カナデがジーンの墓参から帰ってきたのは、昼も過ぎた時刻であった。カナデが喪服から、ブルーのカーディガンとスカートに着替え、なにか口にしようとキッチンに入ると、アイリーンがひとり料理をしていた。
「アイリーン、昼食は食べたの?」
「今作っているところ。おばさんが帰ってきてから、一緒に食べようと思っていたから」
その声につられ、アイリーンの前でぐつぐつと音を立てている鍋を見ると、刻んだハムを入れた豆のスープが煮立っていた。カナデは思わず表情をほころばす。
「アイリーン、ありがとう」
「礼を言われることほどのじゃないわ。本ばかり読んで、一日家でごろごろしているわけには、いかないもの」
そう言いながら、アイリーンは出来上がったスープを手早く皿に注ぐ。カナデはそれに合わせるように戸棚から黒パンを取り出す。だが、その棚にあるパンの残量が思った以上に少ないことに気付いて、ふと、顔を顰めた。
「あら、パン、もうこれだけになっちゃったのね。次の配給まで持つかしら。もう一月末まで、配給、来なさそうだというのに」
「私、年明けの水曜日でよければ、街の中心部に行くから、そのとき手に入るようだったら買ってくる」
カナデとアイリーンは、キッチンに置かれたダイニングテーブルの前に向かい合って腰掛けた。ふたりの前には湯気が立ち上るスープ皿が並んでいる。ふたりは、手を組んで軽く食前の祈りを済ませると、冷めないうちにと簡素な食事を口に運び始めた。ふうふう、とカナデはスプーンですくったスープに息を吹きかけながら、アイリーンに話しかける。
「新年早々、ウラジオストクに行くの? あまり出かけない方がいいと思うわよ。紛争の戦線が先月より北上しているって聞いたわ」
「そうは言っても、街に行かないことには、就職の当ても探しようがないんだもん」
「アイリーン、高等学校を卒業したからって、そんなに焦って職を探す必要はないのよ。幸い、ふたりで食べていけるだけの備えはあるし」
「嫌よ。だって、私、早く独立したい。そんな、どこから来ているか分からないお金で養われてるのは、もう、嫌」
カナデがスープを啜る手を止めて、アイリーンの顔を見る。アイリーンは変わらずスープを口に運び続けていたが、その菫色の瞳は昏く翳っていた。
「……アイリーン、いつも言って聞かせているように、あなたを育てているお金は、汚いものでも何でも無いのよ。あなたの亡くなったお父さんの親切な知り合いが、あなたを案じて毎月送ってくれているだけのことで……」
「レオパルドおじさん、でしょ? それはいつも聞いてるわ。毎年、誕生日には手紙も受け取っているし」
「そうよ、それを読めば分かるでしょう。悪い人なんかじゃないって」
「どうなのかしらね。父さんの知り合いだというなら、本当のところは分かりゃしないわ」
「……」
カナデはアイリーンの言葉を聞いて、スープ皿に目を落した。アイリーンの作ってくれた豆のスープは美味で、墓参で冷えた身体にあたたかく染みこむものだったが、それだけに、彼女の皮肉めいた声は胸に刺さる。
しかしながら、カナデにもアイリーンの、父ジーンを悪く言う気持ちが分からないわけでは、なかった。カナデの胸中はまたも十三年前に引き戻される。
ジーンが殺されたあの日、犯人が村人に明かして見せた彼の素性は、またたく間にこの地域中に伝わった。むろん、タハがカナデに約束したように、彼が派遣した警察や軍によって、その噂はそれ以上飛び火しないように押さえ込まれはした。だが、そうとしても、一旦狭いコミュニティに広まってしまった情報は消し去りようがないのが現実だった。
もとより、唐突に、軍を除隊した元軍医としてこの村に現われ、得体の知れない
ジーンの熱意ある、献身的な診察は、村の人々の心をぐっ、と掴んだ。それまで村人は、病院となるとウラジオストクまで足を運ばねばならなかったから、地域にささやかな規模ながら医療施設が出来たのは喜ばしい出来事でしかなかったし、何より、ジーンのあたたかな人柄は、僅かな時間で患者の信頼を得るのに十二分だった。この地に来て一年で、ジーンは着実に、この地域で居なくてはならぬ存在としての地位を固めつつあったのだ。
しかし、その矢先、ジーンは殺された。
それも、月の裏側の難民収容所で、人体実験に従事していた研究員、という恥ずべき過去を晒された上で。
これに村人は大きな衝撃を受けた。むろん、人々には彼が行っていた実験の中身などは分かりようがない。それでも、心優しく熱心な医者だったジーンが、他人に恨まれて追われ、そのうえで私刑されるような「うさんくさい過去」を持った人間だったという事実は、否応なく人々の心に深く残らざるを得なかった。
そして、当然のことながら、遺された女たちに向けられる視線は、あっという間に侮蔑に満ちたものとなっていったのだ。
カナデとアイリーンは、その視線に真っ向から晒されることとなった。ジーンの死後ほどなくして、レベッカはタハのもとに引き取られていき、カナデはアイリーンに自分は遠い親戚であると身分を偽って教え、彼女を生涯守って暮らそうと力を尽くした。
しかし、カナデのその決意も、周囲の悪意ある視線からアイリーンを守ることは出来なかった。
学齢に達したアイリーンは、学校で自分が疎外される理由が分からず、戸惑い、学校から泣きながら帰ってくる日もしばしばだった。やがて、幾年を経て、その原因が死んだ父にあると、アイリーンは次第に理解していく。
そしてその過程で、彼女がもはや朧気な記憶の彼方にしかない父へ憎しみを抱くようになったのは、自然なことであったといえよう。
それは、カナデにはなんとも耐えがたい現実であった。カナデはアイリーンが父の悪口を零すたびに、ジーンがどれだけ彼女を愛していたか、我ながら口うるさいと思うほど、諭し、伝えようとした。
だが、同時にその残酷さも分かってはいた。
なぜなら、アイリーンは父を憎むことでしか、自分を守る術を知らないのだから。知りようがないのだから。
それでも、カナデはアイリーンに、父ジーンの実像を教えようとすることを、今もって諦められずにいる。
己の脳裏に残る、ジーンがアイリーンに向ける慈愛に満ちた眼差しを、決して忘れることが出来ないかの如く。
そんなカナデの心の逡巡を知ってか知らずか、アイリーンはさっさと昼食を食べ終わると、席を立って皿を洗い出していた。カナデは溜息を堪えながら、再びスープを口に運ぶ。
それはとうに冷めていて、先ほど口にしたときのあたたかさは、もう、ない。
まるで、移り気な人間の心を、年老いたカナデに知らしめるように。