ウィルスン貨物商会の船が月面を離陸し、地球に向かって旅立ったのは、ジーンたちがコンテナの中に隠れて数時間後のことだった。
荷物の積まったコンテナの闇のなかで、ジーンとカナデは身を寄せ合うようにしながら、ヴァンスが離陸前に持ってきてくれた固形食物とゼリー飲料を手探りで口に運んでいた。
アイリーンだけは早くも寝息を立て、ジーンの膝の上で深い眠りのなかに落ちている。その、ちいさな呼吸音は、この先行きの分からぬ逃避行においても、ジーンに取っては得がたい癒やしであった。
ジーンは、アイリーンの身体をそっと抱きしめては、自分が生きながらえていることの意味を考えこむ。
「いい夢、見ているのかしら? アイちゃん。なんだか、すごく幸せそうな顔で寝ているわね。かわいい」
不意にカナデが咀嚼を止め、そうジーンに話しかけた。
「カナデ、この暗さでも見えるのですね、アイリーンの表情が」
「ええ。なんだか、こんなに深い闇のなかにいるのに、周りの様子がはっきり見て取れるの」
「じゃあ、私の顔も丸見えですか」
「ええ、それはそれは、愛おしそうな、優しい顔をして、アイちゃんを見つめているのが、よく分かるわ」
「……まあ、そりゃ、たったひとりの娘ですから……」
「ジーン、あなたは本当にアイちゃんを愛しているのね」
ジーンはやさしげなそのカナデの言葉に、思わず、戸惑うような表情を閃かせた。それに気付いたカナデが、不思議そうに自分の顔に視線を投げる気配を感じ、ジーンは一瞬、しまったな、と思った。
しかし、幸いなことに、カナデはそのことを追求しようとはせず、その唇から漏らしたのはまた別のことだった。
「私は……やっぱり、嫌なの。この身体が、この不自然に若返った身体が……」
暗闇にカナデの声が静かに響く。
ジーンはアイリーンを撫でる手を止め、カナデのいる方向を見やった。
「あの日、目覚めて以来、動くのにも恐ろしいほどに身が軽いわ。視力も聴力も、いったい、どうしたのか、というくらい若返って……というより……すべての身体機能が高まってしまったのを、ひしひしと、感じるの。でも、そのたびに私は自分が恐ろしくなる。これは、本当に、私なのかと」
ジーンにはそう語るカナデの表情は見えない。だが、おそらく沈痛な面持ちであるのだろうと思うほどに、彼自身の心も黒く澱んでいく。
なぜなら、カナデを今の境遇に追い込んでしまったのは、他でもない自分の手によって、なのだから。
そして、またしても、彼は聞きたくなかった言葉を、再び耳にすることになる。
「こんなことになったなら、死んでしまいたいという、気持ちはどうしても変わらないのよ」
「カナデ」
「ジーン。生きて欲しい、と言ってくれたあなたには、悪いけれども」
「そうですか……」
カナデが涙を流している気配を暗闇の中から感じ取り、ジーンの息は詰まる。コンテナの壁に、微かにだが、カナデが涙を啜る音が木霊する。
何刻かの沈黙の後、ジーンは、意を決したように声を上げた。
「では、カナデ、あなたの今の望みはなんですか? どうすれば、あなたに、また、生きたいと思ってもらえますか?」
すると、しばらくの間を置いて、泣き笑うような響きのカナデの声が返ってくる。
「元の身体に戻ること……かしらね」
「分かりました。では、それをもって、私の償いとさせてください」
カナデが驚いたように、ジーンの顔を見る気配がする。しかし、ジーンは変わらぬ声音で、淡々と決意を述べ続けた。
「カナデ、私はあなたを、必ず、この命に替えても、元の身体に戻してみせます」
「ジーン」
「地球には、月面難民収容所のような研究を行っている研究施設が、他にもいくつか存在すると、私は前赴任地に居た頃、噂ではありますが耳にしています。そのうち、地球上で一番大規模な施設は、サハリン島、ユジノサハリンスクにある施設だとも。確約はできませんが、そこに行けば、あなたを若返り……いわゆるターンから解く方法を得ることができるかも知れません」
暗闇の中、カナデは、はっ、とするような表情でジーンを見返した。
「だから、私は、この船が目的地であるウラジオストク宇宙港に到着したら、ユジノサハリンスクに向かおうと思います。ウラジオストクからユジノサハリンスクは、目と鼻の先ですし」
ジーンは一気に思いの丈を吐き出した。
一旦言ってしまえば胸の内は軽くなる。だから、次のカナデの言葉にも、彼は動かぬ決意を持って答えることができた。
「それは相当な、賭けね。確約もない、危険な……」
「はい、そうです。でもあなたへの償いは、それしか、方法が見いだせませんから」
そう言うと、ジーンは笑いながら言葉を継いだ。
いや、笑ったつもりだったが、果たして上手く笑えていたかどうか。それを、彼自身には確かめようもないのだが。
「そのかわりといっては、なんですが。カナデ、あなたにお願いがあります」
「私に?」
「はい、私がユジノサハリンスクから戻るまで、アイリーンを預かって欲しいんです。そして万が一、私が戻ってこなかったら……」
「あなたの代わりにアイちゃんを育てて欲しい、というの? ジーン」
ジーンはカナデの言葉に、思わず苦笑いした。
自分の思考はなんと、分かりやすく、安直なのだろうか。だが、今のジーンにはカナデの勘の鋭さがありがたくもあった。
「死ぬ気ね、ジーン。アイちゃんを私に託して」
カナデが、ぼそり、と鋭く呟いた。ジーンは床を見つめて黙りこくった。コンテナ内の空気が、ゆらり、と僅かに揺らぐ。
しばらくの後、暗闇にカナデの厳しい声が響いた。
「だめよ、ジーン。人に生きろと言っておいて、自分は死んでも良いなんて」
カナデは諭すように、視線を下に落としたままのジーンに語りかける。
「それに、あなたが戻ってこなかったら、私は一生、この身体のままじゃない。なのに、自分だけ愛娘を他人に預けて、死んでいくなんて、どこまで都合が良いの」
「カナデ。私は、それでも」
「いいえ。ジーン、あなたひとりでは行かせないわ。私も行くわよ、ユジノサハリンスクに」
ジーンは顔を上げてカナデを見た。濃い暗闇のなか、相変わらずその表情は見えない。だが、そのきっぱりとした口調からは、カナデの揺るぎのない意志を感じ取らずにいられなかった。
その時のふたりには、まったく予想がつかなかった。
ふたつの決意が絡み合ったその末にあるのが、果たしてひかりなのか。それとも絶望なのか。
ただ、この時、ふたりは共に、感じてもいた。
「少なくとも、今、自分は死ぬわけにはいかなくなった」と。
その理由は、おのおの違うところに根を張っているとしても。