「きゃああああ!」
リントネンと入れ違いに客室へと入ってきたアイリーンは、ヴィクトルを見るや、素っ頓狂な悲鳴を上げた。その顔は真っ赤だ。見開かれた菫色の瞳は、動揺、そして隠せない羞恥に揺れている。それを見て、ヴィクトルはアイリーンの悲鳴の意味を悟り、慌ててリントネンに剥がれたままベッド脇に放られていたシャツを羽織った。
――そうだった、この娘は半裸の男など見慣れてないのだった。
熱に火照る頭で、そう思い返しながらヴィクトルは、そんな男慣れしてないアイリーンとふたり旅をしているという現実を改めて思い返し、なんだかその現況が、少しだけ、可笑しくなる。もちろんこの旅はタハからの命令であって、そのうえ、旅の真の目的はアイリーンには明かせないものであるのだが。
そしてそんなことを皮肉に思うほどには、自分の心と身体に余裕が出てきていることに気付く。リントネンの治療により、たしかに多少ではあるが、ヴィクトルの体調は回復しつつあったのだった。
――まったく、目的は分からないといえども、この俺が、「蒼い羽」のメンバーに助けられるなんてな。どうなってるんだ?
先ほどよりかははっきりしてきた頭で、ヴィクトルは服を着ながら、リントネンのことを思い返す。思い返しながら、ちらり、とアイリーンの様子をも見る。すると、彼女はなおも顔を真っ赤にしながら、顔を壁の方へ向け、ヴィクトルの着替えを見ないようにするのに必死だ。その様子がいかにも彼女らしくて、それを少し微笑ましく思ったのもつかの間、ヴィクトルの表情が瞬時に固まった。
アイリーンの両手には何かが握られていた。
右手には、何かが入った紙の容器。そして左手には、赤い錠剤が入った瓶。ヴィクトルが目を剥いたのは瓶の方だ。なぜなら、その瓶に詰められた錠剤は、あまりにも彼にとって見覚えのあるものだったから。
それは、いままで彼の命を繋いできた存在、他ならない。
「アイリーン! その薬は!?」
「あ、これ?」
そこでアイリーンの顔は、ようやくヴィクトルの方を向く。そして、彼の着替えが終わってるのを見て、心から安堵したような表情を見せると、瓶をヴィクトルに手渡しながら説明を始めた。
「リントネンさんって言うんでしょ? あの、あなたを手当てしてくれたお医者さん。あの人がくれたの。この薬はいまのあなたには効くはずだから、渡してくれ、って」
「……あいつ」
アイリーンの手から瓶を受け取ったヴィクトルは、リントネンの名を聞いて、思わず低く呻いた。ますます、ヴィクトルには訳が分からない。タハに用意すらしてもらえなかった、自分の命を保つ薬がなぜ、敵であるはずの男の手から手渡されるのか。
だが、この状況下においてはありがたいことには、変わりない。
ヴィクトルには不安だったのだ。自分の身体は、アイリーンと月に辿り着くまで、保たないのではないかと。そうとなっては自分に与えられた「任務」すら、果たしようがない。
――となれば、リントネンの真意は分からないものの、ひとまず受け取るしかないな。
ヴィクトルはそう心のなかで独り言つ。すると、いきなり、アイリーンが右手に持っていた紙容器を、おずおずと、ヴィクトルの顔に前に差し出した。そして彼女が、茶色のくせ毛を揺らしながら、ちいさな声で呟く。
「ストロベリー……」
「え?」
「ストロベリーのアイスクリームよ、食堂車のシェフに頼んで作ってもらったの。連れが熱を出していて、食事を食べられないかもしれないから、って」
そう言いながら、アイリーンはベッドに半身を起こしたままのヴィクトルににじり寄る。そしておもむろに紙容器に差し込んであったプラスチックのスプーンでアイスクリームをすくうと、ヴィクトルの唇に差し入れようとする。
「ほら、口開けて」
「えっ……?」
「熱、辛いんでしょ? 食べさせてあげるから。ほら、早くしないと溶けちゃう」
アイリーンが菫色の瞳を光らせながらヴィクトルに迫る。そこに湛えたひかりは、真剣この上なくて、ヴィクトルはその迫力に押されて口を開く。するとアイリーンが、ひと匙、ふた匙、とアイスクリームをヴィクトルの唇に差し入れる。
冷たく、あまい感触が、ヴィクトルの熱で火照る口内に、じんわり、染みる。
そして、アイリーンに成されるがまま、アイスクリームを半分ほど食べ進めたところで、ヴィクトルが堪えきれないとばかりに、笑った。
「……アイリーン、君は母親みたいだな」
「……え?」
アイリーンが瞳をぱちくり、とさせる。そして、彼女は、戸惑ったように呟く。
「母親、って、どういうものなのかしら」
「君は、その人にこれから月に、会いに行くんだろう」
「そうだけど……でも、私、幼い頃いっしょにいたあの人が、まさか母だなんて思ってなかったから」
そこで、ヴィクトルはタハから教えられたアイリーンとレベッカの幼い頃の関係を思い返す。
「そうか、君は、彼女と同居していた間も、母とは知らずに接していたんだもんな」
「ええ、私、だから、母親っていうものがなんなのか分からないし、それに、とにかくびっくりしてる。だって、朧気な記憶だけど、ちいさな頃の私、寝たきりの母を“怖いお姉さん”と思いながらも、好きにならなきゃ、っていう気持ちもあって……。それで、戸惑いながら接していた思い出があるの」
「ほう。なんで、彼女を、好きにならないといけないと思ったんだ?」
「それは……」
アイリーンの瞳が遠い昔を思い出すような色に揺れた。アイスクリームとスプーンを持ったままの彼女は、しばし考え込むような仕草をしていた。そして、何かを、じっ、と思い起こすような。
やがて、アイリーンの目が、ヴィクトルの青い目を射った。アイリーンの唇が、ゆっくり、動く。
「……思いだしたわ」
そう話し出したアイリーンの表情は、懐かしさに満ちていた。言葉を紡ぐ、その口ぶりも。
「それは、父が、それはそれは、いつもとても優しい眼差しで母の世話をしていたからよ。私、それを見て、お父さんが大事にしているんだから、この人はきっと、いい人なんだろう、って無条件に思い込んだのよ。そうしないとお父さんが悲しんじゃうから、私もこのお姉さんを好きにならないと、って」
ヴィクトルはベッドの上で、アイリーンの思い出話に耳を傾ける。
そして、暫しの間を持って、こう言った。
「つまりは、君は父であるジーン・カナハラを好きだった、ってことだな」
「それは……」
「だって、そうだろう。好きな人を悲しませたくなかった、っていうことじゃないか」
そのヴィクトルの言葉に、アイリーンは顔を伏せて黙りこくった。しばらくふたりの間には、列車が線路を走る音だけが響き渡る。
やがて、視線を床に投げたまま、アイリーンがちいさく囁いた。
「……そうかもしれない。私、お父さんが好きだったのかも、しれない……」
ヴィクトルにはそう呟いたアイリーンの表情は見えない。だが、彼はこう声をかけずにはいられなかった。
「それに気づけたことは、いいことなんじゃないか? アイリーン」
「……分からない」
なおも顔を下に向けたままのアイリーンが語を継ぐ。そして、ゆっくり顔を上げると、ヴィクトルの顔を見つめ、彼女はこう零した。困惑の色が躍る表情で。
「だって、たとえ私が幼い頃、父が好きだったとしても、それで父が犯した罪が変わるわけじゃないし。それに、父のせいで私、ずっと辛い目にあってきたのも、やっぱり変わらぬ事実だし……」
「アイリーン、君の父の罪はこの際、どうでもいいんじゃないか」
「どうでもよくはないわよ。だって、父のせいで辛い目に遭った人もいっぱいいるわけだし」
「それはそうだ。だが、ジーン・カナハラのせいで幸せになった人も、少なからず、いる。少なくともカナデ・ハーン、そして君のふたりは、間違いなく、そうだ」
アイリーンが、はっ、とした顔をヴィクトルに向ける。それを見つめながら、なおもヴィクトルは彼女に言葉を紡ぐ。
「だから、君の父が他人にとってどうであった、というのはあまり考えなくて良いんじゃないか。あくまでも、君にとってジーン・カナハラがどんな人間であったか。それを考えてみるのが、君が彼の生を捉え直すための手がかりなんじゃないかと、俺は思うよ」
ヴィクトルは一気にアイリーンにそう説いた。だが、その直後、彼の青い目もまた、困惑に揺れる。
「……なんて、俺が偉そうに言えた義理じゃないんだけどな」
「ヴィクトル?」
「俺はきっと、死ぬまで自分の父を許せないだろうから」
するとアイリーンがすかさず問うた。手の中のアイスクリームはほぼ溶けかかっていたが、もはや、アイリーンにはそれは目に入っていなかった。
「ヴィクトル、じゃあ……あなたのお母さんは、どういう人だったの?」
「……俺は、正直、母のことは良く分からない」
ヴィクトルが自嘲するように言う。それから彼も、昔を思い出すような口調で、自分の母について、噛んで含めるように語りはじめた。
「母は、俺が十四のとき死んだんだけどな、良く分からない人だった。悪い母親じゃなかったとは思うよ。俺に優しかったし、俺をターンの被験体にすることを抗えなかったことを、いつも俺に謝っていた。だけど理解できないのは、俺に対する母の口癖は、どうか父さんを憎まないで、だったんだよ。死ぬまで、ずっと」
――どうか、父さんを憎まないでね、ヴィクトル。
そう幼い自分に語る母の面影がヴィクトルの胸に過ぎる。それを感じながらも、彼は語る。
「だって、おかしいだろ? 自分を乱暴した男をだよ。しかもその末に、自分の息子を喜んで被験体にした卑怯な男なんだぜ、俺の父は。それを普通、憎まないでいられるわけ、ないじゃないか。なのに、俺の母は俺に繰り返し言ってたんだ。父を憎むな、と。……俺は母の死後、タハ閣下の保護下にに引き取られてからも、母の言葉についてずっと考えていた。でも、だ。閣下から父の実像を聞けば聞くほど、父は糞みたいな人間だったとしか思えないんだ」
そして彼は、溜息をつくように、こう、己の母の話を打ち切った。
「だから俺は、母のことがいまだに分からない」
列車はなおも闇のなかを走り続けていた。振動とともに、客室に照明の灯が跳ねる。ヴィクトルとアイリーン、ふたりの顔に、ひかりと影が交差する。
やがて、アイリーンが、ぽつり、と言った。
「……ねえ、ヴィクトル、もしかしたら、それも、私の父と同じことなんじゃないの?」
「ジーン・カナハラと? ……馬鹿言え。俺の父は、君の父のような高潔な人間であるはずは、ない」
「そうかもしれないけど。でも、同じというのは、つまり、周りにとってどうであれ、あなたのお母さんにとっては、あなたのお父さんも、悪い人間じゃなかったんじゃないか、って。……そういうことよ」
アイリーンの言葉に、ヴィクトルは虚を突かれたようになった。
なりながらも、低い声で呟く。
「……馬鹿馬鹿しい。そんなこと、あるはずない。でも」
「でも?」
「そう考えたことはいままで、露ほどに、なかったな」
そうちいさく囁くと、ヴィクトルはアイリーンの手から、ほぼ溶けてしまったアイスクリームを受け取り、今度は自分で食べ始める。
夜が更けていく。
目的地のオムスクに向かって、列車は立ち止まることなく、疾走していく。
そして、その先への、月面へと向かって。