――「蒼い羽」。
ヴィクトルにとっては嫌というほど聞き覚えがある組織名だ。
タハによる恐怖政治の傾向を強めるユーラシア革命軍政府下で、いま、いちばん活発に活動している反政府勢力である。結成からはまだ日が浅いが、ここ数年間で一挙に台頭し、その支持層は、いまや、もとから政府に批判的だった人物のみならず、タハ政権に怯える一般民衆にも浸透し始めている。活動こそ他の勢力のように、武力でインフラを破壊するなどの派手さはなく、むしろデモやサポタージュといった穏便なものであったが、いくら当局が取り締まっても、どこからともなく活動の種は再び蒔かれていき、息を吹き返す根強さがあった。
「連合国の犬か……」
ヴィクトルが憎々しげに、リントネンの顔を睨んで呻く。
人々が「蒼い羽」の強固な基盤の裏には、敵対勢力である連合国の支援があると噂するようになってから久しい。いや、噂だけでなく、どうやら連合国が「蒼い羽」の資金源らしい、との情報はヴィクトルも政府軍の一員として把握していた。なので、その名を聞いて彼はまずそう零さずにはいられなかったわけだが、対するリントネンは飄々としたものだ。
「そう言われても結構だが、ちなみに医者というのも嘘じゃないぜぇ。だから、ここはおとなしく診察させろよ、ボイツェフ少尉。……ふむ、話には聞いてはいたが、彼氏どの、相当派手にあの爺さんに
「……やめ、ろ」
「手当てもしてもらえなかったのか、まったくひでぇなあ。これじゃ、如何に強靱なターンの被験体であっても、せっかくの身体能力は発揮できねえわな」
「……!」
「まあ、そのおかげで、こうやってお近づきになって、お話しできる機会に預からせていただけてるわけだが、ね」
国家機密中の機密であるターンという言葉が、何の前触れもなくあっさりと出、そして己がその被験体であることをリントネンが看破していることにヴィクトルは思わず言葉を失った。
しかし、さらなる驚きに身を震わせるヴィクトルにリントネンは構うことなく、その胴に点々と赤黒く残るタハの靴跡に視線を投げている。そして、懐から消毒液の瓶と脱脂綿を取り出し、傷の手当てを始めた。
「……うっ!」
「染みるよなぁ。ちょっくら我慢しろよぉ、彼氏どの」
高熱に火照る顔を顰めたヴィクトルに、リントネンはおどけるような口ぶりで語りかける。しかしそのどこかふざけた口調とは相反して、リントネンの手つきには迷いがなく、彼が医療行為を長けた本物の医師であることをヴィクトルにも知らしめるものであった。彼はぼうっ、とした頭を必死で働かせて、考える。
――どうやら、この男は俺を本気で治療しているようだ。どういうことだ? 「蒼い羽」からしたら、閣下の親衛隊員など、憎むべき敵でしかないだろうというのに。
そうヴィクトルが思考を混乱させているうちに、リントネンはさっさと化膿していた腹部の三箇所の傷に、慣れた手つきで包帯を巻き終わっていた。それから、彼はヴィクトルの胴をひょい、と持ち上げ、上半身の衣服を全て脱がす。そして、新たに露わになった両腕を一瞥する。そこには無数の浅黒い注射痕が穿たれていた。
リントネンが呆れたように呟く。
「ふむ。腕にはたいした傷はないな。これなら今手当てした傷の化膿がもうちっと収まりゃ、熱も下がるだろう。しかし、それにしても、古い痕とはいえ大分目立つぜ、注射痕。やはり、お前さんもターンの被験体としてご多分に漏れず、ひでぇ目に遭ってるんだな。まあ、だから、お役目は立派に果たせるっていうもんだけどな」
その意味深な台詞を、ヴィクトルの耳は、意識を朦朧とさせながらも聞き逃さなかった。
「……役目? 俺に、何の役目を果たさせようって言うんだ? 貴様の目的は何だ!?」
「おお、熱に浮かされながらも、肝心なところはちゃんと聞いてるもんだなあ。流石だよ、ボイツェフ少尉。なるほど、タハの爺さんに、息子同然に可愛がられていただけはあるなぁ」
「貴様は、そこまで俺の素性を知ってるのか」
「さてね。だがそれも過去のことだよなぁ。あの伝説の英雄、「
「そんなことまで……」
「まあね。俺たちの情報網を舐めて貰っちゃ困る、ってわけよ」
ヴィクトルは絶句する。そんな寝台の上の彼を、リントネンは赤い長髪を揺らしながら、面白げに見下ろしていた。しかし、その緑色の瞳は、いつのまにかに、険しい色を成している。
そして彼は、おもむろに、それまでと異なる鋭い口調で、ヴィクトルにこう迫った。
「ヴィクトル・ボイツェフ。お前さんは、自分の人生を取り戻したくないのか」
「どういう意味だ」
「言葉通りの意味だよ、ボイツェフ少尉。あんな爺さんの言うがままに、このまま死んじまっていいのかぁ?」
今度、その青い目に鋭いひかりを宿したのはヴィクトルだった。シベリアの闇のなかを疾走する列車のなかで、ふたりの視線が交差する。ヴィクトルとリントネンは、暫し、無言でにらみ合った。互いの腹を、その言葉の意味を、探り合うかのように。
やがて、鋭い眼差しを先に和らげたのはリントネンだった。
「……熱がまだ辛いだろう。今日はこのくらいにしておこう、彼氏どの。俺たちの目的は、また後日教えてやるよ。それまでに、自分の人生についてよく考えておくんだな」
「連合国の犬が、何を、偉そうに……!」
すると、リントネンが灰色のコートに医療用具を仕舞い込んでいた手を止めた。そして、横たわるヴィクトルの顔を覗き込みながら、口元の無精髭を皮肉げに歪ませる。
「連合国の犬。まあ、そう呼ばれても仕方ないわな。しかし、俺たちは彼らの轍は踏みたくないんだわ。指導者サリ、黒豹のセルジオ、
「俺の、ような……」
「そうだ。俺たちはどうせなら、もうちょっと上手くやってみせるよ。そのために連合国と組んでいる。それだけのことさ」
困惑するヴィクトルにリントネンは、こともなげにそう言うと、緑色の瞳を瞬かせてウィンクを投げて見せた。そして再びコートの懐に様々な器具を入れると、扉に向かって身を翻す。赤い髪がばさり、とヴィクトルの視界で揺れる。
だが、ドアを開ける寸前、リントネンの瞳はもう一回、肩越しにヴィクトルと視線を交差させた。
「ああ、そうだった。最後にひとつ預言しておこう」
そしてリントネンはゆっくりと、こうヴィクトルに告げた。
「お前さんは、あのお嬢さんを殺せないだろうなぁ」
「……どうしてだ」
栗色の髪を乱し、上半身裸のままで、寝台に転がるヴィクトルが、リントネンの言葉に声をちいさく震わせる。
それに対するリントネンの返答は極めて明解なものだった。
「それをしちまったら、お前さんは、お前さんの父とまったく同じ人間に、成り下がるからだよ」
リントネンの放った言葉がヴィクトルの頭の中で、ぐわんぐわんと反響する。それは彼の後ろ姿が扉の向こうに消え失せても、暫くの間、ヴィクトルの脳内で鳴り止むことはなかった。