――それをしちまったら、お前さんは、お前さんの父とまったく同じ人間に、成り下がるからだよ――。
その言葉のあと、結局、リントネンとヴィクトルが深い会話を交わす機会はなかった。それからオムスクに着くまで、ヴィクトルは寝台に横たわって安静に努め、よって客室を出ることもなかった。食事は、今度は配膳マシンを確保したアイリーンが毎食持ってきてくれていたし、彼自身にも、ここで体力を保持しておかないと後が保たない、という危機感があった。そして、リントネンもふたりのもとを訪れては来なかった。
リントネンのさらなる正体と、自分への狙い。それがなんであるのか。
ヴィクトルにはそれが気に掛かってしかたなかったが、彼は一介の乗客を装っており、ここで強引に迫って騒ぎを起こすわけにもいかない。こちらから赴こうにもリントネンの客室はアイリーンも知らない。
ヴィクトルの体調はオムスクに着く頃には完全に回復し、ターンとしての能力も遺憾なく発揮出来る状態になっていたが、それはリントネンの渡してきた赤い粒の薬――つまり、ターンの後遺症を抑制する薬――のおかげほかならない。ヴィクトルはそれを服薬する度、リントネンに礼を述べ、同時に彼を問い質す必要があると思わずにいられなかったが、環ヨーロッパ=シベリア高速鉄道は、三日の時間を経て、予定通りオムスクに到着してしまったのだった。
ところが、彼は最後の最後に姿を現した。
あと数分で列車がオムスクに到着する時分になり、アイリーンとヴィクトルがトランクを抱えて下車口に佇んでいたところ、なにやら廊下の隅で身体を密着し合ってる男女がいる。そのふたりは堂々と抱き合い、しまいにはキスを交わす痴態を列車内で晒していたので、アイリーンもヴィクトルも、これは関わり合いになるまいと目を背けたのだ。
ところがどっこい、その男の赤い髪が揺れてこちらをニヤリと見、悪戯っぽく緑の瞳が揺れるのを見てしまったアイリーンが叫んだ。
「リントネンさん……!」
「おう。お嬢さんにはちいっと、刺激の強いところをお見せしてしまったかなぁ?」
そう言ってヴィクトルとアイリーンに笑いかけてきたのは、他でもないリントネン他ならなかった。相変わらずの無精髭は女のものらしい口紅の跡がくっきりと残り、シャツははだけ、髪はいかにも「事後」であることを示すようにぼさぼさ、というていたらくではあったが。首にはキスマークらしき徴さえみえる。その様子はどこからどうみても
だからこそ、この男は曲者なのだ、とその様子を見てヴィクトルは、赤くなるアイリーンの前で表情を険しくした。
「よぉ、彼氏どの。怖い顔していやがるなぁ。その様子だと、調子は戻ったかい?」
「……おかげさまでな」
「やだ、なにすごい顔しているの? ヴィクトル、お礼を言わなきゃだめじゃない! あなた、治療してもらったんだから!」
なおも女の金髪と腰を弄り、にやにやしているリントネンから目を背けつつ、彼の正体など何も知らないアイリーンがヴィクトルに叫ぶ。しかしヴィクトルはアイリーンに構うことなく、リントネンに厳しい口調で畳みかける。
「貴様の狙いはなんなんだ? なぜ、俺を助けた? それも薬まで寄こして!」
「おおっと、いろいろ俺も彼氏どのと話したいのは、やまやまなんだけれどなぁ。どうやらの時間切れのようだぜぇ」
そのリントネンの軽口に重なるように、もうすぐ列車がオムスク駅に到着する旨の車内アナウンスが響いてくる。それを示すように、列車は急速に減速を始めつつあった。途端に激しく揺れる車内でアイリーンは転ばないようにふんばりながらも、リントネンとヴィクトルのやりとりを、ぽかん、として見ている。
「……お前はここで降りないのか?」
「ああ、俺はもうちょっと、このお姉さんとこの列車でお楽しみの時間を過ごすのさ。下車駅ももうちょっと先だしな」
「どこまで行くんだ」
「終点のワルシャワさ。ちょっと野暮用があってねぇ」
「連合軍の支配地域か。さすが、奴らの犬だな」
「これはこれは、お褒めに預かって光栄です、彼氏どの」
投げかけられた皮肉をものともせず、リントネンはおどけてヴィクトルに礼をしてみせる。列車は急ブレーキを掛けながら、オムスク駅のホームに滑り込んでいく。そして、ガタン、と大きく車体を揺らし、停車すると、下車口のドアが開く。
「もーやだ、何言ってるの。もう降りなきゃ、ヴィクトル。ごめんなさい、リントネンさん」
開け放たれた扉から外の冷気が吹き込んでいる。アイリーンはなおもリントネンを睨み付けているヴィクトルのコートの裾を掴み、慌てて連れの非礼を詫びた。くせ毛の肩までの茶色の髪が、頭を下げた勢いで、ぴょこん、と跳ねる。
するとリントネンの無精髭が柔らかく歪んだ。
「ああ、いいってことよ、お嬢さん」
「本当にお世話になりました!」
「礼はまた今度してもらうからさぁ、いいんぜぇ」
「……え? また?」
アイリーンが菫色の瞳を瞬かせる。下車口から身体をホームに滑り出させていたヴィクトルの身体も、びくり、と動く。だがリントネンの微笑はそのままで、動じるということを知らない。
そのとき、ホームには早くも発車のベルが鳴り響き始めていた。治安維持の都合上、環ヨーロッパ=シベリア高速鉄道の途中駅停車時間は僅かなのだ。リントネンが下車口のふたりを急かす。
「ほら、扉が閉まっちまう。早く降りな。じゃあ、また会おうな、おふたりさん」
「お前……!」
「積もる話は、そのときにな。それまでせいぜい生き抜けよ、ヴィクトル・ボイツェフ少尉!」
そのリントネンの声とともに、列車の扉は閉まった。そして、列車はまたたくまにスピードを上げて走り出し、彼の姿もあっという間に風に溶けて消えていく。アイリーンとヴィクトルは、オムスク駅のホームに降り立ったまま、ただ去りゆく列車を見守っているしか術がなかった。
列車がシベリアの白い靄のなかに消えていく。
そして、空に目を向ければ、昼間の空に浮かぶ、これまた白い真昼の月が見えた。
ふたりは、なんとはなしにそれを見上げる。
「……ついに、これから私、あそこに行くのね。母に会うために」
「……ああ」
感慨深げに月を見上げるアイリーンの隣で、ヴィクトルも頷く。彼もまた、まったく別の感慨を持って。
――あそこが俺の死地か。もう地球に戻ってくることもないんだな。そうだ、それは、俺だけじゃない、アイリーンもだ。
彼は心のなかで独り言つ。だが、彼は揺れ動く感情を露わにすることはなく、ただ、隣に立つアイリーンの顔を、ちら、と見た。そして、彼は何度も旅が始まって以来、胸のなかで問うてきた疑問を、いま再び、噛みしめる。
――俺は、閣下の命令通り、月でアイリーンを殺せるのだろうか? それとも、あいつの言うとおり――。
それから彼はもう一度、アイリーンとともに、空に浮かぶ月を眺める。しかし、月はふたりを見守るばかりで、何も答えは下さない。
ただ、ふたりを迎え入れるべく、青く澄み切った空へと、静かに浮かんでいる。