「息子のミハイルとは、彼が、九歳の時に別れて以来なの」
デモ隊が通り過ぎ、静けさを取り戻したウラジオストクの街の路上に座り込んだカナデが、ぽつり、と独り言つ。
ジーンは言葉もなく、青ざめたカナデの顔を見つめるのみだ。やがて、その頬に透明な一筋の涙が、つーっ、と伝うのを彼は、無言のまま、だが、目をそらさずに見つめ続けた。
「そのころ、私たち家族は、ユーラシア革命軍政府掌握地の外の、紛争地帯に住んでいて……もう、夫とは連絡が取れなくなって久しかったけど、それだからこそ、私とミハイルは仲睦まじく暮らしていた。たったひとりの子どもだったから」
涙を流しながらも、カナデは感情のない人形のように、訥々と語り続ける。
「それがある日、ひょんなことで、別れ別れになってしまって。私は彼に日頃から、もしそういうことになったら、ウラジオストクにいる知人のところに行くように言い聞かせていたの」
カナデは、ぎゅっ、と握った両手の拳を、ただ、震わせていた。
「だから、きっと、この街のどこかで、元気で暮らしていてくれてさえいれば、いつか、また会えると信じていたけど」
涙を拭うこともできぬ、カナデの固く握られた拳が、ふるふる、と振動する。
「まさか、まさかね、こんな、再会だなんて」
そして、カナデはそのままの姿勢で、ふっ、と空を見上げた。短い夏を迎えたシベリアの空は、蒼く澄み渡り、太陽のひかりは、カナデの涙をまぶしく照らす。
街路樹の木漏れ日が、静かにカナデと、アイリーンを抱いたジーンの影を包む。
「おとーさん、カナデおねーちゃん、なんで泣いているの?」
「アイリーン、それはね、お姉さんには、いま、悲しいことがあったからだよ。だから、そっとしておいてあげるんだよ」
ジーンはアイリーンの耳元でそう囁いた。だが、そう言った後で、まるで自分が他人事のように、涙を流すカナデを目にしていることに気が付き、途端にジーンの心は闇に淀む。
――自分のせいなのだ。この目の前で生じた、カナデ親子の悲劇のそもそもの原因は。俺が、彼女をターンの実験材料にしなければ、こんなことには、ならなかった。こんな、ことには。
「おーい、姉ちゃんたち。なにがあったか分からねえが、姉ちゃんが派手に壊してくれたドア、なんとか直したぜ」
沈痛な空気を割って、ヴァンスの低い声が背後から響き、カナデとジーンは我に返った。
「港に送っていく途中だったろ。そろそろ車に乗らないと、船の時間に遅れちまうぜ」
そのヴァンスの声に促されるようにして、カナデがのろのろと、立ち上がる。そのカナデの表情があまりも痛々しくて、ジーンは思わず、カナデの肩に手を添えた。
自分がそのような気遣いを見せても、偽善としか感じられないだろうな、と思いながらも、おずおずと。
だから、カナデが弱々しいながらも、ジーンにこう呟いたときは、かなり、意外な気がした。
「ありがとう、ジーン」
「カナデ……」
そうして、カナデはジーンの肩に置いた手に、そっと自らの手を重ねる。柔らかな感触に、ジーンは思わずカナデの顔を改めて見返す。
その淡い琥珀色の瞳は、相変わらず昏い影を纏ってはいたが、彼女の頬に涙はもう流れていなかった。カナデは身を翻すと、ヴァンスの車にすたすたと歩を進めた。
「ほーんと、姉ちゃんたちは、なーんかわけあり、って様相だなあ。まあ、俺は首を突っ込んだり、しないけどよ」
ヴァンスが三人を乗せた車を港へと進めながら、ぼやく。その後、彼は頭を、ぼりぼり、と掻きながらハンドルを操っていたが、やがて、視線を前方から動かさぬまま、ぼそり、と呟いた。
「……姉ちゃん、あんたが呼び止めていた若者は、港湾管理局の制服を着ていたぜ」
「港湾管理局……」
「寄らなくて良いのかい? そこの白い建物が、そうだ」
ヴァンスが顎で、くいっ、と車窓の外にある、白く堅牢な建物を示す。
「なにがあったか知らねえが、姉ちゃんにとって、大切な人なんだろ?」
カナデの顔に戸惑いの色が広がり、思わず、ジーンと視線を交わす。
ジーンは数瞬の逡巡の後、彼女の目を見つめて言った。
「カナデ、ヴァンスの言うとおりです。行ってらっしゃい」
「でも」
「カナデ、後悔は少ない方が。私が言うのも、説得力がありませんが」
「……そうね」
カナデはそう微かな声で頷くと、素早く車を降り、微かに潮の香りが広がる街角に駆け出していった。
カナデは港湾管理局の重い扉を開けると、中に入り、案内図に従って重厚な木の手すりが光る階段を駆けあがった。受付は三階だ。
だが、最後まで駆け上がる必要はなかった。偶然、ミハイルが同僚らしき数人の男女と談笑しながら、階段を下りてきたからだ。
「あ……あんたは、さっきの」
「ミハイル……」
カナデが震える声で、呼びかける。刻が止まる。
目の前に、生き別れて久しい、息子がいる。
たくましく立派に成長した、息子がいる。
元気な姿で、立っている。
カナデの胸に様々な想いが去来する。
再会できたら、なんと言おうか、ずっと、ずっと考えていた。
心の中で、ずっと、ずっと温めていた言葉があった。溢れんばかりの、言葉があった。
いくつもの、いくつもの、言葉があった。
だが、十数秒の後、口から出た言葉は、あまりにも短いものだった。
「どうか……いつまでも元気で、生きていて」
そうして、彼女は、それだけ口にすると、スカートの裾を翻し、階段を駆け下りた。
後ろから、なにか、カナデを呼び止める息子の声が聞こえたような気がする。
しかし、彼女は振り返ることもせず、ただただ、懸命に足を階下へと運んだ。
――これでいい。これでいい。今はこれでいい。
知らず知らずのうちに、また、カナデの瞳から涙が溢れ出る。嗚咽が漏れる。
階段をすれ違う人が、奇異な目で彼女を見る。風を切って階段を駆け下りる金髪の少女に、目を向ける。
――生きてさえいれば、きっとまた会える。だから、今はこれでいい、今は。
流れる涙もそのままに、そう心の中で呟きながら、カナデは足を止めず、一陣の風のようにその場を走り去っていった。