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第13話 心の底から

 研究所の地下四階にある、その部屋には「関係者以外入室厳禁」のプレートがかかっている。


 だが、クオは薄暗い部屋のロックを虹彩認識により難なく解除し、素早く身を滑り込ませた。扉が背後で閉まると同時に、室内に仄かな明るさの照明が点灯する。


 その部屋にはびっしりと数十の棚が、広くもない空間にそびえ立っていた。


 だが、その部屋の真の異様さは、その棚に鎮座するラベルが逐一貼られた無数の瓶、そしてその中身を認めてこそである。

 多数の瓶の中には、欠片、が入っていた。

 そう、あらゆる部位の臓器・腕・手・足・頭皮・毛髪・脂肪……といったかつて人間だった数多の欠片が。

 それらが、ホルマリンに漬けられて、ゆらり、ゆらり、と無言のうちに揺れている。


 通常の人間なら、即座に吐き気を催して、一秒たりとも立ち止まっていられない空間であろう。

 だが、クオはまったく臆することなく、その数知れぬ人体標本の間をすり抜け、部屋の一番奥にある棚まで素早く足を運ぶと、そこに置かれたひときわ大きな瓶を手に取った。その瓶のなかには、臍の尾も露わな人間の胎児が、ぷかり、浮かんでいた。


 しかも、一体ではなく、複数の胎児が。


 クオは薄い笑いをかみ殺すように、口を歪ませながら、しばし瓶のなかを上下する胎児の姿に見入っていた。そして、しばらくの後、呟いた。


「よお、久しぶり」


 むろん、ホルマリンのなかの胎児はなにも答えない。不気味な静寂だけがクオを包んでいる。

 やがてクオは瓶を棚にゆっくりと戻しながら、囁いた。


「……また、な」


 そしてクオは白衣を翻し、再び無数の瓶の間に歩を進めると、静かに、闇に沈められた空間を出て行った。



 地下階段を無言のまま昇るクオの足が、ぴたり、と、止まった。階段の上から降ってきた鋭い視線を感じたからである。その方向に視線を投げれば、そこには厳しい顔をしたドロシーが立っていた。


「今度は、君から待ち伏せとはね。趣味が悪いな」

「……お互い様にね」


 そのドロシーの言葉に、クオは肩をすくめ、くぐもった笑い声を階段に響かせた。


「なにが可笑しいの。クオ」

「別になにも可笑しくないさ。そういや、カナデ・ハーンはどうしている?」

「ジーンが様子を見ているわ」

「そりゃあ、なによりだ」

「それより……この階下は、あなたは立ち入れないフロアのはずよ。なにをしていたの?」

「さあな」


 ドロシーの詰問をクオはさらりと躱す。

 すると、ドロシーはそのクオの不真面目な態度が気に食わないとばかりに、大きな声を張り上げた。


「あなたの上司としての質問よ! 答えなさい!」


 だがクオが態度を改めることはなかった。それどころか、さらにおどけた表情でドロシーの瞳を覗き込み、嗤った。


「悪いね。そういう気分じゃないんだ。どっちかというと」


 そしてクオはドロシーに近づくと、彼女の右手首をぐっ、と掴む。途端にドロシーが手にしていた資料が、ばさり、と床に落ちる。


「……そう、どっちかというと、いま、俺は君を上司として、でなく、女として見たい気分でね」

「やめてよ。所長に言うわよ」


 右手をクオに押さえ込まれ、身体を壁に押しつけられたドロシーは、怒りも露わに赤毛を揺らす。しかしクオにその脅しは効かなかった。


 いつのまにかに、クオの顔からは笑みが消え、どこまでも昏い視線がドロシーの顔を貫いている。いや、その目に躍っていたのは、冷たい憎悪の焔だったというべきか。


「構わんよ。言えば良いさ」

「クオ!」


 ドロシーはこの間のようになるものかと、必死で近づくクオの顔から身を逸らす。そして、またしても首筋に己の唇を這わせようとするクオを、すんでのところで振り払うと、彼の顔を睨み付けた。


「クオ。あなた、いったい、何者なの?」



 ジーンは、溜息をついた。先ほど運んでおいた食事は、またしても、ほとんど口が付けられておらず、その場に放置されたままだ。

 当のカナデはというと、ベッドから起き上がってこそいるものの、その表情はどこまでも暗い。


 ――もう、三日間こんな感じだな。


 ジーンはカナデの顔を、そっと覗き込んで、もう、何度目になるか分からない内容の台詞を投げかけた。


「ハーンさん、食べないと……身体、弱っちゃいますよ。傷もせっかく治ってきたんですから、体力、つけないと」


 すると、それまでひたすらに黙りこくっていたカナデが、唇を動かした。彼女はジーンの顔に、虚ろな視線を放ると、弱々しくこう、呟いた。


「なんで、私をこんな身体にしたの?」


 ジーンは言葉を失う。すかさず、カナデがそれまで溜めていた感情を一気に吐き出すかのように、ジーンを睨み付けて喚いた。


「命を助けてくれたのには、感謝します! でも、でも、そのに若くしてやって、私が喜ぶとでも思ったんですか? なんでこんなことしたんですか? 私は、私が、気持ち悪い! 化け物みたいで、気持ち悪くて、仕方ありません!」


 美しい金髪を振り乱してのカナデの激白に、その場に立ち尽くすジーンは返す言葉もない。

 そして、医者として、一番言われたくない言葉を、彼は耳にする。


「こんなことなら、あのまま、死んでいて良かったんです! 私は!」


 そのとき、ジーンの頭のなかでも、なにかが溢れた。


「頼むから、それだけは言わないでくれ!」


 気付けば、彼はカナデの倍以上の声で、そう絶叫していた。


「私はそんなつもりで、あなたを治療したわけではない! 断じて!」


 ジーンの口から抑えがたい激情が言葉になって、カナデに向かい、迸る。そしてそれは一旦外に吐き出してしまえば、もう彼に止めることはできなかった。


「こんなこと、するつもりなかった! したくもなかった! したくなかったんだ! 私は!」


 ついで、ジーンの頬を、涙が伝う。

 カナデが驚いたように自分を見つめる視線を顔に感じたが、嗚咽が、絶叫が、止まらない。


「だけど、してしまったことは謝ります! それは私の弱さです……許して欲しいと言って許されることではないとは……分かっています! だけど、勝手だが、勝手だが!」


 生温かい飛沫が床に散ったが、ジーンは涙を拭うことも忘れたまま、ダークグレーの髪を振り乱す。

 そして、最後に彼は、心の底から一番カナデに言いたかった言葉を吐き出した。


「私は、あなたに、生きていて欲しい! 生きていて……欲しいんです!」


 ジーンはカナデのベッド脇の床に崩れ落ちた。そして、そのまま、号泣し続けた。

いったい、自分がどのくらいそうやっていたのか、ジーンには見当が付かなかった。ドロシーとクオがこの場にいなくてよかったと、そう思う余裕もなかった。


 やがて、ジーンは頭の上になにかが、そっ、と触れるのを感じ、ゆっくりと顔を上げた。見れば、カナデの指先が彼の髪に触れていた。


 ジーンとカナデの視線が静かに交差する。


 そして、カナデがなにかを言おうと、薔薇色の唇を開きかけた、そのとき。


 部屋が、建物が、月の地表ごと大きく揺れた。


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