突然の正体不明の敵による攻撃に、難民収容所内はパニックに陥った。もちろん、併設されている研究所内も同様である。
「どこからの攻撃だ? 月の軌道上の制空権は、我が軍が握っているはずだぞ!」
警備部隊から困惑の怒声が上がる。
ちなみに、ユーラシア革命軍政府が制空権を掌握して以来、収容所には、内部の治安掌握のための警備部隊しか置いていない。いわば、外からの攻撃には無防備に近いのが、この施設なのだ。
ジーンとカナデのいる部屋は最初、大きく揺れただけであったが、その衝撃の後に続いて聞こえてきた、微かな音にジーンは既視感があった。
――あれは、銃声? しかも複数の銃撃戦が、建物内で発生している? ということは、最初の衝撃はこのコロニーの壁が砲撃されて、破られたときのものか?
そう思っているうちに、どんどん銃声音は大きくなってくる。
――すでに何者かが侵入してきて、この建物内を銃撃している?
「あれは、銃撃戦の音ね。しかも近いわ」
カナデが唐突に、だが冷静そのものの口調で呟いた。
ジーンは一瞬驚いたが、考えてみればカナデは紛争地域から逃れてきたのだ。彼女にとっては、聞き慣れた音なのだろう。
「そうですね、ハーンさん。とりあえず、ここからは逃げて、安全が確保できる場所に行きましょう。立てますか?」
「ええ」
すると、カナデは驚くほどスムーズにベッドから起き上がり、すっ、と床に立った。ジーンが支える必要もなかった。
「ハーンさん、腹部の銃創は痛みませんか?」
「大丈夫です、まったく、痛くないです」
カナデの顔を見る限り、やせ我慢している様子は見えない。どうやらターンの効能は、カナデの銃創をも完治させてしまったようだ。ジーンは改めてあの試薬の効き目に、舌を巻いた。
「行きましょう、先生」
「ええ」
ジーンとカナデは病室を出た。幸い、廊下にまだ人影はない。
ジーンは、研究所の職員用保育所に向かうことにする。アイリーンの身が心配だったこともあるが、研究所の最深部に当たるため、一番安全な場所なのでは、と、咄嗟に考えたのだ。
とりあえず、ジーンはその方向にカナデと駆けだした。カナデの走りは軽やかで、ジーンより早いくらいだ。彼女は息切れすることもなく、長い金髪を風になびかせて走りながら、自分の身体機能に驚いたように呟く。
「なんだか、すごく、嘘みたいに身体が軽いわ」
「そりゃあ……あなたの身体は、ほぼ十代に若返ったわけですから」
「そうなのね。うれしくないけど、こういう時は、便利ね」
そのとき、遠くから侵入者らしい男の怒号が微かに聞こえてきた。すると、カナデが即座にジーンに向かって言う。
「先生。侵入者は“収容所の難民にかまうな、研究所の職員を狙え”と言っています」
「聞きとれるのですか」
「はい、はっきり、そう聞こえました」
ジーンは思わず立ち止まった。
「すごい聴覚だ」
これもターンの効能なのだろうか。すると、カナデも足を止め、そして、厳しい顔でジーンを見やった。
「先生。つまり、狙われているのは先生たちですよ。危険ですから白衣を脱いで下さい。職員と認識されない格好にならないと」
「たしかにそうですね、そうします、ハーンさん」
ジーンは、急いでその場に白衣を脱ぎ捨てた。カナデはそれを確かめると、さらにジーンに提言する。
「それと、お互いの名前の呼び方を変えましょう。先生のことはなんと呼べば自然ですか」
「……じゃあ、ジーン、で」
「了解です、では、私のことも、カナデ、で。急ぎましょう、ジーン」
そう言うと、カナデはジーンの先をまた駆けだしていく。
ジーンは、カナデの若返った身体能力もさることながら、その頭脳の明晰さにも感銘を受けずにはいられなかった。
一方、ドロシーとクオも銃撃戦の音を、階段で対峙しながら耳にしていた。
「なに! なんなの?」
「始まりやがったか」
事態に慌てるばかりのドロシーを前に、クオの表情は微動だにしない。いや、その声はいつも以上に冷静で、冷徹だ。ドロシーは思わずクオの顔を凝視し、やがて恐怖に震える声で問うた。
「クオ。あなた、本当に何者なの?」
途端に、クオの冷徹な顔が薄い笑いに歪んだ。いや、冷徹さはその表情にそのまま張り付いたままだ。それどころか、冷酷さをも増しつつある。ドロシーは目前に屹立するクオに怖気を感じ、思わず身体を後ずさりさせた。
それを見て、クオの声音は、さらに楽しげに響き渡る。
「あぁ、だからさ、俺の女になっておけばさ、命ぐらいは助けてやったのになあ。残念だよ、テオドラ・バートン」
ドロシーの身体がのけぞるように、びくん、と震え、固まった。
「なぜ、私の……本名を?」
青ざめたドロシーの表情を見て、クオは耐えきれず、くっくっ、と嗤った。こいつは、面白くて仕方がないとでも言うように。
「あんたの素性を難民どもが知ったらなあ、どう思うだろうなあ。同じ身内の仲間が、ちょっと化学の才能に秀でていた、かわいい女の子だったからって、目を掛けられて、研究所に登用された、なんてなあ。ん?」
「やめて!」
ドロシーは耳を塞いで階段に蹲った。
赤いショートカットの頭、そして手足は、がたがた、と震え、立ち上がることさえ、もはや、叶わない。だが、クオの嘲りは止まりはしなかった。
「そして、難民の分際で研究所のチーフにまで昇り詰めて、しかもお仲間への人体実験を指揮していた、というね。なあ、そうだろ? それが事実なんだろ? ドロシー? いや、テオドラ」
「やめて! 助けて、命だけは!」
「そうだよなあ、何人もの難民がお前の前で、そうやって命乞いしていったよなあ」
「やめて! お願い! クオ、やめて!」
「でも、あんたは、そう言った奴らにも容赦なく注射針を突き立てて、あの世送りにしたよなあ、俺と一緒に」
「クオ! お願い! もう、なにも言わないで!」
ドロシーが絶叫する。
だが、クオは、床に突っ伏して泣き出したドロシーに唾を吐きかけると、憎々しげに足でその胸を数度、蹴りつけた。
銃撃戦の音はもう、すぐそばまで聞こえてきている。
やがて、銃声が途絶えた。そのかわりに、何人もの軍靴の音が響いてきて、そしてそれが至近距離で止まる。
気が付けばドロシーは、何人もの軍人に銃を突きつけられ、包囲されていた。
軍服を血糊でべっとり汚したままの軍人のひとりが、敬礼しながらクオに報告する。
「ケセネス准佐。研究所員は、すべて、掃討しました」
「デュマはどうした?」
「確保済です」
「ご苦労だった。ところで、肝心の、ターンの被験体はどうなった」
「それが、行方が分かりません」
「探せ。絶対にだ。……それと、この女の処遇だが」
クオは言葉を切ると、軍人たちに囲まれたままのドロシーに視線を放った。
ドロシーが懇願するかの如く、泣き腫らした目で弱々しくクオの顔を見上げる。
「まずは、俺たちで楽しませてもらおうじゃないか」
「……ク、オ……」
「そして遊び飽きたら、難民どもの中に放り込んでやれ。その素性を教えてやれば、奴らが血に飢えた野犬になって処分してくれるだろうよ。俺たちが手を汚すまでもなく、な」
「了解です、准佐。……さあ、女、立て」
言葉を失い、絶望に打ち震えるドロシーの腕を、軍人たちが乱暴に掴み、引きずり上げる。
軍人たちの血に汚れたその制服は、彼女が誰よりも頼り、信じ、親しんだ、ユーラシア革命軍の軍服だった。