足が痛い。
カナデは手錠を掛けられたままの手で、そっと脛をさすった。
あれから――ジーンが海に姿を消してから――、浜辺から随分、
廃屋が目立つ琥珀村はなんとも不気味な雰囲気であった。
人気は殆どなく、たまにすれ違う村人も、どこか不自然な表情の人間ばかりだった。年齢はいろいろだったが、どの人間も、生気がなく、呆けたような顔をしている者もいた。そのたびに、ここの住民はすべて、ターンもしくはリ・ターンの被験体であるという事実を思い知らされる。
カナデは、なんてことだろうと、心底から迫る怖気に全身をわななかせる。
自分たちは、いや、少なくとも自分は、民衆をこんな目に遭わせたくて、身を粉にしてあの日々を過ごしたのではない。建国の理念はどこへ行ってしまったのだろうか。
――レ・サリはこの状況を知っているのであろうか。そして、他の指導者たちはいったいどうしているのか。
カナデの胸に、この国に対する哀しみと怒りの焔が、燃え上がる。
「カナデおねーちゃん、おとーさんは?」
不意に、傍らに座り込んでいたアイリーンが不安げに呟いた。カナデはアイリーンを安心させねばと、やや固い表情ながら、アイリーンに顔を向けて微笑んだ。
「大丈夫よ、お父さんは、後から来るわ」
「そうだといいけどなあ」
クオが即座に、カナデの言葉を茶化して嗤う。
「お前の大切なお父さんは、いまごろ、サメの餌になっているかもしれねえな。なあ、カナデ・ハーン」
カナデは床の上から、愉快そうに嗤う彼を、きっ、と睨み付けることしかできない。
――これまでなのだろうか、私は。ジーンを助けにいくことも叶わず、またここで、実験に使われるのか。
そう思うほどに、自分の力のなさが歯がゆくて、カナデは、ふと、泣きたくなる。だが、そうはしまいとの必死の思いで、顔を引き締める。
そんなカナデを、クオは冷たい視線で見下ろしていたが、唇を歪めると、唐突にこう言った。
「さて、第二のお楽しみの時間だなあ」
今度は何をする気だ、とカナデがクオを見上げると、突如、クオが、彼の傍らに佇んでいたレベッカを、アイリーンの前に、どん、と突き出した。
そして、薄笑いを浮かべながら、アイリーンに告げる。
「アイリーン、お前のお母さんだぞ」
しかし、アイリーンは目の前のレベッカを見ては、目を、ぱちくりさせるのみだ。ふたつの菫色の瞳が交差する。
しばらくの後、アイリーンが、レベッカから目をそらした。そして、彼女は甲高い声で叫んだ。
「ちがう!」
アイリーンの丸く大きな瞳に、じわっ、と涙が滲む。
「このおねーちゃんは、アイちゃんのおかーさんなんかじゃない! だって、アイちゃんのおかーさんは、おとーさんいじめたりしない! やさしい、やさしいおかーさんだったよ、っておとーさんも言ってた!」
正面に立つレベッカに向かって、アイリーンはなおもぐずりながら、泣き叫ぶことを止めない。
「それに、このおねーちゃんは、カナデおねーちゃんもいじめた! そんな、いじわるなおかーさんなんて、アイちゃん、いらない! いらないもん!」
レベッカは己と同じ瞳の色の幼子を、ただ、最初、無表情に見つめていた。だが、アイリーンがぐずりはじめ、そのうち大泣きするに至って、レベッカの表情が不意に歪んだ。澱んだ目ながら、どこか愛しいものを見つめる視線をアイリーンに投げる。
そして、おずおずと、両手を泣き叫ぶアイリーンに向けて差し出しながら、ちいさく囁いた。
「わ、わたし、の……? わたしの……こ、ど、も?」
しかし、アイリーンは自らに差し出されたレベッカの手を、思い切り振り払った。
「やだ、やだー! このおねーちゃん、こわい! たすけて、おとーさん、たすけて、カナデおねーちゃん!」
そう、アイリーンに拒絶されたとき、レベッカの瞳に昏く澱んだ焔が浮かんだ。次の瞬間、レベッカは言葉にならぬ咆哮を上げながらアイリーンを張り倒した。
「アイちゃん!」
カエデは慌てて、手錠をされたままの手で、アイリーンのちいさな身体を、なんとか受け止める。見れば、アイリーンの頬は真っ赤に腫れていた。
アイリーンはますます大きな声で泣き叫びながら、カナデにしがみつく。思わずカナデはレベッカを睨み付けて怒号を上げた。
「なんてことをするの!」
だが、カナデの怒鳴り声を聞いて、レベッカの中で、なにかがさらに暴発した。
レベッカは咆吼の矛先を、カナデに向け直し、今度はカナデを渾身の力で殴打した。カナデが呻きながら床に転がる。だが、レベッカの手は止まらなかった。拳を握りしめたレベッカは、力任せにカナデの顔を殴った。
一発、二発。
カナデの唇が切れて、赤い血が零れる。
三発、四発。
白い床に赤く、飛沫が跳び散る。
さらに、レベッカは床に崩れ落ちたカナデに馬乗りになると、彼女の長い金髪を鷲掴みにしつつ、その身体を夢中で殴り続けた。
身動きの取れないカナデの悲鳴と呻き声、そこにアイリーンの泣き声が重なって、部屋中に響き渡る。
だが、レベッカの拳は止まらなかった。カナデがその暴行に耐えかね、悲鳴すら上げられなくなり、血を吐きながら床に丸太のように転がり、意識を手放しても、レベッカはカナデを痛めつけ続けることを止めなかった。殴り続けた。レベッカ自身にも分からない、黒く澱んだ激情、そして哀しみが、彼女をそうさせ続けた。
それは、ひたすら、昏い笑いを口に浮かべながら、一部始終をにやにやと見守っていたクオがレベッカに声を掛けるまで、終わることはなかった。
「ああ、もう、そのくらいにしておけ、レベッカ。殺してしまっては元も子もない」
その声に、レベッカの動きがぴたり、と止まる。
気が付けば、彼女は泣いていた。
カナデの返り血を浴びて汚れた頬に、つーっ、と幾筋もの涙が流れる。
だが、レベッカにはその涙の意味も自身では判別できず、ただ戸惑ったような顔つきで、クオの方を見た。そして、彼女は、クオに向けて、いつもの通りの言葉を、呆けたように、呟いた。
「分かりました。ケセネス准佐」
しかしながら、そう口にしてからも、彼女の頬には止めどなく涙が溢れた。
彼女自身、理解できぬ涙が、赤く汚れた床の上に、ぽたり、ぽたり、と落ちるのを、レベッカは訳も分からずただ、眺め続けるのみだった。