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第59話 月面ステーション

 ――前にも、こんなことがあったような気がする。


 アイリーンは漆黒の宇宙のなか、白く浮かび上がる月面が目前に迫ってくる様子を窓から見ながら、ふと、考えた。覚えているはずはないのだが。何しろ、そのときはまだ三歳であったと聞いている。しかし、そう思ってみると、なんだか、目の前に浮かぶ月に既視感を感じてしまうから、不思議だ。

 そして、そのときは隣にいたはずの、父ジーンのことも、まるで今も傍にいるように感じてしまう。


 あれから――列車のなかでヴィクトルに、父の生を捉え直す新しい視点を助言されてから――、アイリーンは幾度となく父のことを思い返していた。

 非人道的な実験に手を染めた恥ずべき男。

 だけども、その一方で、亡くなったカナデ、これから会う母、そして他でもない自分の命を守り抜いた人間。


 そのどちらの実像も、父ジーンの真実であるということが、アイリーンの心をかき乱す。


 ――アイリーン、人間は誰もが、望まぬ罪を犯す可能性のある生き物なのよ。だけどジーンは、贖罪のために精一杯生きて、死んだ――。


 いまは亡きカナデが、真実をすべてアイリーンに話したあの日、言った言葉。それをアイリーンはいまさらのように胸中で反芻させてみる。


 ――人間という生き物が、そうなのならば、私だってそうなのかも。ただ、気づいてないだけで。そうだとすれば、父も私と同じく、ただ、ひたすらに平凡な人間なだけだったのかもしれない。


 アイリーンは、今は記憶の彼方になってしまった遠い日、自分は、そして父はどんな思いでこうして近づく月を眺めていたのだろうか、と想像する。過去を思い返すことはできない。だから考えるしかない。父がこれから自分が行う非道な任務について、どう考えを巡らせてたのだろうかと。懊悩していたのだろうか。それとも毅然としていたのだろうか。分かりようはない。だが、カナデの言葉を信じるのなら、きっと、前者だったのだろう。


 しかしながら、同時に、おそらく隣の席にて無邪気に月を眺めていただろう幼い自分を守ること、そのことについては、腹を括っていたこと、それは間違いないはずなのだ。

 そこまで考えて、愛というものは、ときに人を罪へと駆り立てるものなのだと思い至り、アイリーンは思わずぶるり、と、心を震わせた。


 ――私が父を理解できないとしたら、それほど大きな愛を、私がまだ知らないせいかもしれないなぁ。


 ぐんぐんと近づいてくる、クレーターが広がる荒涼とした月の表面を見ながら、アイリーンは、そんなことを思っていた。

 一方、隣の座席に座るヴィクトルは、端正な顔立ちをひたすらに無表情に貫いている。

 列車を降り、オムスク宇宙港からこのシャトルに乗るに従い、彼の顔からだんだんと感情が消えていく気がして、そのことをアイリーンは訝しく思っていたが、その理由を深く考えることはしていなかった。



「ようこそ、月へ。私は保護施設の職員、マナ・カノンよ」


 月面ステーションは、規模の割に閑散としていて、宇宙船から降りてきたふたりは、すぐに目を留められて声を掛けられた。そう言ってヴィクトルとアイリ-ンを迎えたのは、朴訥とした穏やかな印象の、金髪をミディアムボブに整えた太った中年の女だ。保護施設の制服らしいグレーの服の胸には、ちいさな勲章が揺れている。タハのものほど大きくないそれへと目を凝らして見れば、中心のメダルには国家創設者のレ・サリの横顔が刻印されており、それは彼女が国家の功労者であることを示している。しかし、彼女はそんな重々しさとは無縁のおおらかな笑顔で、アイリーンに微笑みかけた。


「あなたがアイリーン・カナハラね。ふふ。お母さんにそっくり」

「母のことを、ご存じなんですか?」

「もちろんよ。お母さん、あなたにとても会いたがっているわよ」


 カノンは緊張して言葉もたどたどしいアイリーンに、勲章をしゃらしゃら鳴らしながら、太った身体を揺すり笑ってみせる。その笑顔をにほだされるように、ようやくアイリーンも顔をほころばせる。彼女は菫色の瞳を安堵の色に揺らして、カノンが差し出した右手をぎゅっ、と握った。

 ふくよかなカノンの掌は、あたたかった。


 ――いわゆる世間でいう「お母さん」みたいな人だわ。よかった、母がいい人に世話されていて。


 アイリーンは胸中で呟く。一方、横に立つヴィクトルは変わらずの無表情だ。だが、そんな彼にもカノンは優しく微笑み、声を掛ける。


「はじめまして。ヴィクトル・ボイツェフ少尉ね。任務、ご苦労様です」

「はじめまして、マナ・カノン保護員」


 カノンは続いてヴィクトルに手を差し伸べ、ふたりも握手する。しつつも、カノンは固い顔つきのヴィクトルに柔らかく声を掛ける。


「少尉。そろそろあなたがたの荷物がカウンターに出てくる頃だわ。いっしょに取りに行っていただけるかしら。アイリーン、ちょっと待っていて頂戴」

「分かりました」

「え? 自分の荷物くらい、私、取りに行けますよ。たいした量でもないですし」


 即答したヴィクトルを連れてカウンターの方向に身を翻したカノンに、アイリーンが慌てて声を掛ける。するとカノンはあいかわらずの穏やかさで太った身体を揺すりながら答える。


「いいのよ、アイリーン。これくらいは歓待させてくださいな。あなたは大事なお客さまなんだから」

「……はぁ」

「あなたひとりの荷物なら、わけないから安心していて。行くわよ、ボイツェフ少尉」


 結局、カノンはアイリーンにウインクまでして見せて、ヴィクトルとカウンターに向かってしまった。アイリーンはいささか間抜けな返事を口から漏らしたまま、ステーションのゲートにひとり所在なく残され、ふたりの後ろ姿を見送るしかなかった。



「はじめまして、なんて、よくと言えたもんだな」

「あなたもね、ヴィクトル」


 自分たちふたりを見送るアイリーンの視線に、むずがゆいものを感じながらカウンターへと歩みゆくヴィクトルは、鋭く言葉を零した。対するカノンの返事は、悠然としたものだ。だが、その言葉には、さきほどからの穏やかな口調はそのままにしながらも、多少棘が含まれている。


「まさか、あなたがこの極秘任務の遂行者とはね。驚いたわ。閣下はよく思い切ったものね。ねえ、ヴィクトル、あなた、なにをやらかしたの?」

「あなたには関係ないことだ。それに、閣下の気性の荒さは同じ親衛隊員なら、分かっているだろう」

「元、隊員だけどね。まあ、そういうことなら大体、察しが付くわ。……ところで、任務遂行はあのがレベッカ・カナハラとの再会を終えたら、数日以内に、すぐよ。準備は出来ている」

「ずいぶん、用意がいいんだな」

「そうよ、あなたがあの娘に変な慈悲をかけないうちにね。それとも、もう、そんな気分になりかけてる?」

「馬鹿言え」


 ヴィクトルは栗色の短髪をやや乱暴に振り乱して足を止め、カノンを睨み付けた。透き通った青い瞳には、それまでアイリーンには見せぬようにしていた、なんとも言い表しがたい感情が揺れている。

 彼は喉から絞り出すような声で、カノンを睨み付けたまま、同じく足を止めた彼女を問い質す。


「あなたこそ、覚悟は出来ているのか。この任務に関わる以上は、あなたの命も一蓮托生だぞ」

「そんなものは、ここに送られたときから、とっくよ。それに私は、国に命を捧げている」

「それは俺も同じだ。というか、あなたの忠誠心は国というより、閣下個人へだろう」

「そうだったら、よかったんだけれどね」


 カノンは唇をやや苦笑いに歪めながら、ヴィクトルの顔を見返した。そして、ゆっくりと、人の少ないステーションを見渡す。


「とにかく、もう、我が国の力では月面の維持は限界よ。近年はここを守るべき軍さえも派遣されていないから、月の住民も大半は地球に退避していて、見ての通りの寂しさよ。まあ、仕方ないわね。連合国の進攻も時間の問題だもの。保護施設の撤去と被験体の移動にも間に合わない程度に」

「分かっている。だからこその、被験体の抹殺だ。それとその秘密を知る者を、一気に消さねば。連合国に情報が漏れぬうちに」

「そのとおりよ。……でも、私が分からないのは、閣下がこの一刻を争う事態に、アイリーン・カナハラに母親との面会の猶予を与えたことよ。そんなことせず、あの娘なんて、地球で簡単に殺せたでしょうに。そのことはなにか閣下から聞いている? ヴィクトル」

「聞いていない。俺だって、閣下のことは分からないことだらけだ。そんなことより、アイリーンをあまり待たせると、怪しまれるぞ。行こう」


 ヴィクトルは吐き捨てるように、そう語を放った。そして、カウンターに向けて再び歩き出す。

 それを見たカノンは、ふくよかな身体の肩をすくませる。そして穏やかな笑みをいまだ崩さぬまま、かつての同僚の後を追った。

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