高速船は波間を割るようにして、海を進んでいく。
ジーンとカナデとアイリーンが、ウラジオストク港でヴァンスと別れ、船上の人となってから数時間が経過していた。三人は客室から甲板に出て、夕暮れ間際の大海原に視線を投げる。その日、海は穏やかで、サハリンに向かっての船旅は順調だ。
アイリーンは、頭上を賑やかに飛んでいくカモメの群れに目を丸くして見入っている。
「おとーさん、カナデおねーちゃん! 鳥さん、たくさん!」
「ああ、そうだな、アイリーン」
「うみ、って、すごーく、広いんだねー」
「そうか、アイリーンは海を見るのは初めてだったな」
ジーンはアイリーンを、ひょい、と抱き上げると、愛する娘に水平線を見せてみせる。
「ほら、アイリーン、これが海だ」
「すごーい、こっちから、あっちのほうまで、みんなお水なのー?」
アイリーンの瞳いっぱいに、広い海原が広がり、アイリーンの顔は驚きと好奇心に満ちる。
「そうだよ、アイリーン」
「おとーさん、アイちゃん、もっとお船の端っこ、行っていい? もっと、うみ、見たーい」
「ああ、いいよ。気を付けて行っておいで」
ジーンは苦笑しながらアイリーンを甲板の上に下ろした。すると、アイリーンはちいさな足をちょこちょこと動かして船の先端に向かい、走って行く。
「ふふ。本当に、かわいい」
カナデが目を細めてアイリーンの後ろ姿を見守る。
その見かけは少女ながら、瞳は慈愛に満ちていて、幼い妹を見守るというよりかは、娘を見つめる母の眼差しだった。
「アイちゃんは度胸が良いわね」
「ええ、確かに」
「ミハイルが同じくらいの歳の頃、海を見せに行ったことがあるけど、怖がっちゃってね。波打ち際まで連れていくのにも、大騒ぎだったわ」
カナデは、先ほど別れたばかりの愛する息子の思い出を、懐かしそうな口ぶりで囁いた。ジーンはカナデの顔を思わず見つめ返したが、その顔に悲壮感はもうなく、なにかをふっきったような諦観、あるいは力強さに満ちていた。するとカナデがジーンの視線に気付いて、ジーンの顔を見つめ返す。
「アイちゃんは、どっちに似たの?」
「え?」
「ジーン、あなた似? それとも母親似なのかしら?」
海風が、ぶわっ、と強く吹いて、ジーンのダークグレーの髪を揺らす。ついで、カナデの長い金髪も宙に舞い上がり、ふたりは両手で頭に髪を、撫でつけた。
「……母親似、ですかね。私は、あんなに度胸良くはないですよ」
「そう。そういえば、アイちゃんのお母さん……あなたの奥さんは今、どこにいるの?」
そのカナデの何気ない問いに、ジーンの瞳に憂いの色が揺蕩う。
彼は、遠い水平線に視線を投げたまま、しばしの沈黙の後、呟いた。
「妻は……彼女の母親は……もう、いません」
「そう」
カモメが海面すれすれを飛んでは、甲高い鳴き声を上げる。
ジーンが再び呟く。
「深く聞かないんですね」
「なにを?」
「私の妻のことを、です」
海面が、夕暮れを迎えようとしている陽を鮮やかに反射させて、甲板に立つふたりの視界に、眩しく差し込む。
「聞いたところで、あなたが、より深く傷つくだけじゃないの?」
「なぜですか」
「ジーン。あなたは、いま、とても苦しそうな顔をしているわよ」
思わず、ジーンはカナデの顔に視線を戻す。ジーンを見るカナデの目は、先ほどのアイリーンを見つめる顔から一変して、なにか、痛ましいものを見つめる視線だった。
ジーンは笑う。
こういうとき、自分ができるのは、内面の悲しみを上書きするように、苦しげに笑ってみせることくらいしかない。
「たいした思い出では、ないですよ。妻のことなど」
そのとき、ふたりの頭上にコルサコフ港への到着間近を告げる船内アナウンスが響き渡った。
ジーンはカナデに背を向けて、船の先端で海を飽きることなく眺めているアイリーンを連れ戻しに、甲板を歩いていく。
カナデはそのジーンの後ろ姿を、ただ、静かに見守るしか、術がなかった。
それから数十分後、船はサハリン島コルサコフに着岸した。
下船口を出たジーンたちを、大陸とはまた違った、極東特有の荒い風が出迎える。ついに、果ての島に来てしまったという感慨と、辿り着いてしまったものの、この先、この島で自分たちを何が待ち受けているのか、まったく想像が付かないという、どこか非現実めいた思念が、ジーンの心の中でかち合う。
「ジーン、ここからどうするの?」
「とりあえず、移動手段を手にしないといけませんね」
ジーンはアイリーンの手を握り、夕暮れの港町のなかを歩みながら、カナデに応じる。
「研究所は、ユジノサハリンスク郊外の海岸にあると聞いています。レンタカーを借りましょう。それと地図を買ってきます」
そう言いながら、ジーンは、港に一軒しかないレンタカー屋に足を向けた。村の雑貨屋も兼ねている、鄙びたその店に入ってみれば、椅子に腰掛けたひとりの老人がうとうとしながら店番をしている。
ところが、三人が店に入ってきた気配で目覚めた老人は、目をこすりながらジーンを見るや、いきなり、こう尋ねてきたのだった。
「あんた、ジーン・カナハラさんかね? それにカナデ・ハーンさんかい?」
ジーンとカナデは想わず絶句し、顔を見合わせた。ふたつの視線が絡み合ったが、驚きに満ちたふたりの顔は、お互い、この島に知り合いなどいないことを、物語っている。
――どうして、ここに、俺たちの名前を知っている者がいるんだ?
すると、その様子を、物珍しそうに見守っていた老人が、会計台横のキャビネットから、ひとつの真白い封筒を取り出して、ジーンに差し出す。
「先ほど、誰だか知らねえが、なんだか、お偉そうな軍人さんが来なすってなぁ。あんたらが来たら、これを渡してくれと言付けされたんだよ」
ジーンは、知らず知らずのうちに震えだした手で、封筒を受け取ると、糊で厳重に封をされたそれを、乱暴にびりびりと破った。途端に、封筒から中身が飛び出る。
かしゃーん、と音を立てて、なにかが、床に転がる。
その物体を見た瞬間、ジーンの体中の細胞が凍り付いた。
――これは。
果たして、足元の床に転がっていたのは、ロケット付の銀のペンダントであった。
それに、ジーンには見覚えがあった。いや、彼にとって、一生、忘れることなどできない、そんな思い出の品が、いま、彼の目の前にある。
震える手で、ジーンはそのロケットペンダントを拾い上げた。ついで、彼の口から掠れた声が、漏れる。
「なぜ、これが、こんなところに?」
そして彼は、恐る恐る、ロケット部分の蓋を持ち上げた。隣にいたカナデも、そおっ、とその中身を覗き込む。ジーンに手を引かれたアイリーンも、釣られて、精一杯の背伸びをして父の指先を見つめる。
そこには一片の紙切れと、折り曲げられた一枚の写真が挟まっていた。
紙には、ただ、「
そして、写真を広げてみれば、そこには、軍服を着た柔和な顔の男性が写っている。
カナデが息を呑みつつ、その写真を指さしながら、ジーンに問いかける。
そして、その語尾を遮るように、アイリーンの無邪気な声が店内に響く。
「ジーン。これ、あなたじゃ……?」
「あー! おとーさんがいるー!」
ジーンはふたりの声に、なにも、答えられなかった。
自らの写真が納められた手中のペンダント、そして、そこから蘇る忌まわしい思い出に、彼はただ全身を小刻みに震わずばかりだった。