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第48話 海辺の別荘

 微かに潮の香りが鼻腔をくすぐる。

 カナデは重たい瞼をゆっくりと持ち上げた。ぼんやりとしていた視界に、やがて見知らぬ天井が輪郭を持って浮かび上がってくる。


 ――ああ、これはまるで、あのときのようだ。サハリンの研究所でクオに囚われて、レベッカに痛めつけられ、監禁されたあのときの。


 カナデはもはや十五年近く昔となったその日のことを連想する。しかし、ほどなく、そのときとは全く状況は異なることを彼女は知る。目覚めたカナデに気付いて掛けられた声は、もうあの日の幼い声音ではなかった。


「……カナデおばさん」


 天蓋付のベッドに横たわるカナデを見つめて声を震わせたのは、菫色の瞳と茶色い肩までのくせ毛の少女だ。あの頃の面影はあるものの、その風貌はもうすっかり十八歳のそれで、カナデはいまだ朦朧とした意識のなか、改めて時の流れの速さに思いを馳せる。


「気が付いたか、カナデ」


 唐突に年老いた男の声がして、カナデは顔を動かした。見れば、アイリーンの隣には、久しぶりに見る戦友の顔があった。久しぶり、といっても、日々のニュースでその姿は嫌と言うほど見慣れてはいるのだけれど。


「セルジオ。どうしてここに?」

「ここはウラジオストク沖のルースキー島にある俺の別荘だ。カターエフからお前が倒れたと聞いて飛んできたんだ。たまたま南部戦線の視察が入ってこの地方に来ていて良かったよ」

「……国の最高指導者が、わざわざ私如きのもとに駆けつけてくるなんてね。多忙のところ、恐れ入るわ」

「皮肉を言うなよ、カナデ。医者の見立てでは過労だそうだ。お前ももう若くないんだから、無理をするな」

「……あ、あのっ!」


 カナデとセルジオの会話を割って、アイリーンが声を上げた。見れば、その顔は動揺に満ちている。それもそのはずであった。ユーラシア革命軍政府最高指導者と自分の保護者が、敬語も用いずに会話しているのだから。アイリーンの心臓は動悸でいまにも跳び上がらんばかりである。しかし、タハは彼女の心中を十分承知しつつも、極めて気さくに彼女に笑いかけた。


「どうしたのかな? アイリーン」

「は、はいっ、閣下! 私、別室に控えているお医者様にカナデおばさんが意識を取り戻したことを、知らせに行ってこようかと!」

「おお、アイリーン、気が利くな。それでは頼むよ。慌てず、ゆっくり行ってくると良い。私はカナデと話したいこともあるから」

「了解です、お、お邪魔はしません! では、お言葉に甘えてゆっくり行って参ります!」


 そう叫ぶとアイリーンはくせ毛を乱してタハに一礼し、あたふたと部屋を出て行った。タハは苦笑交じりにその後ろ姿を見送る。そのやりとりを見て、カナデはベッドに横たわったまま、呆れたようにタハを淡い琥珀色の瞳で見上げた。


「人が悪いわね、セルジオ。あの子をあんなに怯えさせて。アイリーンには自分がレオパルドであると、もう名乗ったの?」

「ああ」

「そりゃあ、びっくりしているでしょうね。まさか自分に仕送りしていたのが自国の最高指導者で、それも、私が倒れたからって、目の前に姿を現すなんて」

「まあ、そうだろうけどな。だけど、だからってあんなにビクビクしなくてもよさそうなものだが」

「セルジオ。あなたはもうちょっと、この国の民衆から恐れられていることを、自覚する必要があるわよ」


 そのカナデの言葉に、タハは軽く白い眉を顰めた。その言のなかに、彼女がタハによる国の統治を暗に批判しているニュアンスを感じ取ったからだ。だが、彼はそれに触れることはせず、軽くひとつ咳をすると、改めてカナデを見据えた。


「……さて、先ほどはアイリーンの手前、ああはいったが……カナデ、お前、もう大分前から具合が悪かったのではないか? 医者はお前が倒れた原因は、過労などではないと言っているぞ」


 すると、カナデはタハの鋭い眼光から、ふっと目を背け、逃げるように別荘の窓に視線を投げた。窓からは東ボスポラス海峡の青い海原が見渡せる。


「お前の体調不良の原因は、おそらく過去に打たれたターンの薬の後遺症だ。それも、放っておくと死に至る厄介な奴だ」

「……やっぱり、そうなのね」


 間髪入れず、カナデが呟いた。その視線は変わらず窓越しの海に投げられたままで、そしてそこからは何の動揺も見いだせない。そんなカナデを見て、タハは苦々しげに語を放つ。薄いピンク色のカーテンが空調の風に、ゆらゆら、と僅かに揺れる。


「分かっていたのか。ならなぜ、俺に相談しなかった? 何のために、お前の傍にカターエフを置いていたと思っている? 奴はいつでも俺に連絡が付くように、お前の住む村に赴任させておいたのだぞ」

「分かってるわよ。でも、あなたに言っても仕方がないことだと、そう思ったから。それだけよ」

「カナデ、俺はそんなに頼りにならないか? 俺は、もう昔の俺ではないぞ。この国を統べる人間だ。だったらいくらでも出来ることはある」


 そのタハの声に、カナデは窓に投げていた視線を彼の顔に戻した。タハの声音に、抑えがたい怒りの色を感じたからだ。見れば、たしかに、タハの顔は紅潮している。その場に立っていたのは、最高司令官としての厳めしい軍服を纏いながらも、プライドを傷付けられて頬を染める、ひとりの年老いた男でしかないセルジオ・タハだった。その姿にカナデは、あの遠い日々、ともに戦地を駆け抜けた黒髪の青年を思い起こす。

 思わず彼女は微笑を漏らした。


「何が可笑しい」

「セルジオ、あなたはほんとうに変わらないわね。いつも怒りっぽくって。サリとは正反対で」

「……お前はまた、俺とサリを比べるのか!」

「そういうわけじゃないわ。セルジオ、落ち着いて」

「これが落ち着いていられるか! お前はそんなに死にたいのか! そんなにサリの元に行きたいのか!?」


 いまやタハは白い髪を振り乱し、その地位も、矜持をも忘れて、カナデに迸る怒りをぶつけていた。

 対して、ベッドに横たわるカナデは冷静そのものだ。そして、平静そのもの口調で、さらり、とこう答えた。


「そうよ」

「……!」


 カナデの即答に絶句したタハの顔が、強張る。そして視線を豪奢な絨毯が広がる床に落し、肩で大きく息を吐きながら、こうちいさく呟いた。


「俺は、結局サリには一生、敵わないのか。統治者としても、同じ女を愛した男としても……」


 肩を落し震えるタハの胸で、サリの肖像を模した煌びやかな勲章がきらきらと揺れる。発した声はどこまでも弱々しく、普段の彼を知る者なら驚きを隠せなかったであろう。

 しかし、それもほんの十数秒のことであった。タハは、統治者の仮面を素早く被り直すと、勢いよく姿勢を正す。そして改めてカナデに向き直ると、やや早口で、こう言い放った。


「そうはさせん。俺はお前を死なせないぞ。ターンの後遺症の治療薬なら、極秘裏にだが、ほぼ治験は終わっている。その薬をすぐに取り寄せさせる」


 カナデの淡い琥珀色の瞳が、ふっ、と翳る。今度は彼女が顔を顰める番だった。


「ターンの後遺症の治療薬? セルジオ、あなた、極秘にそんな研究を進めさせていたの?」

「そうだ」

「まさか、その治験とやらに、ターンやリ・ターンの被験体を使ってはいないでしょうね?」


 カナデが眼光を鋭くタハを質す。その苛烈なひかりにタハは、一瞬語を濁したが、すぐにこう吐き捨てた。


「使わずに薬の開発が出来ると思うか?」

「……セルジオ! 被験体の保護は、ジーンがあれほどあなたに頼み込んだというのに!?」


 カナデの怒号が白と金の装飾に満ちた部屋に響きわたる。だが、タハはそれに何も答えることはなく、身を翻すと、軍靴の靴音も高く木の扉を開けて出て行ってしまった。あまりのことに呆然としたままのカナデの意識のなか、かつん、かつん、と荒々しい足音が遠ざかっていく。


 ほどなくして、入れ違いにアイリーンが医師と看護士を伴い部屋に帰ってきた。

 アイリーンは部屋に入るや、そこにいるはずの最高指導者の姿が見えないのに気付いて、疑問の声を上げた。


「おばさん、あれ? 閣下はどちらに?」

「アイリーン……」

「……え、カナデおばさん、また調子悪いの? 顔色、真っ青だよ」


 アイリーンはカナデの顔がその色だけでなく、硬く強張り、微かに震えていることに驚き、慌てて駆け寄る。そして、カナデの淡い琥珀色の瞳が濡れていることを認め、はっ、と息をのんだ。


 カナデの皺だらけの頬を、つぅっ、と透明な涙が一筋伝い落ち、白く清潔なシーツにちいさな染みを作った。

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