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第55話 昏倒

 食堂車でアイリーンが受け取った夕食は、昨今のユーラシア革命軍政府の食糧事情を感じさせる、簡素なものだった。黒パンにマッシュポテト、魚のオイル漬け、雑穀の入ったスープ。食後のデザートとして、ちいさいながらも蜂蜜ケーキメドビクが添えてあるのが、当国唯一の国際列車としての精一杯のサービスなのかもしれない。


 環ヨーロッパ=シベリア高速鉄道は、アイリーンが生きる時代より遥か昔のロシア帝政時代に建設された、シベリア鉄道を祖とする高速鉄道である。西暦2500年代の地球全面戦争で、ところどころが破壊され、長く不通の時期もあったが、現在はユーラシア革命軍政府支配地域とヨーロッパを結ぶ国際列車として機能している。


 2658年時点での始点はウラジオストク、そして終点はユーラシア革命軍政府の支配地を超えて、連合軍の支配地域である旧ポーランド領のワルシャワだ。両支配地域を往来するだけあって、その境に当たるウラル山脈付近の駅にはとみに厳しい検問が敷かれており、両勢力はそれぞれ敵の武力の流入を許さぬよう、常に目を光らせている。だが、ここ数年のユーラシア革命軍政府の影響力の衰退により、検問の兵士にさえ握らせれば、普通の市民ならばそう無理なく往来が可能となっているのも、また事実だ。


 ともあれ、アイリーンとヴィクトルが乗車を予定しているのは、ウラル山脈より手前のオムスクまでであり、そのようなことをしなくとも、通常の乗客を装っていれば、なんらトラブルには巻き込まれそうになかった。


 ――何事もなく、月に辿り着けるといいなあ。月に着いたその先で、どうふるまえばいいかは、全く見通し立たないけど。


 アイリーンはふたり分の食事を受け取ると、それを客室まで運ぶ配膳用マシンを借りるべく、食堂車をぐるりと一瞥した。ところがどうしたことか、マシンはどこにも見当たらない。どうやら食事の時間に使用客が集中したことで、全部出払ってしまっているようだ。アイリーンは予想外の出来事に、ふたつのトレイを両手に抱えたまま、しばし途方に暮れた。

 しかたなく、アイリーンはなんとか、両腕に力を込めてトレイを運ぼうと試みる。しかし、トレイ単体は結構な重量があって、バランスの取り方が難しい。しかもそのとき、列車がカーブにさしかかったらしく、車体ががたり、と大きく揺れた。次の瞬間、彼女の左手が、がくっ、と下がり、その弾みでスープ皿が中身をぶちまけながら宙に躍った。


「きゃっ、きゃああ! すみません!」


 悲鳴を上げながらアイリーンは慌てた。前に立っていた客のグレーのコートに、気が付けば、大きな染みができていた。途端に、染みの出来たグレーの大きな背がぐるりと反転し、その客がアイリーンに視線を向ける。

 ところが、アイリーンに降ってきたのは、怒声ではなかった。

 いや、寧ろ、愛想のいい、どこかニヤついたような……。


「おう、お嬢さん。奇遇だね。同じ列車だったかぁ。こりゃあ、俺、ついてるなぁ」

「……あっ!」


 アイリーンは菫色の瞳をまん丸にして再び声を上げた。見覚えのある長く赤い髪が揺れ、無精髭が楽しげに歪む。向かい合っていたのは、ウラジオストク中央駅の待合室でアイリーンに声を掛けてきた男他ならなかった。


 ――まずい。まずいわ。


 アイリーンの頭は真っ白になる。またさっきのように絡まれたら、どう対処したらいいものか、男慣れしていない彼女にはいい案が浮かばない。しかも、スープを浴びさせてしまった借しがいまはある。そして、先ほどのように助けに来てくれるヴィクトルは、ここに、いない。


 しかし、男はそんなアイリーンをにやにやと見つめると、おもむろに、背をかがめた。彼は床に転がっていたアイリーンが落したスープ皿を拾う。それから、何事も無かったように食堂車内を悠然と歩き、台に置かれたスープの大きな鍋まで近づくと、それをよそい直す。そして唖然として突っ立ったままのアイリーンのもとに戻ってくると、スープ皿を彼女の手にあるトレイに乗せた。

 男の口元にはなおも人の悪そうな微笑が浮かんでいる。


「なんだい、なんだい、あの立派な彼氏どのは、君に食事を持ってくるのを任しちまったのかい? 見かけより、甲斐性が無いねぇ」


 それから男はアイリーンの両手から、トレイをふたつ、そっ、と引き剥がすと、それを難なく両手で高々と掲げて見せた。


「運ぶよ。どうぞお嬢さん、私めを客室まで、案内して下さいませ」

「そんな、申し訳ないです。それよりコート、乾かさないと」

「おおっと。俺は困ってるレディより、自分のコートを優先するほど、野暮じゃないぜぇ。さぁさぁ、エスコートしてくださいますかね、お嬢さん」


 赤毛の男はそう面白そうに緑色の瞳を細めると、アイリーンに向けてウインクしてみせる。

 しかたなく、アイリーンは男の先を、客室に向かって歩き出した。



 アイリーンが客室を出て行くのを見届けると、ヴィクトルは椅子からゆっくり立ち上がり、傍の簡易寝台のひとつを組み立てると、そこにごろり、と身を横たえた。それから彼は、微かな声で独り言つ。


「俺としたことが、話しすぎたかな」


 ヴィクトルは、深い疲労を感じ、そっ、と青い瞳を閉じた。身体の奥がじりじり、疼く感覚がする。身体だけでなく、心の奥も。その両方が、ヴィクトルの感情をもかき乱す。頭全体が熱っぽく、意識がぼうっとするのは、気のせいだろうか。数日前、タハから嬲られたばかりの傷がまだ痛むのだろうか。アイリーンの求めに応じ、一気に己の過去を濁流の如く吐き出したことからの疲れからだろうか。


 ――それとも……。


 ヴィクトルの意識は仄暗い感情に沈む。ついで、可能性に思い至り、身体中を悪寒が覆った。これまでは、タハの配慮の元、定期的な治療と服薬を続けていたからこそ、身体が保ったのだ。この旅に出立するにあたり用意された荷物のなかに、薬は一錠として含まれてなかった。それを見たとき感じた諦観と絶望は、数日前のことであっても、未だ鮮やかだ。

 そのとき、彼は知ったのだ。の父親にも、自分は見捨てられたのだ、と。

 ヴィクトルは目を瞑ったまま、己を嘲笑うような笑みに顔を歪めた。


 ――結局、俺も父と同じだったか。同じ運命を辿るのか。閣下から直に手を下されるか、自ら手を下すか。その程度の違いしか、俺と父には、ない。あんなに憎んでいた父だったのに。俺はああはなるまい、そう心に誓って生きてきたのに。


 それから、彼自身も思わぬ言葉が、ぽろり、と唇から漏れた。


「アイリーン。やっぱり、俺は、君が羨ましい」


 急激に体内が火照る感覚がする。同時に、またも身体中を悪寒が駆け巡る。

 どうやら気のせいではなかったな、と彼は急速に暗がりに落ちていく意識の向こう側で、ひとり、呟いた。



「……ヴィクトル、ヴィクトル!」


 次にヴィクトルが意識の扉をこじ開けたのは、アイリーンの驚いたような叫び声によってだ。目をゆっくりと開いてみれば、間近にアイリーンの菫色の瞳があった。鼻腔を香ばしい匂いがくすぐる。そこで彼は、アイリーンが夕食を持って客室に帰ってきたこと、そして、自分がその間に寝台で気を失っていたことに気付き、慌てて身体を起こそうとした。

 しかし、起き上がれない。なぜだか、身体に力が入らない。それに驚く己の額に、おずおずと、アイリーンが掌を添える。


「やっぱり! ヴィクトル、すごい熱よ!」

「……アイリーン」

「帰ってきたら、あなた酷くうなされていたから、まさかと思ったんだけど! もしかして、ずっと具合悪かったの?」


 アイリーンの瞳に、心配の色が滲んでいることに、ヴィクトルは身体のだるさも忘れ、思わず苦笑した後、ちいさく声を漏らした。


「そんなに俺を心配してくれるとは、可笑しいな」

「え?」

「どれどれ。ちょっくら、診察が必要なようだな。なぁ、彼氏どの」


 唐突に頭上からアイリーンのではない、低い男の声が降ってきて、ヴィクトルは思うように動かない身体をその方向に無理矢理向けた。見れば、驚いたことにウラジオストク中央駅の待合室でアイリーンにちょっかいを出していた赤い髪の男が立っているではないか。ヴィクトルは青く透き通った目を見開いた。


「……なっ、お前!?」

「そんなに驚くこたねぇだろ? 俺は食堂車で困っていたレディをちょっくら助けてここに来ただけだぜ? そしたら、お前さんがベッドでひっくり返っていたんだけどさ」


 そういいながら男はひとつにまとめた赤い髪を揺らしながら、ずかずかとアイリーンを押しやり、寝台に横たわっているヴィクトルに近づくと、その腕を手に取る。


「ふむ、思った通り、だいぶ脈拍が早いな」

「……何、しやがる……!」

「安心しろ。俺は医者だ」

「えっ? そうなんですか?」


 突如明かされた男の素性に、アイリーンは目をぱちくりとさせた。そして、ほどなく、その頬は赤く染まった。というのも、男が動けぬヴィクトルのセーターの裾をいきなり捲り、下のシャツごと着衣を脱がし始めたからだ。アイリーンの目は突如露わになったヴィクトルの白い肌に吸い込まれ、そして慌てて目を背ける。すると男が彼女に笑いながら話しかけた。


「おっ? お嬢さん、彼氏どのの裸を見るのはそんなに恥ずかしいものなのかな? 旅行をするような間柄だってのに?」

「あっ、いやっ、なんというか……!」

「気になるならお嬢さん、部屋の外に出ていな。大丈夫、彼氏どのに悪いようにはしねぇよ。それは約束するぜぇ」


 男の口元の無精髭が柔らかく歪む。それを見てアイリーンは、もうこれは目の前の男を信じるしかないと腹を括り、ぺこり、と一礼すると、そそくさと扉を開けて廊下に姿を消した。


 男はそれを確かめると、なおも身体に力の入らないヴィクトルの懐に素早く、いかつい手を滑り込ませる。

 赤い髪の男の手によって、隠し持っていた銃がごとり、と床に転がる音が、朦朧とした意識のなか、やけに大きくヴィクトルの耳に響いた。

 ついで、こう笑う、男の声も。


「さて、と。これで危ないブツも取り除かせて貰ったんで、ゆっくり話が出来るぜ。なあ、ヴィクトル・ボイツェフ少尉」

「……貴様、何者だ……?」


 言いよどむこともなく、己の名前と階級をはっきり口にしてみせた男の緑色の瞳を、ヴィクトルは気力を振り絞って睨み付けた。しかしその鋭い眼光に臆さず、赤い髪の男はさらり、と自分の正体を明かして見せた。


「俺の名は、アッツォ・リントネン。いや、お前さんには、名前よりも、「蒼い羽」のメンバーだと言った方が理解が早いかな?」


 ヴィクトルの端正な顔が、驚愕に歪んだ。

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