――いつのまにか、気を失ってしまったらしい。
ジーンはあいまいな輪郭のまま浮かび上がる意識の扉を、半ば、無理矢理こじ開けた。
そこはホテルのベッドの上で、安宿にしてはふんわりとやさしい感触の、羽布団が彼の身体を包んでいる。興奮した脳内の挙動の名残か、頭が痛い。
――あれは、いわゆる、パニック発作というやつだろうか。だとしたら、二度目の発作だな。
ジーンは自分がここに横たわる前の出来事を、ゆっくりと思い出しながら、自嘲した。
「俺は、俺は、俺は、俺は、あいつを、あいつを! 殺した! 殺したんだ!」
そう、あれは、己が妻を、この手にかけた直後のことだ。
バイカリスク基地における憲兵詰め所での事情聴取中、その精神的苦痛の余り、ジーンは同じ発作を起こした。
呼吸が速まり、息苦しさのあまり、手足が震える。そして、自分でも何を叫んでいるか分からぬ咆吼を上げながら、取調室の床に昏倒したのだった。
頬を床に転げたとき感じた冷たさと鈍痛は、恐慌状態の意識下にあったというのに、いまだ、やけにはっきりと記憶に刻まれている。
「またしても、か……。俺は……」
ろれつの回らない口でそう呟いたとき、ジーンは自分の額に、しっとりと水に濡れたタオルが置かれていることに気が付いた。そして、そのタオルの上には、ほっそりとした少女の白い指先が添えられている。
ジーンは思わず、縋るようにその指先に、自らの掌をおずおずと重ね、その名を呼んだ。
「カナデ……」
「ジーン。大丈夫よ、私ならここにいるわ」
ベッド脇の椅子に腰掛けていたカナデは、穏やかな顔で、ジーンに囁いた。耳を澄ませば、隣のベッドからは、幼い娘の寝息が響いてくる。
「アイちゃんなら、もう寝かしつけたわ」
「……ありがとう……ございます……」
「だから、あなたも、ゆっくり休んでいて、大丈夫」
「すみません……」
「謝らないで良いのよ、ってさっきも、何度も言ったでしょ、ジーン」
ジーンの謝罪を、カナデは、ふふっ、と顔に穏やかな笑みを浮かべながら遮った。仄暗い部屋の中で、淡い琥珀色の瞳がやさしく揺れるのがジーンの目に入る。その眼差しが与える安堵感が、かえってジーンの心をかき乱す。
「私はあなたに、情けないところを、見せてばかりだ……」
「だからなんだと言うの」
再び、弱音を口にしたジーンの掌を、カナデはそっと、さすった。ベッドサイドに置かれたランプの影に、長い金髪が、ゆらり、揺れる。
その瞬間、ジーンの心の中で、いつの頃からか抱いていた彼女への思慕が爆ぜた。
抑えきれぬ想いが、遂に口から零れた。
「カナデ……」
「なあに、ジーン」
「私は、あなたが、好きです」
「……そう」
カナデはジーンの突然の告白に、穏やかな表情を動かすこともなく、ただ、ジーンの掌をぎゅっ、と握ることで応じた。
そして、ジーンの顔にそっと覆い被さると、その夜、二度目の口づけを彼に与えた。ただし、今度は、奪うのではなく、ゆっくりと。
ジーンも、先ほどとは違って、されるがままに、カナデの舌を受け入れる。
ジーンは抗いがたい恍惚を感じながら、カナデと唇を重ね続ける。そして、誘われるままに自らも舌を動かし、カナデの口のなかを弄る。
どのくらい、そうしていたのか。
急に、口内からカナデの舌の感触がふっ、と消え失せたのを感じてジーンは我に返った。彼は、慌てて起き上がると、その目でカナデの姿を追う。
見れば彼女は、ランプのスイッチに手を伸ばしていた。
次の瞬間、ぱちり、とランプの明かりが消える。部屋は暗闇に包まれた。その静寂に、カナデが衣服を脱いでいるらしき、衣擦れの音が響く。
「カナデ」
「……しっ、アイちゃんが起きちゃうわ」
闇の中、カナデの落ち着いた声に続き、ジーンの身体の上に彼女の柔らかな裸体が、快い重みを持って舞い降りる。ジーンは躊躇いながらも、その肢体に腕を回す。
あたたかい。
そのすべての熱が、心に染み入り、ジーンの身体の芯をも熱くさせる。
「いいんですか……カナデ」
「……私でよければ」
そう言いながらも、カナデの指先は既にジーンのシャツのボタンを弄っている。ぱち、ぱちり、とボタンが外れる音とともに、己の肌が外気にはだけていく。
シーツと皮膚が擦れるのが、些かくすぐったい。
その刺激に、ジーンの最後の理性が溶け落ちた。
「……よくないはずが、ないじゃないですか……ずっと、こうしたかったんです……私は……」
「ジーン……」
カナデの吐息が漏れる。闇の中、今やふたりは、生まれたばかりの姿を重ね合っていた。
その晩、互いの孤独を埋め尽くすように、または、未来へのひかりを探し求める聖なる儀式のように、カナデとジーンは求めあった。
そこには全てがあった。
ふたりが求めていた、世界が。
そして、ふたりの失った世界の、全てが――。