年は明け、二六五八年一月六日。
水曜日のその日、アイリーンは村の中心部から出るバスに乗って、ウラジオストク中心部に向かった。カナデには、年末伝えたように、就職の当てを探しに行くといって家を出たが、アイリーンの目的は他にもあった。彼女はバスに揺られながら、白いダウンコートのポケットに仕舞い込んでいた一通の手紙を取り出し、慎重に開く。
ただ簡潔に「アイリーン・カナハラへ」と印字された変哲も無い白い封筒を開くと、これまた無機質な活字で綴られた文章が並ぶ。だが文の内容からは、差出人の人柄のあたたかさを感じ取れるもので、アイリーンは、手袋をしたままの手で、そっ、とその文字列をなぞった。
「親愛なるアイリーン。
十八歳の誕生日、おめでとう。君にとってのこの一年は、どんな年だった? 高等学校も卒業し、さぞかし生活に変化もあったことだろう。
だが、身辺には気を配るようにね。君の住むウラジオストク郊外は、いまや我が国の最南端にあたる。それだけに外部勢力との戦線にもほど近い。私としてはそれが心配だ。君のことはカナデおばさんに託してあるが、どうかふたりとも、日々を無事で暮らせるよう、私はいつもそれを祈っている。
それはそうと、十八歳といえば、もう成人にあたる歳だ。早いものだね。
それにあたり、私は一度君と顔を合わせたく思っている。君も私のことが気になっている時分だろうし。
どうだろう、来年一月のゆううつな水曜日の正午、ウラジオストクのニコライ二世凱旋門で君と待ち合わせるというのは。もしよかったら、考えておいてくれ。
ああ、ちなみにこれは、君と僕だけの秘密にしてくれると助かる。
それではアイリーン、良い一年を。
レオパルド」
アイリーンは悪路を走るバスのなかで、一気に手紙を最後まで読み終えた。先月の誕生日に手にして以来、何度となく目で追った文面を。
いったい、いつの頃の誕生日からだろう。物心が付いた頃には、必ず自分の誕生日に合せるようにして、ポストにさりげなく届けられる、一通の封筒。その内容には、毎年必ずアイリーンの成長を喜び、その身を案じる、簡潔ながらもあたたかな文が綴られている。そして、最後には必ず「レオパルド」との文字が印字されている。
それゆえ、アイリーンはこの手紙の差出人を、いつの頃からか「レオパルドおじさん」と呼ぶようになったわけだが、彼はその文中で、自分のことを語ることは決して、ない。
アイリーンは幾度となく、カナデに「レオパルドおじさん」の素性を尋ねたが、彼女は「死んだお父さんの知人で、あなたを育てるお金を毎月送ってくれる人」としか説明しない。アイリーンが感ずるに、おそらく、カナデはそれ以上のことを知っているのだろう、と想像するが、カナデは絶対にそれ以上のことは口にしてはくれない。
それゆえ、アイリーンはそれ以上の追求を諦め、ただただ毎年誕生日に手紙を受け取っては、彼がいったいどのような人間であるかを夢想するしかなかったのだが、それだけに、先月の十八歳の誕生日に届いたそれに「カナデには秘密で自分に会いたい」と告げてきたことに驚きを禁じ得なかった。
しかし、その誘いに乗ることを、アイリーンは躊躇わなかった。
困惑もあるにはあったが、それ以上に若い好奇心が彼女のなかで恐れに勝ったのだ。それに、ずっと確かめたかったのである。通信手段など山のようにあるこの時代に、手紙などと言う古風な方法で連絡を寄こし、しかも己の正体は明かさないその人の素性を。さらには、父の知人に過ぎない、赤の他人の自分に、なぜ毎月、多額の送金をしてくるかも質したかった。
今日のこの日は、それらのことをカナデが教えてくれない以上、アイリーンにとっては長年の疑問を自力で解決するまたとない機会でしかなかったのだ。
とはいえ、緊張はする。
アイリーンの手紙を握りしめた手は、いつのまにか、汗ばんでいた。
彼女はややもすると高まっていくばかりの心臓の鼓動を鎮めようと、バスの椅子に深くもたれかかり、大きく深呼吸した。そして、緊張をほぐすために読書でもしようと、彼女は鞄に入っていたタブレットに手を伸ばす。
しかし、彼女のその努力は結果的として無駄に終わる。そのとき、市中に入ったばかりのバスが大きく、がくん、と揺れて急停車したのだ。
アイリーンの心臓は飛び上がらんばかりに打ち震えた。
「何だ?」
「検問だろう。今日はこの先の中央広場で、午後、公開処刑があると通達があったからね」
乗客たちが小声でさざめく。そうこうするうちに、ユーラシア革命軍の軍服を着た数人の兵士がバスのなかに入ってきて、乗客ひとりひとりの身分証明書を確かめ始めた。やがて、アイリーンの元にも銃を片手に持った兵士が近づいてくる。アイリーンが無言で差し出した証明書のコードを、兵士もまた無言で機器を使い読み込む。それに何も問題はなかったらしく、兵士はすぐに隣の乗客のチェックに移り、ほどなくして、兵士たちは車から降りていく。
十数分後には、バスは何事もなかったように、ウラジオストクの街を滑るように走り出していた。乗客たちの間に安堵の空気が漂う。アイリーンも暫しの緊張から解き放れて、再びの深呼吸をする。そうしながらも、彼女は内心で呟いた。
――よりによって、今日、公開処刑があるなんてなぁ。ついてないなぁ。
公開処刑は、ここ数年恐怖政治化しつつある、ユーラシア革命軍政府のタハ政権下では珍しいことではなかった。なので、アイリーンもそのこと自体にはさほど動じない。それでも、彼女の胸が暗澹とするのは、そのことが、銃殺されたという父ジーンのことを思い出させるからである。
――父さんも、公開処刑されたようなものよね。だって、あんな恥ずかしい過去を晒されて、死んでいったんだもの。だからこそ私は、こんなにも周りから疎んじられているのよ。
怒りとも諦めとも付かない暗い感情がアイリーンの心に渦巻く。だが、次の瞬間、彼女は弾かれたようにバスの席を立った。バスは、今まさに、約束の場所にほど近いカラベーリナヤ海岸通りの停留所に到着していた。
ニコライ二世凱旋門は、カラベーリナヤ海岸通りに沿ったちいさな公園内にある。
1891年に建てられて以来、何度も時の政権によって破壊と再建築を繰り返されてきた歴史的建造物であるが、市民から結婚記念写真を撮る有数のスポットとして長く愛されていたこともあり、アイリーンの生きる時代になっても、規模とその壮麗な装飾はかなり控えめになったものの、変わらずそこにそびえ立っている。
バスを降り立ったアイリーンは門の前に立った。
約束の時間まではまだ五分ほど間があった。しかし、休日でもない冬の日である今日は、公園を訪れる人間もそう多くはない。
だから、門の傍にひとり佇んでいた男に、こう声をかけられた時、アイリーンにはすぐそれが約束の相手だと分かった。
「流石だな。アイリーン。私のメッセージに、きちんと応じてくれるとは」
「……レオパルドおじさん、ですか?」
アイリーンは目の前に立つ、白髪頭に眼鏡、それに白い顎髭を蓄えた黒いコートの男に、息を吐きながら、問いかける。
その声は、彼女の意志に反し、僅かに震えていた。