カナデの寝室を、栗色の短髪に長身の青年将校が訪れて、こう口上を述べたのは、彼女がルースキー島のタハの別荘に搬送されてから、二日目の昼どきだった。
「カナデ・ハーン。それから、アイリーン・カナハラ。私はセルジオ・タハ将軍の親衛部隊の一員であるヴィクトル・ボイツェフ少尉であります。閣下からこの別荘の警備を仰せつかりました故、ご挨拶をしに伺いました」
「……それは、ご苦労様」
カナデは、ベッドに半身を起こしながら、ヴィクトルと名乗った青年をまじまじと見た。さっぱりと整えられた髪の下に光る目は透き通るように青く、眼光は鋭い。だが、面影はまだ二十歳そこそこか、というあどけなさで、そのアンバランスさがなんとはなしに気にかかる風貌である。
カナデのベッド脇に置かれた椅子に腰掛けていたアイリーンは、自分とそう歳の変わらぬ将校の訪問に慌てて立ち上がり、ぺこり、と礼をした。しかし、ヴィクトルは緊張した面持ちのアイリーンには殆ど目をやることはなく、ずかずかとカナデの寝台まで歩を進めると、いきなり語を放った。その青い瞳はどこか苛々とした色に揺れている。
「カナデ・ハーン。あなたはもっと、閣下に感謝すべきです」
「ヴィクトルですっけ? セルジオの親衛部隊の一員に過ぎないあなたに、何が分かるの」
カナデは訪問早々、喧嘩腰とも取れる口調で自分ににじり寄ってきたヴィクトルに白い眉を顰めた。おそらくこの若者は、自分がユーラシア革命軍政府の創国メンバーである「
それは若き日の血気盛んな「黒豹のセルジオ」と呼ばれた頃のタハとどこか似ている。だから、彼はこの若者を側に置いているのだろうか、と、カナデはふと、考えた。
そんなカナデに構わず、ヴィクトルはいきなり話の本題に切り込んだ。ここに来てからカナデを懊悩させている話題に。
「閣下はたしかに、ターンとリ・ターンの被験体を後遺症治療薬の治験に使った。でも命までは取っていません。いまも彼ら彼女らを手厚く保護して、安全な場所に置いている」
若者のその言に、カナデはアイリーンのいる場で話す話題ではない、と思いつつも、淡い琥珀色の瞳を険しく細めて抗弁することをやめられなかった。
「当たり前よ。それがジーンとの約束だったのだから」
「そうです。ですが、閣下は、故サリ首席の死後、当初はターン及びリ・ターンの被験体、そしてそれに関わった研究者を全て抹殺しようと考えておられたのです。それが関係者の粛清だけで終わったのは、ジーン・カナハラの進言あってこそです。閣下が、ジーン・カナハラとの約束を反故にはしなかった、とは、そういうことなのです」
「関係者の粛清……自分から始めた実験の後始末を、セルジオは一番むごい形で片を付けたのね……自分勝手極まるわ」
カナデは、さらり、と明かされた多くの人間の死に、気持ちを暗澹とさせながら吐き捨てる。だがヴィクトルは、なおも語気を強めてこうカナデに言い放った。
「カナデ・ハーン。閣下がそれに心痛を感じられなかったとでもお考えですか? ですが、それでも閣下はそうすることで一連の実験に
残酷極まりない、統治者の権威を守る以外に理屈の通りようのない、薄っぺらい言葉だった。カナデは思わず皮肉に顔を歪める。
「ヴィクトル、あなた、まだ若いのに、いろいろ詳しいのね。ずいぶんとセルジオに信頼されていること」
「それはどうだか。ですが、私も、一連の実験とは多少なりとも関係のある身ですので。……とにかく、近日中にここへ薬を取り寄せる指示を閣下は既に通達しています。ですから、あなたがその恩恵を授かる日も近いでしょう。後遺症に苦しむ被験体は数多く、その薬を待ち望む間もなく死亡する者もいるというのに、あなたはほんとうに幸運です。ゆめゆめ、それをお忘れ無きよう」
そう言い残すと、ヴィクトルは警備に戻るべく、カナデに一礼すると軍靴の靴音も高く部屋を出ていった。
――そんなところも、若い日のセルジオに似ているわね。
カナデはヴィクトルが重厚な木の扉の向こうに姿を消すのを見つめながら、そう心中で独りごつ。
そんなカナデの郷愁にも似た思索を、アイリーンの震える声が打ち破った。
「カナデおばさん……私、さっぱり、話が分からないんだけど……」
「アイリーン……」
「おばさん、どういうことなの? なんで、おばさんと閣下はあんなに親しく話せる仲なの? どうして私みたいな一孤児に、ユーラシア革命軍政府最高指導者である閣下がずっと送金してくれていたの? それに、ターンとかリ・ターンとか、その後遺症とか、いったい何のことなの? しかも、父さんの名前も出てきたし! なんなの、いったいなんなの!? 私、おばさんが倒れた夜から、頭が混乱しっぱなしよ!」
アイリーンの菫色の瞳はカナデが倒れた夜からの動揺に耐えかね、いまや、激しく揺れている。それもそのはずだった。訳のわからないまま過ぎゆくこの時間のなかで、自分ひとりが何も説明されることなく、置いてきぼりにされているのだから。カナデはいまさらながら、アイリーンにすまない気持ちになって、愛しい守るべき子のくせ毛を、そっ、と撫でた。そして、覚悟を込めて彼女の瞳を見つめる。
「アイリーン、落ち着いて。ちゃんと、今から話すから」
そう語りながらもカナデの胸中は、ついにこの日が来てしまったか、という感慨と哀惜に満ち溢れている。しかし、カナデはアイリーンの顔から目を逸らすことなく、長い昔語りを話し始めた。自分の素性、ジーンとの出会い、彼との関係、そして、月の裏側での出来事からサハリンに至り、サリと決着を付けるまでの戦いの全てを。
「……そういうわけなのよ。アイリーン」
「……そんな」
「だから、あなたと私は親戚でもなんでもないの。私はあなたの父、ジーンの被験体だった、ただ、それだけの間柄。ずっと嘘を付いていてごめんなさい」
長い長い話をカナデが語り終えたとき、すでに時刻は夕暮れ近くとなり、部屋には窓の外からの冷気が満ちはじめていた。カナデは大きく吐息を吐いて、動揺を隠せないままでいるアイリーンにちいさな声で詫びた。
目前のアイリーンは、菫色の瞳を大きく見開いて声を震わすばかりである。
「ううん、それは、それはまだ、いいのだけれど、だけど……」
そして彼女はカナデから視線を逸らすと、目を豪奢な絨毯が引かれた床に落とし、拳を握りしめた。その手も、声と同じく小刻みに震えている。ついで、その青ざめた唇から、放心したような呟きが漏れる。
「やっぱり、父さんは、皆が言うとおり、そんな恥ずかしい経歴の持ち主だったんだ……月の裏側で人体実験をしていたって噂は、ほんとうだったんだ……しかも、サリ首席を手にかけた、なんて……」
「……アイリーン」
「私、幼い頃から白い目を浴びて育ちはしたけれど、どこかで、信じていたい気持ちがあったの。父さんはそんな人じゃ無かったって……でも、でも、ほんとうなんだ。そして、私の中にも、たしかに、同じ穢らわしい血が流れているんだわ……」
カナデはアイリーンの独白に目を見張った。長い語りを終えて疲労の染みる彼女の身と心を、その言葉は否応無く抉るものだった。カナデは今にも尽きてしまいそうな気力を振り絞り、なんとかアイリーンを諭そうと試みる。
「……アイリーン、あなたの父さんはたしかに罪を犯したわ。そう、私にターンの薬を打った。だけど、それを一生悔いていた。悔いていたからこそ、危険を承知で月から地球に渡って、サハリンまで乗り込んで傷を負いながらも戦った。それは、ジーンが、私、そして誰よりも愛していたあなたを、守り抜きたかったからよ。それをどうか、分かってあげて」
「でも、でも! そうなったのは、月の裏側に赴任させられたのは、そもそも、私の母さんを殺したからなんでしょ!? だったら尚更、罪が重いわ!」
「それでもジーンは、あなたの母さんを引き取って、殺されるあの日まで一生懸命看護していたのよ」
「だけれど! その母さんも結局はどうなったか分からない! だったら、同じことよ! しかも首席まで殺している!」
アイリーンの声はいつのまにか涙に枯れていた。堪えきれぬ若い激情が、海辺の別荘の一室を揺るがす。
息を切らして涙を流すアイリーンの姿に耐えがたいものを感じながらも、カナデは僅かに残った力を、彼女に掛ける言葉へと注いだ。
「アイリーン、人間は誰もが、望まぬ罪を犯す可能性のある生き物なのよ。だけどジーンは、贖罪のために精一杯生きて、死んだ。それは誇るべき生き方だったと私は思っているわ。それに、何より、あなたというかけがえのない命を守り抜いた。だから……」
「勝手だわ! 私を守り抜いたことを、なにもかもの理由にしないでよ!」
アイリーンの激白が、カナデの弱々しい言葉を遮って轟く。そして、彼女はついに座っていた椅子の上に崩れ落ち、幼子のように号泣し始めた。
肩までの茶色のくせ毛を激しく揺らし、泣き崩れるアイリーンを見ながら、カナデもまたぐったりと身体をベッドの背にもたれかからせた。
――この子にとっては、真実さえも絶望でしかない。……ジーン、私はどうすればいいの? ……どうしたら、あなたが命をかけて愛したアイリーンを救えるの?
カナデは胸の中でひとり静かに微笑むジーンに語りかけながら、その日、はじめて、ジーンのことを憎く思った。
自分に愛娘を託して、ひとり死んでいった彼のことを、はじめて、身勝手だと思った。