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第47話「彼」の正体

「カナデおばさん!?」


 アイリーンは絨毯の上に崩れ落ちたカナデの身体を揺すった。触ってみれば、その細い身体にはいまだぬくもりが満ちており、彼女の息が絶えていないことにアイリーンはまず安堵した。ぐるりとカナデの周りを見渡せば、そこに血の痕跡はなく、どうやらカナデには外傷はないようだ。


 しかし、その顔色は青白く、微かに呼吸音を漏らしている唇も、紫色がかっていて表情も苦しげだ。淡い琥珀色の瞳は固く閉じられていて、眉間に皺が寄っているのも見受けられる。


 ――とにかく、医者を。でも、この時間に診てくれる医療施設は村にはないわ。だったら、ウラジオストクまで車を誰か、出してくれる人を……!


 アイリーンはそう思い、半身を抱き起こしていたカナデの身体をいったん床にそっ、と伏せさせると、意を決して外に飛び出た。一月の冷たい夜の空気が彼女の身体を貫く。だがそれに構っている暇はない。アイリーンは隣家の敷地に飛び込み、呼び鈴を鳴らして叫んだ。


「遅くにすみません! 隣のカナハラです! 緊急事態なんです!」


 すると扉が僅かに開き、隣家の夫人がその隙間から顔を覗かした。稀にしか接することのない隣人の突然の来訪に、その顔は既に迷惑そうに歪んでいる。


「何事なの」

「カナデおばさんが倒れたんです、お願いです、車をウラジオストクの病院まで出してはくれませんか!? お願いします!」


 アイリーンの必死の訴えに、夫人の顔がふと緩む。たが、彼女がアイリーンに何か話しかけようとした時、家のなかから、野太いその家の主人らしき声が響いてきた。


「放っておけ! 隣の家のことに関わるんじゃない!」

「でも、あんた……」

「おい、忘れたのか? その子の父親がなんで殺されたのかを? 下手に関わって俺たちまで何かあっちゃかなわねえよ。駐在にでも言えばなんとかしてくれるだろう、そう言っとけ!」


 数瞬後、夫人の顔がさっ、と険しくなるのを、アイリーンはどん底に突き落とされる心持ちで見つめた。


「お願いです、どうか……!」

「……そういうことだから、悪いわね、アイリーン」


 暗がりのなか、必死の形相で叫ぶアイリーンの前で、夫人はそう呟くと扉を勢いよく閉めた。閉ざされたドアの前でアイリーンは呆然と立ち尽くす。

 心をひたひたと絶望が浸していく。心が荒れ狂う。


 ――まただ、また、父さんのせいで……!


 できることなら、冷たい地べたに崩れ落ちてアイリーンはそう絶叫したかった。しかし、彼女はなんとかその衝動を堪えて、すぐさま家に駆け戻る。事態はおそらく一刻を争う。そう思ってのことだ。

 アイリーンはカナデが横たわったままのリビングに再び飛び込むと、モニターを操作して警察の番号を打ち込む。隣人よりかは助けになるはずだ、そう、儚い望みを掛けて。程なく地元の警察に通話は繋がり、アイリーンは若い巡査にことの次第を告げる。

 しかし、その反応は芳しいものではなかった。


「そうは言っても、一民間人の搬送に動ける状態じゃないんだ。戦線が北上しているのは、お嬢さん、あなたも知っているだろう? いまは厳戒態勢で人も出払っているよ」


 困惑した顔の若い警官がモニターの向こうでそう顔を顰める。

 そのときのことだ。アイリーンの脳裏にその日の昼の出来事が唐突に蘇った。次の瞬間、彼女は、最後の望みをかけて、こう大声を出していた。


「カターエフ署長を出してください!」

「……え?」


 その名を聞いた途端、モニターの向こうの警官の顔色が変わった。アイリーンはなおも畳み掛けるように語を継いだ。


「ええ、「レオパルドおじさん」が、そう言っていたと、私の名とともに伝えてください」


 すると、モニターの画面から警官の姿が消え失せた。アイリーンは、通話を切られたかと思い、モニターを凝視する。しかし、違った。煌々と画面は白く発光しており、通話はなおも繋がっている。


 ――署長を、呼びに行ってくれたのかしら? だとしたら、なんとかなるかも……?


 アイリーンは祈る気持ちで通話の再開を待つ。だが、画面は無人のままだ。そして、傍らに倒れたカナデへとちらちらと視線を投げながら、居ても立っても居られない思いで、たっぷり十分ほど待たされたところで、アイリーンは激しい物音で我に返った。


 その物音は、モニターのなかから生じていたのではなかった。

 家の扉が激しく叩かれている。そして外からは、複数の人と車の気配が伝わってくる。アイリーンはドアを慌てて開けた。

 すると、軍服を着た数人の男が家のなかになだれ込んでくる。彼らは呆気にとられるアイリーンに構うことなく、今もなお床に倒れているカナデのもとに駆け寄ると、素早くその容態を確認し、ついで携えていた担架にその身を乗せる。カナデの白く長い髪が、ふわり、と宙に浮く。

 そして軍人たちは、カナデを乗せた担架を担ぐと、アイリーンに何も言わぬまま、外に停めていた医療用車両らしき車のなかに乗り込んでしまった。



「心配は要らないよ、アイリーン」


 菫色の瞳を瞬かせ、ただすべてを立ち尽くし、見守るしかなかったアイリーンの背後で、聞き覚えのある声が唐突に聞こえた。聞き覚えがあると言っても、どこかで馴染みがあるようで、ないような。

 でも、今日、知ったばかりのような、そうでないような。

 彼女は、まさか、と思いながら、その声のほうへと振り返る。そして、息をのんだ。


「……ええっ?」


 そこに立っていたのは、軍服姿の白髪の男だった。だが、先ほどの軍人たちとはなにか様相が違う。アイリーンは目を凝らし、そして絶句した。その如何にも位の高そうな軍服の胸元には、建国の祖、レ・サリの肖像をかたどったユーラシア革命軍政府の大きな国章が揺れている。アイリーンは、学校で習った知識を胸中で反芻する。

 それを身に着けるのを許されているのは、この国でただひとりしか存在しない。

 そして、その風貌も日々のニュースや街角に貼られたポスターで、飽きるほど目にしてきたものだ。


「セルジオ・タハ将軍……閣下?」


 開け放たれたままの扉から、冷たい夜風が、びゅう、と吹きこみ、あまりの驚きにそう呟くことしかできないアイリーンのくせ毛を揺らす。すると、目前に立つユーラシア革命軍政府最高指導者は悠然と笑った。


「そうだ、アイリーン。しかし、君は、もっと別の私の名前を知っているのではないか? その名で呼んでくれても一向に構わないのだよ。先ほど会ったときは、少し変装をさせてもらっていたがね」


 タハの目がぎらりと光る。その眼光の鋭さは、アイリーンとその日の昼間会ったばかりの、の眼鏡の奥のひかりそのものだ。

 アイリーンは知らず知らずの間に震えだした手を握りしめて、その名を囁いた。


黒豹レオパルドおじさん……」


 そのとおり、とばかりにタハがゆっくり頷く。

 アイリーンの背中を、つぅっと汗が流れる。


 こんなに寒い夜だというのに、人間の身体とは不思議なものなんだな、と彼女はどこか意識の向こう側で考えながら、素性を露わにした男の前でただ棒立ちになっていた。

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