研究所の地下四階にある、その部屋には「関係者以外入室厳禁」のプレートがかかっている。
だが、クオは薄暗い部屋のロックを虹彩認識により難なく解除し、素早く身を滑り込ませた。扉が背後で閉まると同時に、室内に仄かな明るさの照明が点灯する。
その部屋にはびっしりと数十の棚が、広くもない空間にそびえ立っていた。
だが、その部屋の真の異様さは、その棚に鎮座するラベルが逐一貼られた無数の瓶、そしてその中身を認めてこそである。
多数の瓶の中には、欠片、が入っていた。
そう、あらゆる部位の臓器・腕・手・足・頭皮・毛髪・脂肪……といったかつて人間だった数多の欠片が。
それらが、ホルマリンに漬けられて、ゆらり、ゆらり、と無言のうちに揺れている。
通常の人間なら、即座に吐き気を催して、一秒たりとも立ち止まっていられない空間であろう。
だが、クオはまったく臆することなく、その数知れぬ人体標本の間をすり抜け、部屋の一番奥にある棚まで素早く足を運ぶと、そこに置かれたひときわ大きな瓶を手に取った。その瓶のなかには、臍の尾も露わな人間の胎児が、ぷかり、浮かんでいた。
しかも、一体ではなく、複数の胎児が。
クオは薄い笑いをかみ殺すように、口を歪ませながら、しばし瓶のなかを上下する胎児の姿に見入っていた。そして、しばらくの後、呟いた。
「よお、久しぶり」
むろん、ホルマリンのなかの胎児はなにも答えない。不気味な静寂だけがクオを包んでいる。
やがてクオは瓶を棚にゆっくりと戻しながら、囁いた。
「……また、な」
そしてクオは白衣を翻し、再び無数の瓶の間に歩を進めると、静かに、闇に沈められた空間を出て行った。
地下階段を無言のまま昇るクオの足が、ぴたり、と、止まった。階段の上から降ってきた鋭い視線を感じたからである。その方向に視線を投げれば、そこには厳しい顔をしたドロシーが立っていた。
「今度は、君から待ち伏せとはね。趣味が悪いな」
「……お互い様にね」
そのドロシーの言葉に、クオは肩をすくめ、くぐもった笑い声を階段に響かせた。
「なにが可笑しいの。クオ」
「別になにも可笑しくないさ。そういや、カナデ・ハーンはどうしている?」
「ジーンが様子を見ているわ」
「そりゃあ、なによりだ」
「それより……この階下は、あなたは立ち入れないフロアのはずよ。なにをしていたの?」
「さあな」
ドロシーの詰問をクオはさらりと躱す。
すると、ドロシーはそのクオの不真面目な態度が気に食わないとばかりに、大きな声を張り上げた。
「あなたの上司としての質問よ! 答えなさい!」
だがクオが態度を改めることはなかった。それどころか、さらにおどけた表情でドロシーの瞳を覗き込み、嗤った。
「悪いね。そういう気分じゃないんだ。どっちかというと」
そしてクオはドロシーに近づくと、彼女の右手首をぐっ、と掴む。途端にドロシーが手にしていた資料が、ばさり、と床に落ちる。
「……そう、どっちかというと、いま、俺は君を上司として、でなく、女として見たい気分でね」
「やめてよ。所長に言うわよ」
右手をクオに押さえ込まれ、身体を壁に押しつけられたドロシーは、怒りも露わに赤毛を揺らす。しかしクオにその脅しは効かなかった。
いつのまにかに、クオの顔からは笑みが消え、どこまでも昏い視線がドロシーの顔を貫いている。いや、その目に躍っていたのは、冷たい憎悪の焔だったというべきか。
「構わんよ。言えば良いさ」
「クオ!」
ドロシーはこの間のようになるものかと、必死で近づくクオの顔から身を逸らす。そして、またしても首筋に己の唇を這わせようとするクオを、すんでのところで振り払うと、彼の顔を睨み付けた。
「クオ。あなた、いったい、何者なの?」
ジーンは、溜息をついた。先ほど運んでおいた食事は、またしても、ほとんど口が付けられておらず、その場に放置されたままだ。
当のカナデはというと、ベッドから起き上がってこそいるものの、その表情はどこまでも暗い。
――もう、三日間こんな感じだな。
ジーンはカナデの顔を、そっと覗き込んで、もう、何度目になるか分からない内容の台詞を投げかけた。
「ハーンさん、食べないと……身体、弱っちゃいますよ。傷もせっかく治ってきたんですから、体力、つけないと」
すると、それまでひたすらに黙りこくっていたカナデが、唇を動かした。彼女はジーンの顔に、虚ろな視線を放ると、弱々しくこう、呟いた。
「なんで、私をこんな身体にしたの?」
ジーンは言葉を失う。すかさず、カナデがそれまで溜めていた感情を一気に吐き出すかのように、ジーンを睨み付けて喚いた。
「命を助けてくれたのには、感謝します! でも、でも、その
美しい金髪を振り乱してのカナデの激白に、その場に立ち尽くすジーンは返す言葉もない。
そして、医者として、一番言われたくない言葉を、彼は耳にする。
「こんなことなら、あのまま、死んでいて良かったんです! 私は!」
そのとき、ジーンの頭のなかでも、なにかが溢れた。
「頼むから、それだけは言わないでくれ!」
気付けば、彼はカナデの倍以上の声で、そう絶叫していた。
「私はそんなつもりで、あなたを治療したわけではない! 断じて!」
ジーンの口から抑えがたい激情が言葉になって、カナデに向かい、迸る。そしてそれは一旦外に吐き出してしまえば、もう彼に止めることはできなかった。
「こんなこと、するつもりなかった! したくもなかった! したくなかったんだ! 私は!」
ついで、ジーンの頬を、涙が伝う。
カナデが驚いたように自分を見つめる視線を顔に感じたが、嗚咽が、絶叫が、止まらない。
「だけど、してしまったことは謝ります! それは私の弱さです……許して欲しいと言って許されることではないとは……分かっています! だけど、勝手だが、勝手だが!」
生温かい飛沫が床に散ったが、ジーンは涙を拭うことも忘れたまま、ダークグレーの髪を振り乱す。
そして、最後に彼は、心の底から一番カナデに言いたかった言葉を吐き出した。
「私は、あなたに、生きていて欲しい! 生きていて……欲しいんです!」
ジーンはカナデのベッド脇の床に崩れ落ちた。そして、そのまま、号泣し続けた。
いったい、自分がどのくらいそうやっていたのか、ジーンには見当が付かなかった。ドロシーとクオがこの場にいなくてよかったと、そう思う余裕もなかった。
やがて、ジーンは頭の上になにかが、そっ、と触れるのを感じ、ゆっくりと顔を上げた。見れば、カナデの指先が彼の髪に触れていた。
ジーンとカナデの視線が静かに交差する。
そして、カナデがなにかを言おうと、薔薇色の唇を開きかけた、そのとき。
部屋が、建物が、月の地表ごと大きく揺れた。