウは客と晩餐の最中だという。

 客が誰かと問えば、ルルイエだと教えられ、王女は頭に血が昇った。

 自分へのおやすみの挨拶よりも、あんな女との会食の方が大事なのかと、腹が立ったのだ。

 それでメノウの食堂へ乗り込んでやろうとすると、おかしなことに、食堂の扉は開かなかった。最初は呼びかけても、返事すらなかったが、いきなり何かが破裂するような音が中から聞こえた。

 それで侍女たちも騒然となって、聖女宮を守る女騎士たちが呼ばれ、最終的には斧を使って扉を破って中に入る騒ぎとなった。

 食堂の中はひどい有様だったが、王女にとって衝撃だったのは、メノウの状態だった。

 全身ボロボロで、体には火傷を負っていて、今にも死にそうな状態で――そして本当に、王女が必死に呼びかける中、絶命してしまったのだ。


 メノウの死を見たあと、自分がどうしたのかを、王女は覚えていない。

 気づいたら自分の寝室のベッドの中だった。

 その夜はただ呆然とベッドに横たわるばかりで、一睡もできなかった。

 そして翌日になると、女官たちは誰もメノウを知らなかった。

 昨夜のことを話しても、誰もが首をひねるばかりだったし、メノウが自分の乳母だと告げると、女官たちは不思議そうに顔を見合わせるのだった。

「メノウ様という方のことはわかりませんが、聖女様の乳母を務めた方なら、随分前に女官を辞めて実家に帰られたではありませんか」

 女官の一人が、おずおずとそう言った。

 他の女官らも我が意を得たりといったふうにうなずいて、口々に、王女の乳母は何年も前に、病気を理由に女官を辞めて地方に引きこもっていると告げる。

「どうして誰もメノウのことを覚えていないの? メノウはわたくしが赤子のころから、ずっとこの宮にいたはずなのに……」

 唇を噛んで、王女は必死に考える。

 そしてふと、自分の教師として城にいる元聖女は、東方世界の魔法使いなのだと思い出した。

「まさか、あの女が何かしたってこと?」

 呟いて王女はふと、あの夜のことを思い出す。ボロボロのメノウの傍には、ルルイエが立っていた。

「……あの女を問い詰めるのが、先ってことね」

 更に強く唇を噛みしめて、王女は押し殺した声で呟いた。


+ + +


 王女からの呼び出しに、いずれ呼ばれるだろうと思っていたルルイエは、さほど慌てなかった。

 王と宰相への報告は、すでに済んでいる。


 あの日、王女たちが扉を破って入って来たことで、ルルイエの体からウルスラは去り、彼女は意識を失って倒れることとなった。

 目覚めた時には自分の部屋で、フェリアとジャネッタが心配そうな顔でベッドの脇に座っていたものだ。

 ちなみに彼女は、一度目覚めたものの、フェリアたちに簡単に事情を話して、すぐにまた眠りに落ちた。のちに聞いた話では、そのあと王と宰相から事情を聞きたいと使いが何度か来たそうだ。


 ルルイエが次に目覚めたのは、朝の早い刻限だった。

 寝ぼけまなこをこすりつつ起きて、バルコニーに出てみると、空は朝焼けに染まっていた。空気は澄んでいて、視界の先には桃色と紫のグラデーションの雲が壮大な姿を見せている。

 その景色に目を奪われていると、様子を見に来たフェリアに声をかけられた。

「ルルイエ様、起きても大丈夫なのですか?」

「フェリア。ええ、大丈夫よ。心配かけて、ごめんなさい」

 答えてルルイエは室内に戻る。

「お腹が空いてはいませんか? 朝食を作りましたので、すぐに食べられますよ?」

 フェリアに言われて、ルルイエはうなずいた。

 食堂に行くと、すでにジャネッタも起きていて、ルルイエの顔を見て安堵の息をつく。


 朝食のあと、ルルイエは王の元に報告に向かった。

 そこには宰相もいて、彼女は二人にメノウの正体とあの夜の出来事を語った。

 王はずいぶんと驚いていたが、宰相はそれほどでもなく、メノウが「東方のまじない師」であることも知っていたのかもしれないと、ルルイエは思った。

 だがなんにしても、メノウが王女をわがまま放題に育ててしまったことと、ルルイエを邪魔だと考え排除しようとしていたことは疑いがなかった。しかも、最終的に彼女にとどめを刺したのは「最初の聖女」ウルスラである。王にも宰相にも、ルルイエを咎め立てるようないわれはなかった。

 そして王からは、このあとも王女の聖女教育を頼むと言われたのだった。


 とはいえそれは、あくまでも王たちの事情である。

 メノウを実の母のように慕っていた王女が、どう考えるかは、また別の話だった。


 王女からの呼び出しを受けて、ルルイエはその居間へと向かう。

 あの騒ぎのあと、王女とルルイエは一度も顔を合わせていない。

 ルルイエが動けなかったこともあるが、王女が彼女の授業を拒んでいたせいもある。

 居間で対峙し、王女は固い表情でルルイエを見据えた。

「女官たちは、誰もメノウのことを覚えていないわ。おまえが、何かしたんでしょう? そして、おまえならば、なんであんなことになったのかも、知っているわよね? それについて、話しなさい」

 王女はこれまでと変わらない尊大な態度で、瞳に怒りの炎を燃やしながら、言った。

「女官たちが、メノウのことを覚えていない……?」

 問われて、ルルイエは思わず眉をひそめる。だがすぐに、なぜそうなったのかを察した。なので、それを口にする。

「女官の方たちが、彼女を覚えていないのは、これまで彼女が女官の方たちにかけていた暗示の反動ではないかと思われます。メノウは、暗示を使ってニセの出自を人々に本当だと思い込ませたり、本来の自分について忘れさせたりしていたようですから」

 だがむろん、メノウの正体について何も知らない王女が、その言葉を理解できるはずもない。彼女はきつい目でルルイエを見やって言った。

「訳の分からないことを言って、わたくしをごまかす気なの? 女官たちに、メノウの記憶を返してよ! わたくしにせめて、メノウの思い出に浸らせてちょうだい!」

「お気の毒ですが……」

 ルルイエは言って、メノウが何者だったのか、なぜこんなことになったのかを、順を追って簡潔に話した。


 話を聞かされて、王女は呆然としていたが、やがて激しくかぶりをふる。

「信じない! そんな話、信じられるわけないでしょう? そもそもわたくしは、その呪い師とやらのことなんて、聞いたこともないわ。それに、メノウはわたくしが赤子のころから、わたくしの世話をしてくれていた乳母なのよ! それが、そんな……!」

 叫ぶ王女を、ルルイエはいたましげに見つめた。だが、いささか厳しい口調で告げる。

「王女様が信じようと信じまいと、今わたくしが話したことが、真実です。そして、彼女はもういません。酷なようですが、王女様には一日も早く、正しく聖女の役目を認識し、それをまっとうしていただきたく存じます」

「こんな時に、わたくしに聖女としての役目を優先しろと言うの?」

 カッとなって叫ぶ王女に、ルルイエは静かに返した。

「はい。聖女とは、そういうものですから。それに……」

 少し迷ったあと、ルルイエは続ける。

「きっとメノウも、王女様が聖女らしくあることを望んでいるでしょう。彼女は王女様を立派な聖女に育てることに、情熱を注いでいたようですから」

 ルルイエの中ではそれは嘘ではなかったが、その言葉は王女の逆鱗に触れたらしい。

「出て行って!」

 王女は叫ぶなり、テーブルの上の小さな花瓶をルルイエに向かって投げつけた。

 とっさに、魔法の障壁を作ったので、花瓶はルルイエの少し手前で見えない壁に当たって床に落ちた。テーブルの周辺の床には、じゅうたんが敷かれていたため、花瓶は割れることなく、ただ水と生けられていた花たちをそこに撒き散らしながら、ころがっただけだった。

 だがその様子に、王女は更に柳眉を逆立てる。

「おまえの顔なんて、二度と見たくない! 出て行け!」

 王女は立ち上がり、更に激しく叫んだ。

 ルルイエも、感情的になっている彼女とこれ以上話してもどうにもならないと察して、立ち上がった。

「では、失礼いたします」

 一礼して、部屋を出る。

 自分の部屋へと戻りながらルルイエは、王女にこの先、聖女としての教育を施すのは、なかなか難しそうだと考えていた。


 ルルイエの危惧は的中した。

 その日から王女は、聖女教育を受けることはもちろん、聖女としての祈りも何もかも、全て放棄して自分の部屋に閉じこもった。

 メノウの記憶のない女官たちは、そんな彼女に困惑し、なんとかしてなだめすかそうとした。王女が聖女の役目を放棄したままだと、当然ながら自分たちが宰相から咎められるおそれもあるからだ。

 だが王女は頑なだった。

 というか、もとからわがままな彼女を道理に則って動かすことができたのは、メノウと宰相だけだったのだ。宰相に対しては、祖父で王の次にえらい人だという認識があるので、いやいやながら従っているにすぎなかった。つまり、彼女が本当に無条件に従う相手は、メノウだけだったのだ。

 だがそのメノウはもういない。

 しかも、周辺の女官たちにはメノウの記憶がないため、たとえば「こんなことをしていては、メノウ様が悲しまれますよ」とか「メノウ様が生きておられたら、どう言われたか」などと、メノウにことよせて王女のやる気を引き出す方法も使えないのだ。

 結局女官たちは匙を投げ、女官長が宰相にことの次第を報告する仕儀となった。

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