ユーラシアの、明け方の大気が揺らぐ。
風に吹かれた砂塵が舞う。
その曙色の空の下に広がる野営地の草原に、ひとり直立する金髪の少女兵の姿があった。
淡い琥珀色の瞳は、ぱっちり見開かれ、その視線の先にある地平線を、きっ、と見つめている。
「なんだ、カナデ。もう起きていたのか」
「あら、セルジオ。あなたも早いわね」
「ああ。目が、覚めちまってな」
カナデは、ふふっ、と笑った。
テントから出てきたタハはカナデの隣に、静かに腰を下ろすと、カナデの顔を見上げて尋ねた。
「こんな朝っぱらから、なにを考えていた? カナデ」
「……私、ときどき、分からなくなるの。この戦いの先に、なにがあるのか」
「どうしたんだ、カナデ。俺たちが連合国に対して、この地でレジスタンス活動を始めて、もう一年。順調に掌握地は広がっているし、仲間に加わる軍勢も増えている。なにか杞憂があるのか、カナデ」
タハが黒い髪を朝の風に揺らしながら、カナデを見上げる。美しい琥珀色の瞳が戸惑ったように揺れているのが、彼の目に映る。
「ええ、そうよ、その通りよ、セルジオ。でも、考えてしまうの……」
すると、背後からその肩に、ぽん、と手を置いた者がいた。茶色の髪が、朝の風に揺れてカナデの視線を奪う。
「案ずることはないさ、カナデ」
「サリ」
そう呼ばれた精悍な風貌の若者は、軍の司令官には似つかわしくない、柔和な顔でカナデに向けて笑みを向ける。カナデは彼を気遣うように言葉を掛けた。
「サリ、今日は身体の調子、悪くないの?」
「ああ、気分は上々だよ。いつも心配掛けてすまないな、カナデ、それにセルジオ」
サリはやさしく笑いながら、そう語を継いだ。草原を渡るやわらかな風には、夜明けの気配が滲んでいる。その風を感じながらも、タハとカナデは口々に、サリを気遣う言葉を彼に投げかける。
「そうは言うが、サリ。体調には、気をつけろよ。お前あっての、俺たちなんだからな」
「そうよ、あなたは、人より身体が弱いんだから」
すると、サリは肩をすくめつつも、ふたりに礼を述べる。そして、それに続けて、自らが心に抱える国への想いも。
「ありがとう、ふたりとも。だが、俺のことは二の次でいいんだ。俺は、まず民衆のことを考えていたいし、お前たちにも、そうしてもらいたいんだからな」
そう言いながらサリは茶色の髪を揺らしつつ、遥か遠くの地平線から、カナデの顔に静かに視線を移した。
「すべては、民のことだけ考えていれば、うまく行くのさ。そう、カナデ、お前の迷いだって同じことだ」
「民のこと……」
「迷ったら、そこに立ち返ってまた道を探せば良い。それさえ忘れなければ、俺たちユーラシア革命軍の理想はきっと叶う。それだけのことさ」
自らの理念を噛みしめるようなそのサリの言葉に、カナデは苦笑した。
「あなたらしいわね、サリ」
「まあな。とにかく、ひとりで悩むのはやめろ、カナデ。
「いやあだ、私、その呼び方、あんまり好きじゃない」
少しおどけるようなサリの声に、カナデが頬を膨らませて抗議する。それを見て、サリとタハは、ははは、と声を合わせて笑った。
それから三人は、朝陽が草原の向こうから昇ってくるのを、しばらく黙って眺めていた。
地平から満ち溢れる眩しいひかりに、それぞれが思い描く未来を重ね合わせて。
「……カナデ、あれから俺たちは、レジスタンス活動を成功させて、ユーラシア革命軍政府を設立させた。だが、その直後だったな。お前が俺とサリの前から姿を消したのは」
「ええ、そうよ」
「なぜだ、カナデ」
「私が軍を離脱したのは、ひたすらに、怖かったのよ。権力が手に入って、周りのもの全てが変わっていく光景を見るのが。私は軍人としては
深夜の廊下にて、訥々と思いの丈を語るカナデの言葉に、タハは嘆息した。
「それならそうと、言ってくれれば」
「ええ、黙って去ったのは、悪かったと思っているわ、あなたにも、サリにも。……でも、離れたことに間違いは無かったようね」
そして、カナデは半分真白くなった金髪を激しく揺らして、タハを見つめた。
「セルジオ、この国はいったいどうなってしまったの! こんな、ひどいことばかりやって!」
「カナデ……」
「私たちの理想はどうなったの!」
すると、タハが沈痛な面持ちでカナデに答える。
「カナデ、まさか、お前が被験体となっていたことは知らなかったが、仕方ないのだよ」
「どうして!」
「この国は今や、サリに対する個人的な崇拝だけで、なんとか統治されているような状態だ。それはカナデ、お前もこの国を知っていれば、薄々感じていることだろう?」
「ええ、セルジオ、それはよく、分かるけれど。だからといって、この愚行とサリに、どんな関係があるっていうの?」
「大ありさ。これらの人体実験の目的は、その得られた成果を、すべては、サリの延命に還元するためだからな」
「えっ……」
カナデは言葉を失い、呆然とタハの顔を見返した。
そのカナデの戸惑うような視線から目を背けるようにしながらも、タハは淡々と己の信義を吐く。
「俺たちは、今、どんな手を使っても、サリを死なせるわけにはいかない。そうしないと、さらなる動乱が起こって、もっとたくさんの人死が出る」
カナデはさらに、絶句する。そして、震える声でタハをゆっくりと問い質した。
「サリは、そんなに悪いの?」
「ああ。お前が俺たちのもとを去ってほどなく、体調を崩した。それから、ここ十年は、寝たり起きたりの生活だ」
「……そうだったの。でも、こんなことを、サリは望んでいないでしょう?」
「それは分からん。みな、俺が独断でやったことだからな。だが、全ては国を思ってのことだ」
「……セルジオ」
そうカナデが呻いたときのことだ。
タハではない男性の、掠れた、だが、厳格な声が、深夜の廊下に響き渡った。
「俺はそんなことを望んでいない」
見れば、いつのまにか、タハの背後に電動車椅子に乗った男性が佇んでいる。
「セルジオ、もう止めろ。無駄な策略は」
そう言葉を放った男の顔色は浅黒く、一目で死相が宿っていると分かる様相であるが、眼光は鋭く、白く薄くなった茶色の髪も綺麗に整えられている。
そして、なにより、精悍な顔立ちは若い頃と変わらない。
そう、街角のあらゆる箇所に掲げられた、その肖像画の如く。あまりに見飽きるほど見た、そのポスターの如く。
ジーンは、思わず叫んだ。
「レ・サリ元首!」
その声に、サリの視線がジーンを過ぎる。ジーンとサリの視線が、絡む。ジーンは押し寄せる緊張の余り、傷の痛みも忘れ、アイリーンを抱きしめて頭を垂れた。
だが、サリはすぐにジーンから視線を離し、カナデの傍らに車椅子を移動させると、ゆっくりと、その顔を見上げた。
三十数年ぶりに見る戦友の懐かしい顔に、カナデは声を震わせる。
「サリ!」
「久しぶりだな、カナデ。会いたかったよ」
そう言いながら、サリは眼光を柔和にさせると、カナデの長い髪にそっと触れ、囁いた。
「カナデ、お前と知らなかったとはいえ、面倒なことに巻き込んでしまったようだな。悪かった」
「サリ……」
カナデも、顔にやさしい笑みを浮かべる。そして、自らの髪に触れたサリの痩せ細った手を取った。
すると、英雄と呼ばれる男が、遠い目をして、ぽつり、と悲しげに微笑みながら、こう呟いた。
「お前は賢い女性だよ。結局は、お前の杞憂のとおりだったな。所詮、俺たちは、政治には向いていなかった」
カナデの胸に、あの日のユーラシアの夜明けが過ぎる。
そして、目の前のサリと、その横に立って黙りこくっている、タハの心中にも。
風が、吹き渡る。
未来にひかりあれと、ひたすらに念じ続けた遠い日々が、蘇る。
そう互いに微笑みあった日々が、色鮮やかに脳裏に浮かぶ。
やがて、その回想を振り切るように、ゆっくりとサリが口を開いた。
「俺が死んでこの国の天命が尽きるとしたら、それはもうその時だ」
そして、いつの間にか手にしていた、なにか黒く光るものを、カナデの手に、そっ、と置いた。
それは、短銃だった。
思わぬことに、絶句したカナデに、サリは再びやわらかく微笑んだ。
「俺はそんな企みに乗ってまで、生きながらえたくはない」
「サリ! あなた……」
「セルジオ、後は頼んだぞ。いまや、この国の一番の障壁は、俺が生きていることだ。だったら、俺は静かに消えるだけさ。さあ、カナデ、俺を撃ってくれ」
そして最後にサリは、肩をすくめながら、照れるようにカナデにこう「告白」した。
そう、あの、懐かしい、少しおどけるような口調で。
「惚れていた女に最期を任せた、なんて、英雄レ・サリの人生の終わらせ方としては、なかなか、ユニークだろ?」
カナデの目に、涙が溢れる。
彼女の淡い琥珀色の瞳が、哀しみと愛おしさに濡れるのをジーンは見た。
そして、先刻より白さを増した髪を揺らし、彼女がこう言いながら、かちゃり、と短銃を構えるのも。
「愛しているわ、サリ」
そのとき。
カナデが引金に震える手を添えたそのとき、それまで、その場を見守るしかなかったジーンのなかで何かが爆ぜた。
彼は一瞬のうちに決意を固めると、抱きかかえていたアイリーンを床に下ろして立ち上がり、銃を手にしたカナデの腕を強く引き寄せ、叫んだ。
「カナデ! だめです!」
「……ジーン、離して! だって、もうこうなったら、私がこうするしかないのよ!」
「それは、あなたのやることではない! 医者である私の仕事だ!」
ジーンの髪を振り乱してのその絶叫に、カナデが息をのむ。
それは、傍らのタハとサリも同じであった。サリは浅黒い顔の眉をぴくり、と顰め、タハはジーンの言葉の意味を悟り目を見開いた。
果たして、次にジーンがタハに向き直り放った質問は、タハの予想を裏付けるものであった。ジーンは淡々と彼に質す。
「タハ閣下、この施設に、塩化カリウム剤、または、バルビツール酸系の薬の用意は?」
タハは深夜の廊下で繰り広げられる予想外の展開に、ジーンの問いにも咄嗟に答えられずにいる。だが、その僅かな表情の揺らぎから、ジーンにはタハの答えが分かった。だから、彼は即座にこう語を継いだ。穏やかな口調ながら、覚悟を秘めたどこまでも真摯な声で。
状況を全く分かりようのない愛娘が、廊下に沈殿する重い空気に瞳をぱちくりさせながら、大人たちのやりとりを見守っている気配を頬に感じる。
「あるのですね。では、私がやります」
「……ジーン、あなた……」
カナデが声を掠れさせて、呻く。
しかし、その悲痛な顔を見てもジーンの心はもう揺らがなかった。いや、そんなカナデの苦悩を見てしまったからこそ、揺るぎようがない、というべきか。
ともあれ彼は険しい表情を緩めると、カナデを諭すように語りかける。唇には僅かながら、微笑みさえ浮かべて。
「カナデ。あなたがそれをやったら、単なる自殺幇助です。この国ではそれは、罪です。だったら、私にやらせてください」
「でも……」
「私は、いま、あなたの役に立つことで、医師としての本分に立ち返りたいのです。それが私の務めです。さらに言うなら、これは、私のあなたへの償いです。だから、お願いします、カナデ」
そしてジーンは車椅子の男に深々と一礼する。ありったけの敬意を込めて。
それから、やもすると声が震えるのを堪えながら、自国の最高指導者に、こう、口上を述べた。
「サリ元首。私は軍医です。安楽死を望むなら、私にやらせてください」
ジーンの言葉に、サリの口角が上がった。
こんな緊迫した場面であるのに、その浅黒い顔からは、これはなかなか面白いことになったな、というような余裕さえ見て取れるようにジーンには感じられ、改めて目の前の男に畏怖を覚える。だが、それでもジーンはサリの瞳をまっすぐに見据えた。勇気を振り絞って、目前の英雄を、見据え続けた。
するとサリの唇が今度は分かりやすいほどにほころんだ。サリの皺の寄った精悍な顔が緩む。そして彼は目の前に立つまだ年若い軍医に柔らかく声を掛けた。
「……君の名は?」
「ジーン・カナハラです。ユーラシア革命軍軍医少尉であります」
仄暗い廊下のなかで、ジーンとサリの視線が絡み合う。やがて、先に瞳を瞬かせたのはサリであった。
車椅子の上でサリは、ほぅ、と軽く息をつく。そして再びゆっくりとジーンの顔を見上げ、はっきりとした口調でこう彼に告げた。
「よかろう、カナハラ少尉。その心意気を買おう。私は君に、この命を託す。君の覚悟が変わらないうちに、やりたまえ」
研究所の窓の向こうが、うっすらと、白みつつある。