海が、波が、白くうねる。
ざざーん、と、波が打ち寄せる浜にて、カナデが、流れ着いた不恰好な琥珀らしい小石を拾い上げる。
「琥珀海岸、っていっても、売り物みたいに綺麗なものが漂着するわけじゃないのね」
一方、アイリーンも、琥珀を拾うのに夢中だ。海の中に足を浸して、少しでも大きな琥珀を探そうとちいさな手で砂を攫う。
「おとーさん、おっきい茶色の石、みつけーたー」
アイリーンは、琥珀を手にしながら楽しげに笑う。
「うみのみずって、つめたーい」
「そうだな、アイリーン」
ジーンは、アイリーンの満面の笑顔に目を向け、自らも微笑んだ。
本当は、コルサコフを出る時、アイリーンのことは、誰かに託してきたかったのであった。なにが待ち受けているか分からない、この地に向かうからには。だが、あいにく信頼できる人間も、この極東の島には思い当たらない。
ジーンは思う。
しかたなく、三人でこの村に来たからには、必ず三人とも無事で、生きて帰らねばと。そして、カナデを元に戻す手がかりを、なんとしても得なければ。とも。
ジーンがそこまで考えた時、カナデが、はっ、とした顔で陸の砂丘の向こうを見た。
「ジーン、誰か来るわ」
「えっ」
「おそらく、男性と女性がひとりずつ」
ジーンにはその気配はまったく、まだ、わからない。だが、ジーンはカナデの言葉を受けて、胸ポケットに忍ばせた銃に手を伸ばす。カナデも同様だ。二丁の銃は、ヴァンスがウラジオストクで別れるとき「あんたら、この先、いろいろ、あるんだろうからな」と餞別に渡されたものだ。
ふたりはじっと耳をすまし、目を凝らす。すると、数分ほどのち、ジーンにも遠目に、二十代後半から三十歳くらいの男女がこちらへ歩いてくるのが、見えた。どうやら村の住人らしいが、油断はできない。
ジーンはアイリーンを波間から、ひょい、と抱き上げると、銃を砂丘に向けて定めた。しかし、三人を認めた村人の声は、ジーンの予想に反して穏やかなものだった。
「珍しいな、よそ者がこの村に来るなんて」
にこやかに男が言う。
「兄さん、あんたは幾つだ?」
銃を構えながらも、ジーンはつい、馬鹿丁寧に応じる。まったくもって、本当に、こういうとき性分が出るな、と、思いつつも。
「三十二歳になります」
すると、男はなんとも不思議な問いかけをしてきた。
「ほう。お前さんは、
「え?」
「ちなみに俺はターンだ。今年で六十五歳になる」
ジーンは戸惑った。
「とても、そうは見えませんが。私と同い歳ぐらいとばかり……」
「あたりまえだ、ターンをしているからな」
「ターンを?」
ジーンとカナデは、会話のなかに突如出てきた「ターン」という忌まわしい単語に、身体を固まらせる。
しかしながら、男はさらに不可思議なことを言う。彼は横の女性を指差した。
「ちなみに、こいつはうちの孫だが、リ・ターンをしているから、本来は十四歳だ」
「十四歳?」
「ああ、だが、リ・ターンの薬が合わなかったらしくてな、知能はかえって子ども返りしてしまったが。どうも、ターンに比べて、リ・ターンの薬の効能は不安定でいけない」
そして、話について行けずに、無言で目を見開いている様相のジーンを見やって、男は溜息交じりに呟いた。
「お前さんは、本当に、なにも知らないでこの村に来たんだな。俺はこの村の世話役で、ユーリ・フォーミンという。こいつはオルガ。あんたは?」
「ジーン・カナハラだ」
「そうか。じゃあ、ジーン、教えてやる。この琥珀村は、村の中心部にある軍の研究所の、被験体たちが住む村だ。それも主に、ターン、もしくはリ・ターンの実験による被験体が殆どだ」
カナデ、それにジーンはユーリの言葉に思わず息を呑み、数秒の後、ユーリに問い質した。ざざん、ざざん、と響き渡る波の音の狭間にジーンの声が響く。
「この琥珀村の住民全員が、被験体で構成されているのですか?」
そのときだった。カナデが再び鋭く叫んだ。
「ジーン、誰かまた来るわ!」
ジーンは慌てて周りを見渡した。だが、ジーンの耳に響き渡るのは、波の音のみである。しかし、カナデの聴覚にやはり間違いはなかった。
果たして、数分の間をもって、砂丘の上から聴こえたのは、ジーンには懐かしい声であった。
「ご苦労だった、ユーリ。もう下がって良いぞ。そこから先は、俺が教えてやるさ、ジーン・カナハラ」
「クオ!」
見れば、海風に肩までの長髪を揺らすクオの長身がある。
ジーンはかつての同僚に姿に思わず安堵して、銃の構えを解き、彼に走り寄ろうとした。
「殺されていなかったのか、生きていたのか!」
「おっと、気安く俺に近づかない方が良いぜ、優男ちゃん」
クオが顔に薄い笑いを浮かべ、ジーンを牽制する。そこでようやく、ジーンは、今更ながらクオがユーラシア革命軍の軍服を纏っていることに、違和感を覚え、立ち止まる。
「なんでだ、クオ」
「鈍感だなあ、優男ちゃん。そりゃ、月の研究所を殲滅させたのは、他ならぬ俺の指示だからさ」
「え?」
ジーンには最初、クオの言葉の意味が分からなかった。
だが、次の瞬間、月面を走るホバークラフトの中で見た、研究所での惨劇が思い浮かぶ。
容赦ない銃撃、血にまみれ山積みにされた研究員の遺体、そして、広場に吊るされたドロシーとデュマの無残な姿――。
そのどれもが生々しく、ジーンの五感に迫る。
それが、すべてクオの指示だった? 彼は今、そうたしかに、ジーンの前で口にした。
――どうして? どうしてだ?
ジーンは呆然としつつ、目の前に悠然と立つクオを見た。
「……なぜだ? なぜ、あんなことをやった?」
すると、クオはさらに嗤った。くっくっ、と楽しげに。
「いろいろあるがな、ひとつは、あの月の裏側での研究成果を、他の誰にも漏らさぬ為だよ。全ての成果は、ただひとり、我が元首のために還元されるべきものだからな」
「レ・サリ元首のために?」
ジーンの手がわななく。なぜこんなところで、自らの国の最高指導者の名が出てくるのか、彼には訳が分からない。
だが、クオはそれ以上、そのことについて懇切丁寧にジーンに説明することはなく、いきなりカナデを指さすと、ジーンに告げた。
「ジーン・カナハラ。カナデ・ハーンをこちらに渡してもらおうか。ここの村の被験体は、すべてみなどこか身体に欠陥がある、いわば失敗作だ。だが、そのカナデ・ハーンこそは、今まで様子を見させてもらった限り、一番完璧なターンの被験体だ。いわば、ターンの試薬を完成させるために、彼女の生体データは必須なのでな」
途端にカナデが顔を顰め、銃を構え直す。彼女の顔は険しく、瞳は、きっ、とクオを睨んだままだ。
「断る。彼女をこれ以上、弄ばせるわけにはいかない」
ジーンの明解な答えに、クオは、そう思っていたよ、とばかりにいよいよ楽しそうに唇を歪めた。
「そうだろうな。ならば、力ずくで奪うしかないな。おい、出てこい」
すると、砂丘の陰から、ひとりの小柄な女性が歩み出てくる。きゅっ、きゅっ、と、ゆっくり、ゆっくり、砂を踏みしめて。
「……!」
その女には、見覚えがあった。
他の誰よりも、ジーンには見覚えがあった。
あの、癖のある茶色の毛髪に、くりっ、とした、菫色の瞳。
だが、最期に見た姿よりかは、十歳ほど、歳を取って見える。
しかし、だが、しかし。
――あれは、あの面影は、まごうことなく。俺が、この手で、殺した。
「レ……ベッ……カ……!」
「おお、遠く離れてなお、愛する妻の顔を覚えていたか、麗しいな、ジーン。ああ、ちなみに少し感じが違って見えるか? それはな、彼女には、リ・ターンの薬を打ってあるからだ」
「……なんだ? それは?」
ジーンは死んだはずの妻を凝視しつつ、途切れ途切れに、呻いた。クオはその様子を殊更面白げに眺めつつ言葉を、放る。
「教えてやるよ。
「分かりました。ケセネス准佐」
どこか遠くで、海鳥が叫ぶ。
唸る浜風にダークグレーの髪をなびかせながら、ジーンは呆然と死んだはずの妻の顔を見つめる。
しかし、その菫色の瞳はジーンを捉えても、昏く濁ったままで、まったくの無反応だった。